16.世界を分けるということ
「ちょっと待ってください」
美鈴は台帳を机に置いた。
「私は1988年には生まれていません」
「もちろんだ」
黒崎が答えた。
「だから、この記録が正しいとは限らない」
次郎はほっとした。
「なんだ。間違いか」
「喜ぶのは早いわ」
美鈴は次郎をにらんだ。
「あなたの名前だって、1988年の記録にあったでしょう」
「それはそうだが……」
「私だけ間違いというわけにはいかないわね」
時守が台帳をのぞき込んだ。
「この記録には、もう一つ問題があります」
「何です?」
「被験者23の実験日は、1988年11月1日ではありません」
黒崎が驚いた。
「では、いつだ?」
時守はページの下を指さした。
そこには日付ではなく、こう書かれていた。
『実験終了後』
「日付がないのか」
次郎が尋ねた。
「ええ。つまり、実験の前なのか後なのかさえ、記録からは分からないのです」
美鈴は腕を組んだ。
「整理しましょう。1988年に私の名前が記録されている。でも、私はその時代には存在していない。考えられるのは二つです」
「一つは記録の間違い」
次郎が言った。
「もう一つは?」
「私たちが、時間の順番を間違えている可能性」
美鈴は答えた。
「ただし、過去に行ったとか未来から来たとか、そういう話にすぐ飛びつくのは危険よ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……努力する」
黒崎が苦笑した。
「君たちは相変わらずだな」
三人は研究所の隣にある資料室へ移動した。
そこには、白砂研究所が閉鎖される直前の資料が保管されていた。
美鈴は一冊のファイルを取り出した。
表紙には『時間認識実験・最終報告』とある。
「これを読めば、少しは分かるかもしれない」
ファイルには、研究所が行っていた実験の目的が記されていた。
人間は時間を直接感じているのか。
それとも、記憶した出来事を順番に並べることで、時間が流れていると思っているのか。
実験では、被験者に時計のない部屋で過ごしてもらい、一定時間後に経過時間を答えてもらっていた。
特別な装置を使い、外部の時計と被験者の時間感覚を比較する。
次郎は資料を読みながら言った。
「つまり、時間そのものを測っていたわけじゃないんだな」
「そう。測っていたのは、人間が感じる時間よ」
美鈴が答える。
「時計が五分進んでも、人間が五分経ったと感じるとは限らない。逆もある。夢の中では、短い時間に長い出来事を経験したように感じることもあるでしょう?」
「あるな。朝起きたら、ずいぶん長い夢を見た気がする」
「白砂研究所は、そのずれを調べていたの」
次郎はページをめくった。
そこに、赤い線で囲まれた文章があった。
『人間の記憶は、出来事を一つの順序に固定するとは限らない』
その下には、研究責任者の名前が記されていた。
琴葉正一。
次郎は黙ってその名前を見つめた。
「父さんは、何を発見したんだろう」
ファイルの最後には、研究所の閉鎖理由が書かれていた。
『実験の継続は危険と判断する。被験者の記憶に混乱が生じ、複数の記録が互いに矛盾する事態が発生したためである』
さらに、その下に手書きの文章があった。
『我々は、一つの世界しか存在しないと考えていた。しかし、同じ出来事について、複数の異なる記憶が存在するならば、それぞれの人間にとっての世界も異なるのではないか』
次郎は顔を上げた。
「世界が複数ある?」
美鈴は首を横に振った。
「そういう意味ではないと思う」
「じゃあ、どういう意味だ?」
「例えば、同じ映画を二人で見たとする。片方は主人公の勇気に感動する。もう片方は、主人公の行動に腹を立てる。見た映画は同じでも、二人の中に残る映画は違うでしょう?」
「まあ、そうだな」
「人間は、自分の記憶や経験を通して世界を理解している。だから、同じ出来事でも、まったく違う世界を生きているように感じることがある」
次郎はしばらく考えた。
「つまり、世界を分けているのは時間ではなく、記憶なのか」
「その可能性はあるわ」
美鈴はファイルを閉じた。
「お父さんは、そこに何かを見つけたのかもしれない」
そのとき、資料室の電話が鳴った。
黒崎が受話器を取る。
「はい、黒崎です」
相手の声を聞いた途端、黒崎の表情が変わった。
「何だって?」
次郎と美鈴が顔を見合わせる。
黒崎はゆっくり受話器を置いた。
「神代君からだ」
「神代さんがどうしたんです?」
「彼が、玲奈さんの新しい手紙を見つけたそうだ」
「どこに?」
「自宅だ。しかも、今朝届いたという」
次郎は時計を見た。
「今朝?」
「そうだ。差出人は白石玲奈。消印は……」
黒崎は一度言葉を切った。
「1988年11月1日だ」
神代の書斎には、封筒が一通置かれていた。
神代は三人を迎えると、封筒を机の上に広げた。
「私は、もう彼女を探さないと決めたはずだった」
「それなのに手紙が届いたんですね」
次郎が言う。
「そうだ。だが、今回は少し違う」
神代は封筒から便箋を取り出した。
そこには、玲奈の文字でこう書かれていた。
『玲司さん。
あなたが私を探すことをやめてくれたので、ようやく伝えられます。
私は、あなたの世界から消えたのではありません。
あなたが私を失ったと思っている世界と、私があなたを待っている世界は、同じ場所にあります。
ただ、二つの世界をつないでいるものが違うのです。
その鍵を持っているのは、琴葉正一です。
そして、もう一人。
佑月美鈴さん。
あなたは、自分が何を覚えているのか、まだ分かっていないでしょう。
思い出すことを恐れないでください。
ただし、次郎さんを一人にしてはいけません。
彼は、自分が何者なのかを知ろうとしています。
けれど、本当に知るべきなのは、自分が誰と生きていくのかということです。
玲奈』
読み終えた美鈴は、便箋を机に戻した。
「私が鍵を持っている……?」
神代はうなずいた。
「玲奈は、君のことを知っているようだ」
次郎は美鈴を見た。
「何か思い出した?」
美鈴は答えなかった。
その代わり、ゆっくりと目を閉じた。
しばらくして、彼女の口から小さな言葉が漏れた。
「白い部屋……」
「美鈴?」
「誰かが、私に言ったの」
美鈴は目を開けた。
「『二つの世界を分けるのは、たった一つの選択だ』って」
「誰が言ったんだ?」
「分からない。でも、その人の顔は覚えている」
美鈴は次郎を見た。
「あなたのお父さんよ」
次郎は息を止めた。
そのとき、神代の机の上に置かれた古い写真が目に入った。
写真には、若い頃の正一と、研究所の職員たちが写っている。
次郎は写真を手に取った。
裏面には、父の字で短く書かれていた。
『世界を分けたのは、私ではない。
次郎、お前だ』
次郎は写真を見つめたまま動かなかった。
自分が世界を分けた。
いったい、何をしたというのだろう。
そして、その答えを知っているはずの父は、まだ姿を現さない。




