17.神代の本当の目的
「世界を分けたのは、私ではない。次郎、お前だ」
次郎は写真を机に置いた。
「神代さん。あなたは、何か知っているんじゃないですか?」
神代はすぐには答えなかった。
「知っていることもある。だが、確信しているわけではない」
「それでも構いません。聞かせてください」
神代は窓の外を眺めた。
「私は、玲奈を探すために白砂研究所の研究を続けてきた」
「それは分かっています」
「いや、君たちはまだ分かっていない。私が探していたのは、単に彼女の居場所ではない」
神代は机の引き出しから、一冊のノートを取り出した。
「1988年の実験で、玲奈が姿を消した。その後、私は何年も彼女を探した。だが、彼女に関する記録は、少しずつ変わっていった」
「変わる?」
「最初の記録では、玲奈は実験中に行方不明になったことになっていた。ところが数年後、彼女は実験室から退室したという記録が見つかった。さらに別の資料には、実験に参加していなかったと書かれていた」
次郎は首をかしげた。
「記録がバラバラですね」
「そうだ。私はそれを、誰かが意図的に改ざんしたのだと思っていた」
「違うんですか?」
「今は、そうとは言い切れない」
神代はノートを開いた。
そこには、玲奈の写真が何枚も貼られていた。
ある写真では、彼女は研究所の職員として写っている。
別の写真では、学生のような服装をしていた。
さらに一枚には、次郎の父・正一と並んで立つ玲奈が写っていた。
「玲奈は、私が知っている彼女とは違う姿でも記録されている。まるで、いくつもの人生を生きていたように」
美鈴が尋ねた。
「それで、あなたは何をしようとしていたんですか?」
神代は美鈴を見た。
「玲奈を一つの記録に戻そうとしていた」
「一つの記録?」
「彼女がどこにいて、何歳で、何をしていたのか。それを一つに決めようとした」
次郎は苦笑した。
「神代さんらしいですね。数学者らしいというか」
「そうだ。私は、矛盾をなくせば真実にたどり着けると思っていた」
神代は少しだけ視線を落とした。
「しかし、玲奈は違うことを言っていた。人間の記憶は、必ずしも一つにまとまる必要はないと」
「それで、今は何を目的にしているんですか?」
次郎が尋ねた。
神代は答えた。
「君を調べたい」
「僕を?」
「正確には、君と君の父親の関係だ」
神代は一枚の紙を差し出した。
それは1988年の実験記録の写しだった。
『被験者21 琴葉正一』
『被験者22 琴葉次郎』
その下には、見慣れない欄があった。
『記憶の継承者 琴葉次郎』
次郎は眉を寄せた。
「継承者って何です?」
「正一は、実験の途中で一つの選択をしたらしい」
「どんな選択ですか?」
「自分の記憶を、君に残すことだ」
「僕はまだ生まれていなかった」
「だから問題なのだ」
神代は静かに言った。
「君が生まれる前に、君の記憶が記録されていた。しかも、その記録には、君が経験したことのない出来事が含まれている」
美鈴が口を挟んだ。
「でも、それだけで記憶が引き継がれたとは言えません。記録された情報を、本人の記憶と混同している可能性もあります」
「その通りだ。だからこそ、確かめたい」
神代は次郎を見た。
「君が父親の記憶を持っているのか。それとも、父親が君の未来を知っていたのか」
次郎は頭を抱えた。
「どっちにしても、ややこしいですね」
「君の父親も、そう言っていた」
「父が?」
「正一は、私にこう言った。『次郎は、私の記憶を持つかもしれない。しかし、それでも私にはならない』と」
次郎は黙った。
そのとき、美鈴が神代のノートを指さした。
「この写真を見てください」
それは1988年の研究所で撮影された集合写真だった。
正一、神代、玲奈、そして時守。
その後ろに、もう一人の人物が立っている。
顔ははっきり写っていない。
だが、服装には見覚えがあった。
次郎が着ているものとよく似た、濃い色のジャケットだった。
「これ、誰です?」
神代は首を横に振った。
「分からない。写真が見つかったときから、ずっと気になっていた」
美鈴は写真を近づけた。
「待って……この人、手に何か持っています」
拡大すると、小さな紙片のようなものが見えた。
次郎は目を凝らした。
そこには、短い文字が書かれていた。
『実験を止めろ』
「これを書いたのは誰だ?」
次郎が尋ねる。
神代は答えた。
「正一だと思っていた。だが、筆跡が違う」
美鈴が写真の裏を確認した。
そこには、別の文字があった。
『被験者22が来る前に、すべてを終わらせること』
次郎は背筋が寒くなった。
「被験者22……僕ですね」
「そうだ」
神代はうなずいた。
「私が本当に知りたいのは、君が何者なのかではない」
「では、何です?」
「なぜ、君が1988年の実験に参加する必要があったのか。それを知りたい」
夜になった。
次郎と美鈴は研究所を出て、駅まで歩いていた。
次郎はずっと黙っていた。
「怒っているの?」
美鈴が尋ねた。
「いや。少し考えている」
「何を?」
「父さんは、僕を守ろうとしていたんだろう。でも、そのために僕の記憶に何かを残した。神代さんは、それを調べようとしている」
「そうね」
「じゃあ、美鈴はどうなんだ?」
「私?」
「君は、1988年の記録にも名前があった。玲奈さんの手紙にも名前があった。君は何を覚えている?」
美鈴は歩みを止めた。
「一つだけ、思い出したことがある」
「何?」
「白い部屋で、あなたと会ったこと」
「僕と?」
「そう。あなたは私に、こう言った」
美鈴は少し恥ずかしそうに笑った。
「『僕が何を忘れても、君だけは覚えていてほしい』って」
次郎は驚いた。
「そんなことを言ったのか、僕は」
「ええ。だから私は覚えている」
「でも、僕は覚えていない」
「それでいいのよ」
美鈴は前を向いた。
「全部を同じように覚えている必要なんてないでしょう」
次郎は彼女の横顔を見た。
「それは、なかなかいい考えだな」
「あなたに言われると、褒められた気がしないわ」
「どうして?」
「いつも余計なことを言うから」
二人は小さく笑った。
その夜、次郎のスマートフォンに一通のメールが届いた。
差出人は、登録されていないアドレスだった。
件名はない。
本文には、たった一行。
『琴葉次郎。明日の10時42分、父親の記憶を返しに来なさい』
添付ファイルが一つあった。
開くと、白い部屋の写真が表示された。
中央には椅子が二つ。
その片方に、若い頃の琴葉正一が座っている。
もう片方には、次郎が座っていた。
そして、写真の奥には美鈴が立っていた。
次郎は画面を見つめた。
写真の撮影日を確認する。
1988年11月1日。
次郎はすぐに美鈴へ電話をかけた。
「美鈴、起きてるか?」
「何よ、こんな時間に」
「見てほしい写真がある」
「また変なもの?」
「今度は、僕が写っている」
電話の向こうで、美鈴の声が止まった。
「……次郎。それ、誰から届いたの?」
「分からない」
「絶対に一人で行かないで」
「分かってる」
次郎は写真をもう一度見た。
椅子に座る自分の表情は、今の自分とまったく同じだった。
ただ一つ違うのは、写真の中の次郎が、こちらを見て笑っていることだった。
その笑顔は、まるで次郎が何をするのか、すべて知っているかのようだった。




