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無限の檻  作者: 内藤晴夢
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18/20

18.無限の檻


翌朝、次郎は約束の場所へ向かおうとしていた。


午前十時。


美鈴が次郎の自宅を訪ねてきた。


「本当に行くつもり?」


「行かなければ、父さんのことが分からない」


「相手が誰なのかも分からないのよ」


「だから行くんだ」


美鈴はため息をついた。


「あなたって、本当に懲りない人ね」


「好奇心は学問の原動力だからな」


「無謀は事故の原動力よ」


次郎は笑った。


「今日は一人じゃない。君がいる」


美鈴は少しだけ表情を和らげた。


「それならいいわ」


二人は白砂研究所へ向かった。


午前10時42分。


地下の実験室には、あの白い部屋の写真と同じ椅子が二つ並んでいた。


その間に、小さな机が置かれている。


机の上には、一冊のノート。


表紙には、こう書かれていた。


『琴葉正一 最後の記録』


次郎はノートを開いた。


最初のページには、父の字でこう記されていた。


『私は、次郎を守るために実験を始めた。


しかし、実験を続けるほど、次郎を危険にさらしていることに気づいた。


私は一つの間違いを犯した。


それは、次郎の未来を知ろうとしたことだ』


次郎はページをめくった。


『未来を知れば、失敗を避けられると思っていた。


しかし、未来を知ろうとすることで、私は次郎の選択を奪っていたのかもしれない』


美鈴が隣からノートをのぞいた。


「お父さんは、あなたの未来を変えようとしていたのね」


「そうらしい」


「でも、どうして?」


次郎は答えられなかった。


そのとき、実験室のスピーカーから声が聞こえた。


『次郎』


父の声だった。


『来てくれたんだな』


「父さん!」


『その椅子に座ってくれ』


美鈴が次郎の腕をつかんだ。


「待って。まだ座らないで」


『美鈴さんも一緒ですか』


「あなたは誰ですか?」


美鈴が問いかけた。


『琴葉正一です』


「本当に?」


『少なくとも、あなたたちが知っている琴葉正一です』


次郎は椅子を見つめた。


「父さん。僕に何をさせたいんだ?」


『記憶を返してほしい』


「記憶?」


『お前が持っている、私の記憶だ』


次郎は息をのんだ。


「どういうことですか?」


美鈴がスピーカーに向かって尋ねた。


『私は、あの実験で自分の記憶を記録装置に残した。次郎が生まれた後、その記録の一部が次郎の記憶と結びついた』


「そんなことが可能なの?」


『科学的に説明できるかどうかは分からない。ただ、私はそう考えている』


次郎は椅子に近づいた。


「つまり、僕の中には父さんの記憶がある?」


『そうだ。しかし、それは私のすべてではない』


「じゃあ、僕は父さんなのか?」


『違う』


返事は即座だった。


『お前は、お前だ。私の記憶を持っていたとしても、お前が私になるわけではない』


次郎は少し安心した。


「じゃあ、なぜ記憶を返さなければならない?」


『その記憶が、私たちの世界を混乱させているからだ』


「世界を混乱させる?」


『お前は、私が経験した出来事を、自分の経験として覚えていることがある。そのため、記録の中で私とお前の区別がつかなくなっている』


美鈴が口を挟んだ。


「それなら、記憶を返すというのは、単に記憶を整理することなのではありませんか?」


『その通りです』


「でも、なぜ二つの椅子が必要なの?」


しばらく沈黙があった。


そして、父の声が答えた。


『一つの椅子には、私が座る。もう一つには、次郎が座る。二人の記憶を分けるためです』


次郎は椅子を見た。


「それで、何が起きる?」


『私にも分からない』


「分からないのかよ!」


次郎は思わず声を上げた。


美鈴が吹き出した。


「こんなときまで、親子で似ているのね」


そのとき、実験室の入口が開いた。


時守が立っていた。


「やめてください」


「時守さん?」


「その実験をしてはいけません」


スピーカーから父の声が響く。


『三浦さん。あなたは、まだ反対なのですか』


時守はゆっくりと部屋に入った。


「私は、あのとき反対した。あなたは自分の記憶を次郎さんに残そうとした。だが、それは次郎さんの人生をあなたの人生に重ねることだった」


『私は、次郎を守りたかった』


「守ることと、代わりに生きることは違います」


次郎は二人のやり取りを聞いていた。


「ちょっと待ってください。結局、父さんは何をしたんです?」


時守は答えた。


「琴葉正一さんは、実験によって自分の記憶が失われることを恐れていた。そして、その記憶を残すために、あなたの名前を使ったのです」


「名前を使った?」


「あなたが生まれる前から、実験記録にあなたの名前を書いた。あなたが将来ここに来ることを想定していたのでしょう」


「じゃあ、僕が被験者22だったのは……」


「未来のあなたを、過去の記録に書き込んだということです」


次郎は頭を抱えた。


「つまり、未来の僕が過去に来たという話ではないんですね?」


「今のところ、それを証明するものはありません」


美鈴が続けた。


「記録が未来の出来事を先に書いていた可能性もある。誰かが予測して書いた可能性もある。あるいは、私たちが時間の順番を取り違えているだけかもしれない」


次郎は二つの椅子を見た。


「それなら、実験をしなくてもいいんじゃないですか?」


時守はうなずいた。


「私はそう思います」


しかし、次郎はノートの最後のページを見つけていた。


そこには、父の字でこう書かれていた。


『無限の檻』


その下に、短い説明があった。


『人間は、過去の記憶から逃れられない。


未来を知ろうとすれば、未来に縛られる。


過去を変えようとすれば、過去に閉じ込められる。


その繰り返しが、無限の檻を作る。


出口は一つ。


自分が何を選ぶのかを、自分で決めることだ』


次郎は、その文章を何度も読み返した。


「父さんは、僕に何を伝えたかったんだろう」


スピーカーから、静かな声が聞こえた。


『次郎。私は、お前に私の人生を生きてほしくなかった』


次郎は顔を上げた。


『お前には、お前の人生を生きてほしかった』


しばらく沈黙が続いた。


『だから、最後に一つだけ頼みがある』


「何だよ、父さん」


『私を探すのをやめてくれ』


次郎の目に涙が浮かんだ。


「……それは無理だよ」


『なぜだ』


「だって、まだ聞きたいことが山ほどあるんだから」


スピーカーの向こうで、かすかな笑い声がした。


『そうか。やはり、お前は私の息子だな』


その声は、そこで途切れた。


実験室の時計が動き始めた。


午前10時47分。


五分間が過ぎていた。


研究所を出た三人は、しばらく無言で歩いた。


やがて、美鈴が次郎に尋ねた。


「これで、お父さんを探すのはやめる?」


「そうだな」


「本当に?」


「いや、たぶん無理だ」


美鈴は笑った。


「でしょうね」


次郎は空を見上げた。


父が生きているのか、もういないのか。


自分の記憶の中にいるだけなのか。


それはまだ分からない。


だが、一つだけ分かったことがある。


自分は父の人生を生きる必要はない。


そして、美鈴もまた、自分の人生を生きている。


そのとき、美鈴のスマートフォンが鳴った。


差出人は黒崎だった。


『至急、研究所に戻ってほしい。新しい記録が見つかった』


添付されていたのは、一枚の古い写真だった。


そこには、白砂研究所の実験室が写っている。


二つの椅子。


机。


そして、中央に立つ一人の女性。


白石玲奈だった。


写真の裏には、こう書かれていた。


『最後の五分間は、まだ始まっていない』


次郎は写真を見つめた。


「美鈴」


「何?」


「まだ終わっていないみたいだ」


美鈴はうなずいた。


「ええ。今度は、失敗しないでね」


「努力するよ」


「努力じゃなくて、約束して」


次郎は少し考えてから答えた。


「分かった。約束する」


二人は再び研究所へ向かった。

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