20.世界は今日も続いている
それから一週間が過ぎた。
白砂研究所は、再び静けさを取り戻していた。
時計は正常に動き、実験装置も停止したままだった。
黒崎は研究所に残された資料を整理し、時守は建物の管理を引き受けることになった。
神代玲司は、大学での講義を再開した。
そして、白石玲奈について語ることはなくなった。
彼女を忘れたわけではない。
ただ、もう探す必要がなくなったのだ。
ある日の午後。
次郎は、いつもの喫茶店「珈琲アリア」にいた。
窓際の席でコーヒーを飲みながら、ノートを開いている。
表紙には、こう書かれていた。
『時間と人間の記憶について』
次郎はペンを動かした。
『人間は、時間が流れていると考えている。
しかし、私たちが直接知っているのは、過去の記憶と現在の感覚だけである。
未来については、予想することしかできない。
それでも人間は、過去から未来へ続く一本の道を歩いていると信じている。
本当にそうなのだろうか』
そこでペンを止めた。
「また難しいことを書いているのね」
声がした。
美鈴だった。
「おお、来たか」
「何を書いているの?」
「時間についての論文だよ」
美鈴はノートをのぞき込んだ。
「ずいぶん立派な題名ね」
「内容も立派だぞ」
「読んでいい?」
「もちろん」
美鈴は数行読んで、顔を上げた。
「これ、結局何が言いたいの?」
次郎は考え込んだ。
「人間は、時間そのものを見ているわけじゃないということかな」
「それなら最初からそう書けばいいのに」
「学術論文だからな」
「読者に分からなかったら意味がないでしょう」
次郎は苦笑した。
「君にはかなわないな」
美鈴は向かいの席に座った。
「そういえば、神代さんから連絡があったわ」
「何だって?」
「大学で講演するそうよ。テーマは『記憶と時間の関係』」
「神代さんがそんな講演を?」
「意外?」
「いや。彼らしいと思う」
「玲奈さんのことは話さないそうよ」
次郎はうなずいた。
「それでいいんじゃないかな」
「黒崎先生は、白砂研究所の記録を本にまとめるらしいわ」
「どんな題名?」
「まだ決まっていないみたい」
「『五分間の怪事件』なんてどうだ?」
「あなたの小説じゃないんだから」
二人は笑った。
そのとき、店の壁時計が目に入った。
午後三時十五分。
何の変哲もない時計だった。
秒針は規則正しく動いている。
次郎はしばらく眺めていた。
「どうしたの?」
美鈴が尋ねる。
「いや。時計って不思議だなと思って」
「今度は何?」
「時計は時間を測っている。でも、人間が本当に知りたいのは、時間が何なのかということだ」
「それは難しい問題ね」
「だから面白いんだよ」
美鈴はコーヒーを一口飲んだ。
「ねえ、次郎」
「何?」
「あなたは、もう一度あの駅に行きたい?」
次郎は少し考えた。
「行きたいような、行きたくないような」
「どうして?」
「もう十分だよ。あの駅には、ずいぶん振り回されたからな」
「そうね」
「それに、今はここにいたい」
美鈴は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
その夜、次郎は自宅で父の遺品を整理していた。
古い写真、ノート、手紙。
どれも、今となっては大切なものだった。
最後に、小さな箱が残っていた。
箱を開けると、古い懐中時計が入っていた。
針は10時42分で止まっている。
次郎は時計を手に取った。
裏蓋には、小さな文字が刻まれていた。
『時間を追うな。今を生きろ』
父の言葉だった。
次郎は懐中時計を机に置いた。
そのとき、箱の底にもう一枚の紙があることに気づいた。
広げてみると、父の字で短く書かれていた。
『次郎へ。
もし、この手紙を読んでいるなら、私はもうお前の前にはいないのだろう。
一つだけ伝えておきたい。
お前が経験したことを、すべて説明できる必要はない。
世の中には、分からないことがある。
だが、分からないことを恐れる必要もない。
人は、分からないままでも誰かを愛することができる。
誰かを信じることができる。
そして、自分の人生を選ぶことができる。
それを忘れないでほしい。
父より』
次郎は手紙をたたんだ。
窓の外では、街の明かりが静かに輝いていた。
翌朝。
次郎は美鈴と待ち合わせをしていた。
場所は、あの喫茶店の前。
美鈴は少し早く着いていた。
「おはよう」
「おはよう。今日は珍しく時間どおりね」
「失礼だな。僕だって時間は守る」
「あなたの場合、時間の概念そのものを疑っているでしょう」
「それと遅刻は別問題だ」
美鈴は笑った。
二人は並んで歩き始めた。
行き先は決めていない。
ただ、駅の方へ向かって歩いていた。
次郎はふと、足を止めた。
「美鈴」
「何?」
「アキレスと亀の話を覚えているか?」
「もちろん」
「アキレスが亀に追いつくためには、まず亀がいた場所まで行かなければならない。そして、その間に亀は少し先へ進む。だから、いつまでたっても追いつけないように見える」
「数学的には無限級数で説明できるわね」
「でも、現実のアキレスは亀を追い越す」
「そうね」
「だったら、僕たちも同じなのかもしれない」
「どういう意味?」
次郎は美鈴を見た。
「追いつこうとすることばかり考えていた。でも、そもそも追いつく必要なんてなかったのかもしれない」
美鈴は黙っていた。
次郎は続けた。
「君が僕を覚えていて、僕が君と今ここにいる。それだけで十分なんじゃないかな」
美鈴は少しだけ目を伏せた。
「ようやく分かったのね」
「何が?」
「あなたが、ずっと探していたもの」
次郎は笑った。
「そうかもしれない」
美鈴は次郎の手を握った。
二人は再び歩き出した。
その日の午後。
黒崎の研究室に、一通の封筒が届いた。
差出人はない。
封筒の中には、一枚の写真が入っていた。
写っているのは、白砂研究所の古い実験室。
中央には二つの椅子。
壁の時計は10時42分を指している。
写真の裏には、見覚えのある文字があった。
『実験は終了した。
しかし、時間は終わらない』
黒崎は写真を机に置いた。
そして、研究室の時計を見上げた。
午後三時十五分。
秒針は、いつもどおり動いている。
黒崎は静かに笑った。
「そうか。まだ続いているのか」
窓の外では、学生たちが歩いていた。
誰も時計を気にしていない。
誰も時間の正体を考えていない。
それでも世界は動いている。
あるいは、世界が動いているように見えるだけなのかもしれない。
その答えを知る者は、まだいない。
次郎と美鈴は、駅のホームに立っていた。
電車が近づいてくる。
「どこへ行く?」
美鈴が尋ねた。
「どこでもいいよ」
「本当に?」
「うん。行き先は、着いてから考えよう」
電車の扉が開いた。
二人は乗り込んだ。
扉が閉まり、電車が走り出す。
次郎は窓の外を眺めた。
そこには、いつもの街があった。
いつもの人々がいて、いつもの風景が流れていく。
そして、次郎は思った。
時間は、どこか遠くへ向かって流れているのではない。
少なくとも、自分にとって大切なのは、今この瞬間に誰と一緒にいるかということだ。
美鈴が隣で笑った。
「何を考えているの?」
「いや、何でもない」
「また隠し事?」
「今度は本当に何でもないよ」
次郎は彼女の手を握った。
電車は走り続けた。
時計の針も動き続けた。
そして世界は、今日も続いていた。
完
物語の最後に残したのは、時間の謎に対する一つの答えではなく、次郎と美鈴が自分たちの人生を選ぶという結論です。父・正一、玲奈、神代の物語にも、それぞれの決着をつけました。




