第六章『悠太』
1
藤本悠太は強い霊感の持ち主だった。
**
幼稚園の頃、テレビで放映されていたウルトラマンに興味を持った悠太は、テレビの中で毎回怪獣と戦い最後は必ず勝つヒーローを見るのももちろん好きだったが、それよりもフィギュアを集めることに夢中だった。子供向けの雑誌に掲載されていたウルトラ兄弟と怪獣たちのフィギュアが並んだ写真を自分の宝物の一つにしてその写真と同じようにフィギュアを集めることを目標としていた。親と出かける時は必ずおもちゃ屋に行くことをねだり、持っていない怪獣フィギュアを見つけた時にはまたねだり、時には買ってくれるまでおもちゃ屋で泣いたりもした。祖母とおもちゃ屋に行くときは必ず買ってくれた。その祖母と出かける時に必ず祖母の近くで見かけるのが知らない高齢男性の姿だった。男性は祖母のことを優しい目で見守るように並んで歩いていた。周りの人間や祖母には男性の姿が見えていないようだと、悠太は子供ながらに感じ取っていた。
祖母は悠太が小学校二年の時に他界した。亡くなったのは病室で、様態が急変したため同居していた悠太の両親と姉を含めた四人が駆け付けたすぐ後だった。病室に入り祖母が横たわるベッドの横に近づいた時、悠太は祖母の胸から白い火の玉のような、モヤッとした煙のようなものが抜けるのに気が付いた。直後、祖母は息を引き取った。悠太はその時見た物のことはしばらく誰にも言えなかった。
祖母が亡くなった後、案の定祖母は悠太の実家に姿を現すようになった。何か悪さをするのではなく、微笑んでその場に佇んでいるだけなのだが、子供の悠太は死んだはずの祖母が家にいることが不気味で仕方なかった。しかもそれは悠太以外の人間には見えていないのだ。考えれば考えるほど悠太は夜もなかなか寝付けず、次の日学校で貧血で保健室で休むというような事が続いてしまった。
ある日、あまりの恐怖に夜家のベッドで泣きながら目をつぶっていると、当時小学校六年だった姉がそっとやって来て一緒にベッドへ横になってくれた。その時、初めて悠太は祖母が亡くなった病院での出来事と、実家で祖母の姿が見えていることを姉に打ち明けた。
姉は特に納得のいく言葉を言う訳ではなく、「それは怖いわね」と悠太に共感し、頬にキスをしてからそのまま朝まで横で眠りについた。悠太はその時の姉の唇の感触と、横で眠っている姉から漂う香りによって、姉に特別な感情を抱くようになった。不思議だが、それ以来亡くなった祖母の姿は見えなくなった。
悠太は姉を姉ではなく女性として見るようになった。
悶々とした日々を過ごしていく中で、悠太が中学二年、姉が高校三年になっていた頃の事である。姉に初めて彼氏が出来たのだ。相手は大学受験の為の予備校に一緒に通っているクラスメイトの男だった。同じ大学に行こうと誓い合っているとのことだ。悠太はその事実を知った時、静かに発狂した。姉を他の男に奪われてしまった悔しさもあるが、姉が自分の事を裏切ったという感覚も生まれた。
いつまでも姉と一緒にいたい。
姉はいつまでも自分の物なんだ。
だから悠太はその男を殺した。
男が予備校からの帰り道、一人になるまで後をつけ、街灯も少ない路地に曲がった時にすばやく後ろから近づき、気配に男が振り返った際に、喉を包丁で切り裂いた。
男の首から上がる血飛沫を見ながら、これで姉が自分だけのものになってくれるという興奮を味わった。
そんな期待を裏切るように、
悠太の姉は自殺をした―。
**
仕事なんて何でも良かった。
生活できるだけの金が貰えればそれで良い。
夢や野望もない。
だから家から近くて求人チラシの中で最初に目についた仕事に応募することにした。
採用連絡は面接の二日後に電話でやってきた。入職手続きに必要な書類をメモに取り悠太は最後にもう一度ありがとうございましたと電話口で伝えて通話を切った。初出勤は週明けの月曜日である。住民票が必要らしく取りに行くには金曜日の今日しかない。
悠太は舌打ちをして、めんどくせえなと一人呟いた。
勤務初日。悠太は事業所責任者に更衣室へ案内され支給された制服のポロシャツに着替えると事務所で現場主任である女性スタッフを紹介された。姿勢の良いショートヘアの女性は「飯田美由紀です」と名乗り、悠太も続けて自己紹介をした。
「男性スタッフ少ないから心強いよ。よろしくね」
と元気よく言った美由紀に悠太は肩を軽く叩かれた。美由紀は背が高い。百七十センチいくかいかないかといったところだろう。何かスポーツでもやっているのか彼女の制服から伸びる腕は筋肉質である。姿勢が良いせいか胸にも張りがあった。顔立ちも整っている。美人だ。
「藤本さん介護未経験ですよね? この仕事はコミュニケーションに始まりコミュニケーションに終わるといっても良いほど利用者さんとの関りが大切」
フロアを案内しながら美由紀は語った。
「だから、最初は大変かもしれないけどまずは利用者さんと話をすること、そして顔と名前を覚える。それが最初の仕事よ」
美由紀に言われる通り悠太はフロアのテーブルに利用者と一緒に座り話をした。同じ話を何度もする高齢者に対し悠太は相槌を打ちながらうまく言葉を返す。祖母と暮らしていた過去もあるので高齢者との話は苦ではなかった。時には自分の話もして場を盛り上げても見せた。
入職二日目。今日は美由紀と共に早朝勤務になっていた。運転免許を持っている悠太は今後の送迎業務も視野に入れて送迎の様子を見学することになったのだ。制服に着替え美由紀と共にフロアへ行くと前日から夜勤をしていた野村華というスタッフを悠太は紹介された。
「彼、新人の藤本悠太さん」
美由紀が言うと華は何か言葉を返したが悠太には聞き取れなかった。悠太は彼女の言葉よりも彼女から発せられる違和感を感じ取った。そして色白で眉毛もろくに生えていない華のことを一瞬にして拒絶した。同時に昔見たホラー映画で登場した超能力を使えるいじめられっ子の女子高生を思い出した。その姿が華に重なり悠太は余計に彼女に対して不気味さを感じた。
「じゃあお迎え第一便行ってくるね」
と美由紀は華に声をかけフロアの出口に向かった。悠太も後を追う。
美由紀の運転する施設の車の助手席に悠太は座る。ハンドルを握る美由紀の二の腕についた筋肉が色っぽいと感じた。
二人の利用者宅に行きその二人を車に乗せ、再び美由紀の運転を横目にしながら施設へと戻ってきた。フロアには先ほどの幽霊のような見た目をした華の姿はなく、代わりにパーマの掛かった髪をハーフアップに結んだ女性が一人いた。
「梗子おはよう!」
連れてきた利用者と並んで歩く美由紀がその女性に向かって言った。梗子と呼ばれた女性は振り返ると利用者に視線を向け元気よく挨拶を返した。悠太は梗子に挨拶をすると彼女と目が合った。綺麗な二重瞼の瞳だった。
「彼、昨日から入った藤本悠太さん。梗子教育係になってくれる?」
美由紀が言ったので悠太は「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「吉岡です。こちらこそよろしくお願いします」
梗子に笑顔で声をかけられた。小柄で愛嬌のある胸の小さな彼女に悠太は一目ぼれをした。
顔がタイプだったというわけではない。会ったばかりだが何一つ影を感じないまっすぐで無垢な、自然と周りに人を寄せ付けるような明るいオーラのある梗子のことが愛おしくてたまらなくなったのだ。何よりも、梗子のことを優しかった姉と重ねて見てしまっていた。
次の日から悠太は教育係となった梗子と同じ時間帯での出勤が続いた。梗子の動き方を見てメモに取り業務内容をひたすら覚えていく。梗子の働き方はとても勉強になった。誰に対しても―それは利用者もスタッフも―贔屓することなく同等に接し積極的に仕事を抱えて時には失敗もする。時々見せる「よいしょ」や「あれどうしたっけ」という独り言も可愛らしい。職場で梗子と一緒にいる時間が悠太にとって至福となっていった。その気持ちは次第に、職場だけに留まらずプライベートな時間の梗子も知りたいという欲求に変わっていった。
2
梗子を独り占めしたい。
梗子の全てを知りたい。
そんな邪な気持ちを抱えながら悠太は梗子から仕事を教わっていた。梗子の教え方はとても丁寧でわからないところは親身になって聞いてくれ的確にアドバイスをくれた。男性スタッフが悠太と他には及川というバンドマンの二人しかいないため、梗子は自分に少し気があるのではないかという錯覚さえ悠太は感じ始めていた。
梗子のことを想像し毎日マスターベーションをした。
少々ズボラなところがある梗子は玄関で外履きを脱ぎっぱなしにしてしまうことがある。その履き古したスニーカーを綺麗に揃えて並べるついでに悠太は中の匂いを嗅いでみたりもした。
梗子が好きだ。
衝動が抑えきれない。
誰かと話している姿を見るだけでももどかしい。
そんな梗子が嬉しそうに休憩室に入ってきた。手にはサッカーボールくらいのゴムボールを持っている。隣には野村華もいた。梗子は目が合うなり「藤本さんも見てあげて」と話しかけてきた。
何のことを言っているのかわからず黙っているとテーブルに乗せたゴムボールに向かって華が手をかざし始めた。喋る者がいないので部屋の中には静寂が訪れた。何が始まるのかと見ていると華の伸ばした手の先でゴムボールがテーブルの上で宙に浮いた。
――なんだこれは。
悠太は目の前で起こっている出来事に驚き華の顔に目を向けた。華は色白で眉毛の薄い能面のような顔をしている。真っ黒な髪は硬いのか顔に張り付くように肩まで伸びていた。
――化け物かこいつは。
そう思うと悠太は一気に華のことを生理的に拒絶し始めていった。こんな女が梗子と仲良くしていると思うととても腹立たしい。それと初めて会った時から感じている違和感の正体もわからない。実家で亡くなった祖母の姿を見ていた時と似ているようでもあるが、華は悠太だけではなく周りの人間からも存在を認められている。一体野村華と言う女は何者なのだろうか。
「吉岡さんはここの仕事長いんですか?」
ハンドルを握る梗子の横顔を助手席で見ながら悠太が声をかける。夕方になり訪問介護の研修に悠太は梗子と事業所の車で出かけていた。細くて小柄な梗子がバンを運転するというギャップがまた良かった。彼女の事を見ていると、ついついユニホームの下はどんな身体をしているのだろうと想像してしまう。
「五年くらいかな。大学出てからずっと介護の仕事してる。最初は違う施設にいたんだけど合わなくて、そしたら家から近いところでちょうど正社員募集してたから応募して、なんだかんだずっと今のところで働いてる」
「近所に住んでるんですね。そういえば自転車で通勤してますもんね」
「チャリで二十分くらい。家から近いに限るよ。藤本さんは、どうしてこの仕事を?」
「別に。家から近かったんで」
「近所なんだ。一人暮らし?」
「はい。今度来ます?」
「行かないって。地元は? 上京してきたの?」
「隣のS市っすよ」
「へー。じゃあご両親はそっちにいるんだ」
「はい。勘当されてるんでもう帰らないですけど。姉貴が死んでから態度変わっちゃって」
「―そう。大変だったんだね」
悠太の返答に梗子は一瞬言葉に詰まったようである。
「姉貴好きだったんですよ。だから吉岡さん見てると甘えたくなっちゃうんです」
「お姉さんの代わりにはならないだろうけど、先輩として何かできることがあればいつでも頼って」
「はい」
と、悠太が答えた後車内には静寂が流れた。
「訪問内容は大丈夫?」
赤信号で停車した時梗子はこれから行く利用者宅でどのような訪問介護をするのか悠太に再確認をした。
「えっと、バイタル測って冷蔵庫から食事出すのと、服薬ですよね」
「よろしい」
梗子は真面目に返したつもりだが、悠太は何故か吹き出して小さく笑った。
「ちょっと、何よ」
「すみません。可愛いなあと思って、つい」
「アホか」
強い口調を意識しているのだろうが、梗子の態度は悠太にとって愛しいとしか感じなかった。
「野村さんですけど」
三件の訪問介護を終え施設に戻る道中に悠太は車内で口を開いた。
「ん? 野村さん?」
「レクでやってる手品というか、あれ超能力ですよね?」
「超能力―かあ。だとしたらすごいよね野村さん」
「随分吉岡さんと仲が良いように見えるんですけど、野村さんもここの職場長いんですか?」
「いや、彼女は他の施設から異動してきたのよ」
「他の施設?」
「そう。うちの会社結構大きいでしょ。色んなところに事業所あるのよ。野村さんがいたのはね―藤本さんもS市出身ならわかるんじゃないかな、特別養護老人ホームで大きな火事があった施設なんだ」
「S市で?」
「うん。その火事が年末にあって、年明けすぐに野村さんはうちの施設に異動してきたんだ。火事があった日も働いてたらしいけど野村さんは無事だったみたい」
「そうなんですか」
――S市、老人ホーム、火事。
悠太は帰宅後すぐにインターネットで梗子が言っていた火事の件を調べてみた。検索するとそれはすぐにヒットした。
当時のネットニュースは大小様々な記事が掲載されていた。火事の原因はガスストーブが爆発した事だ、という内容が全てだった。爆発した原因はどこを探しても見つからなかった。
この火災事故に対し悠太には一つだけ違和感があった。
それは亡くなった十名のうち一名だけが身元不明ということである。
ネットニュースの記事ではそれ以降の情報が見つからなかった。なんとなく諦めきれずその後もこの施設での火災について調べ続けていると、ある掲示板サイトに行き着いた。そこでは火災で亡くなった職員達を弔おうという内容で誰だかわからない無数のアカウントが様々な言葉で死者を悼んでいた。おそらく施設の同僚もいるのだろう。かなり詳細な現場の内情も書き込んでいるアカウントもあった。被害者の名前も掲載されている投稿もあった。これは確実に施設内部の人間が行ったものだろう。
読み進めていくと、例の身元不明遺体についても詮索され始めていた。
そこに、野村華の名前が挙がっていた。
火災当日の出勤職員と被害者を照らし合わせた結果の予測である。このようなことは警察が調べているだろうが、捜査情報が見られない分掲示板の書き込みはとても興味深いものだった。
華は施設内で同僚から陰湿ないじめを受けていたそうである。火災の日もいじめの主犯格となる職員が華に対して酷いいやがらせを考えていたようだ。そして、華は確実に火災のあった更衣室に被害者たちと一緒にいたという投稿もある。掲示板の住民たちは身元不明の遺体は野村華なのではないかという予想を出していた。
だが、華は生きていた。
火災のあとも華は翌月の職場異動までの間、何も変わった様子がなくその施設で働いていたという。あまりにもそれが普通で、いつまでたっても遺体の一つが身元不明のままになっていたのだそうだ。
何故だ――。
悠太は亡くなった人間が見えるという強い霊感の持ち主で以前から華に対し、幼少期の祖母の霊と同じような感覚を感じ取っていた。だがそれは悠太にのみ見えているだけなのである。
華は悠太だけではなく周りの人間全てに見えている。見えているだけではない。明らかに一人としてそこに存在しているのだ。まるで、生きている。
何故だ―。
悠太は自分のスマホを手にし、迷わずある人物に電話をかけた。
3
小田切龍平に指定された場所はⅯ田駅近くの小さなライブハウスだった。ホームページでアクセスを調べスマホを見ながら悠太はその場所に辿り着いた。二階が事務所になっており裏口玄関から階段を上って向かう。事務所の扉に着くと中から金髪の女性が出てきて悠太とすれ違った。タンクトップ姿で強調された胸元に自然と目が行ってしまう。彼女はその視線に感づいたのか悠太を軽く睨んでそのまま階段を下りて行った。
ノックをしないで扉の中に入ると目の前の応接ソファに小田切は座っていた。無精ひげにミドルロングの癖毛姿は悠太が学生だった頃からほとんど変わっていない。
「悠太、久しぶりだな!」
「ご無沙汰してます」
言いながら悠太は小田切とテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろす。
「今介護の仕事してんだって? お前にできんのかよ」
笑いながら小田切はワイシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出し一本抜いて火を点けた。
「何でも良いんですよ。金が貰えれば。それより例の件―」
早く本題に入りたかった。小田切には電話で華の事を話してある。昔見た祖母の霊と同じ直感があるが華は悠太だけではなく周りの人間全てに見えているようである事。
小田切と悠太は親戚で、中学の頃までは家族同士の交流もあり度々顔を合わすことがあった。夏になると小田切は子供たちを集めて決まって怪談話をするのが恒例だった。小田切自身も霊感が強いらしい。
祖母の霊が見えると姉に打ち明けたあと、小田切にも相談をしたことがあった。その時彼は「悪さするわけじゃねえから気にすんな」と言葉をかけてくれた。納得がいくいかないという問題ではなく。なんとなく悠太は小田切のその言葉に勇気づけられた気がした。
「ああ。正直お前の話だけじゃ、いまいちピンと来ねえんだよ。勘違いじゃねえか、って気持ちが強い」
「いやおかしいでしょ。死んだ人間が何の違和感もなく普通に生活してるなんて」
「そうじゃねえ。俺が言いたいのは、その女は本当に死んでる人間なのか、ってことだよ」
「小田切さんも見たらわかると思いますよ。こいつは死んでる、って。感じるでしょ霊感」
「そりゃわかるだろうけど、そもそもな―」
小田切は短くなった煙草をテーブルの灰皿で潰しソファにもたれかかった。
「それを知ったところでどうすんだよ?」
「え」
「その女が本当に幽霊だとして、お前に何か危害が加わるのか? つらけりゃバイト辞めれば良いじゃねえか」
小田切の言うことも一理ある。
「何か固執する理由でもあんのか?」
――固執する理由。
――何だ。
悠太の頭に死んだ姉の顔が浮かんだ。
姉の顔が消えていくとその次に梗子の顔が浮かんできた。
――梗子。
――そうだ。
華に対して何故そこまで嫌悪の気持ちがあるのか、それはきっと彼女が梗子と親しくしているからだろう。
――梗子は俺の女なんだ。
――梗子は俺の女なんだ。
――梗子は俺の女なんだ。
「あとは、そうだな―」
小田切の声に悠太は我に返る。
「あとは―?」
「その女が死ぬ前に何かやり残したこと、会いたかった人、なんてのがあって、その思いがとてつもなく強かったら、もしかしたら実態を現わすこともあるかもしれねえな」
「会いたかった人―ですか」
「そういう強い感情のことを情動って言うんだ。下手に刺激すると、ドラッグの過剰摂取みたいに感情がオーバードーズすることもあるかもしれないから気を付けろよ。それか自分が死んでいることに気付いてないか。落語にそんな話あったな」
「死んだことに気付いてない? そうか」
「わかんねえって。思いついたこと言っただけだ」
「ありがとうございます。小田切さんと話できて、なんかすっきりしたような気がします」
悠太は言いながらソファから腰を上げる。
「あんまり考えすぎんなよ」
「はい。大丈夫です」
小田切の言葉を聞き流し適当に返事をした悠太は事務所の扉を開けゆっくりと階段を下りていく。
悠太の口元には微かな笑みが漏れていた。
4
小田切と会ってしばらく経ち、漸く悠太は良いタイミングが見つかったと思い行動に移すことにした。
施設のフロアではいつものように華に対して利用者たちが手品を見せてくれとせがんでいた。職員からも後押しされ華は自然な流れであっという間にゴムボールを宙に浮かべて見せた。この得意げな様子が何とも腹立たしい。悠太はそっと華に近づき耳元で口を開いた。
「お前本当は死んでんだろう―」
こいつとは会話ができるんだ。直接聞いてみりゃいい。
悠太の言葉を聞いた華は思いきり悠太を睨みつけた。明らかに動揺している。すると宙に浮いていたゴムボールが音を立てて破裂した。驚いた華が顔を動かすと視界に入ったであろう花瓶や洗面台の鏡が割れ始める。次に席から立ち上がろうとした利用者の方に華が顔を向けるとその利用者は金縛りにあったように身体を硬直させた。椅子やテーブルが倒れ食器棚などの家具も地震のように揺れ始めた。華はその場にしゃがみ込み両耳を手で塞いでいる。
そこに梗子が現れ、まっすぐ華の元に駆け寄り華を抱きしめた。すると途端に家具の揺れが収まり周囲は瞬間静かになった。
「藤本さん、何があったの?」
梗子が華を抱きしめたまま顔を上げて悠太に聞いた。
「野村さんが――」
悠太は口を開いたがその先に言う言葉が思いつかず口ごもってしまった。
「野村さんが誤ってボールを爆発させたのよ!」
人垣に隠れていた島田が一歩前に乗り出し悠太の言葉を継いだ。
「そしたらポルターガイストみたいにどんどんガラスが割れて地震みたいに箪笥も揺れ出したの! 私怖くて何もできなかったんだから! 利用者さんに怪我でもさせたらどうすんのよ!」
「島田さん落ち着て」
梗子が返すが他のスタッフたちも同じような言葉を口にし始めた。
「こいつを帰らせろ!」
窓側に座っていた男性利用者が怒鳴る。それに反応するかのように近くにいた利用者たちも「そうだそうだ」と合唱をした。
「そんなこと言わないでください!」
梗子は立ち上がって言い返すように大きな声を出した。そしてもう一度しゃがみこみ華の身体に手を触れる。
「野村さん大丈夫?」
華は震えている。
「嫌だ。嫌だ―」
華は小さくそう呟いていた。
すると梗子が何かに気付きお風呂場の脱衣室に向かいバスタオルを一枚持ってくると華の腰に巻きつけた。
「吉岡さん、なんでそんなに野村さんを庇うのよ!」
またしても島田が奇声を発する。
「皆寄って集って最低よ! こんな職場になると思わなかった!」
そう言って梗子は周囲を睨みつけ、華を支えながらそっと立たせ一緒にフロアを出て行った。ふと見ると華のベージュのズボンに黒い液体が染み出していることに悠太は気が付いた。
その時、先ほど怒鳴り声を上げた男性利用者の大西が突然胸を押さえて苦しそうにその場に倒れこんだ。瞬時にスタッフと他利用者たちの短い悲鳴が上がった。
大西が倒れた時の梗子の反応は俊敏だった。華を休憩室に連れて行き戻ってきた時、大西はフロアの床に仰向けで悶えている状態だった。初心者の悠太はもちろん何をして良いかわからずその場に立ち尽くし、他の職員はバタバタと動き回り何の役にも立たない状態であった。
「大西さん! 聞こえますか? 大西さん!」
梗子は倒れている大西にすぐ駆け寄り肩を叩きながら大声で大西の耳に向かって名前を呼びかけた。
「及川さん救急車呼んで! 島田さんは課長に連絡してください! 藤本さん他の利用者さんのそばにいてあげて」
素早くフロアを見渡した梗子は各職員へ指示を出し、躊躇わず大西に向かって心臓マッサージを始めた。
やりながら暑くなったのか梗子はユニホームの袖をまくり脇を露出した姿になった。小麦色に焼けた細い腕から見える脇の下に悠太は興奮を覚える。跪き心臓マッサージを繰り返す梗子の後ろに回るとスラックスから下着の線が薄っすらと確認できた。梗子の小さな尻に思いきりペニスをぶち込みたいという欲求が悠太の頭を占める。
梗子が心臓マッサージを始めて数分後に救急車が大きなサイレンを鳴らして施設に到着した。営業に出ていた課長の伊藤も到着し、救急隊に事情を説明した梗子は伊藤と共に救急車に乗り込み大西の搬送に同行していった。
邪な気持ちで梗子を観察していた悠太は、梗子の圧倒的緊急対応に感激した。そして益々梗子に対して強い恋愛感情が生まれた。
悠太は定時で仕事を終えタイムカードを押した。下駄箱の下に梗子が脱ぎ捨てた汚れた上履きが転がっており、迷わずに悠太はその匂いを嗅いだ。
何もなかったように梗子の上履きを揃えて置き、施設の外に出た。ちょうどそこに、昼間急変した大西を乗せた救急車に同乗して行った梗子が施設に帰ってきた。
「あ、藤本さん。お、お疲れさま」
と言った梗子の表情には何か違和感があった。目線を悠太に合わそうとしなかったのだ。
「お先です」と返し悠太はそのまますれ違った。
たしか梗子はもうすぐ退勤の時間だ。梗子が華の代わりに遅番まで引き受けたことなど知らない悠太は、この後退勤してくる梗子を待って何か口実をつけ一緒に帰れるようにできないだろうかと考えた。
施設の目の前には小さな公園がある。悠太はその中のベンチに腰を下ろし、出てくる梗子に何と言って話しかけようか考え始めた。
ベンチは施設を背にする向きに設置されているため悠太はチラチラと身体の向きを変えて入り口の様子を伺っていた。
どれくらい経ったかわからないが、何度目かの確認の際、ちょうど梗子が入り口から出てくる姿を目撃した。悠太は咄嗟に身をかがめる。
梗子がそのまままっすぐ進んだ先には金髪の女性が立っていた。友人か。何か話をしているようだがここからでは聞こえない。
金髪の女性の容姿が梗子の知り合いとはとても見えなかったことにも驚いたが、さらにショックだったのは梗子がその女性にキスをしたことだった。
梗子は彼女と付き合っているのか。
彼女は何者なのだろう。
――梗子を奪いやがって。
――畜生っ。
悠太はその場で地面を踏みつけた。
――誰だあの女は。
両拳を強く握りしめ悠太は身体を震わせた。
金髪の女性が梗子と別れるとすぐに一台の車が彼女の前に停まった。運転席には男性が座っている。彼女はその車に乗り込んだ。
――あいつは梗子を誘惑し男とも付き合っているのか。
梗子は騙されているんだ。
あの女に梗子は遊ばれているんだ。
悠太の頭の中にそのような構図が作られると同時に、もう一つ気になることがあった。
――どこかで会ったことがある。
と、悠太は感じた。だが思い出せない。
――誰だ。
――梗子を騙しやがって。
――梗子の純粋な気持ちを弄びやがって。
――あのやろう。
――殺してやる。
――殺してやる。
――隣にいた男も一緒に。
――ぶっ殺してやる。
悠太は自身の記憶をフル回転させ、ある予測に行き着いた。
そしてその予測を頼りに、親戚である小田切が営むライブハウスへと足を向けた。
小田切の事務所を訪れ、悠太が例の金髪女性について尋ねるとすぐに小田切は教えてくれた。
女性は小田切のライブハウスの常連バンド『ロカロカ』のボーカルを務めているとのこと。
彼女の名前は伊佐愛希。
以前このライブハウスが特集された雑誌の掲載ページに載ったバンドメンバーの写真も見せてくれた。そこには悠太が務める介護施設の前で金髪女性を車に乗せた男の姿も映っていた。
――やっぱりグルだったんだ。
――二人して梗子を騙し弄んでいるんだ。
小田切はロカロカが一週間後にワンマンライブを開催することも教えてくれた。
悠太は絶好の機会だと思った。
きっとそのライブには梗子も来るだろう。
そこで梗子の目を覚まさせてあげよう。
この女と男を殺して、梗子に真実を伝えてあげよう。
――梗子は俺だけのものだ。
悠太はその瞬間の事を考えると、身体の底から猛烈に興奮してくる感覚を味わった。
5
8月24日。
「藤本さん、ちょっと良い?」
翌日出勤すると夜勤明けの介護主任、飯田美由紀に声を掛けられ悠太は二階の休憩室に呼び出された。
「何ですか?」
美由紀に促されて席に着き聞いた。美由紀は対面に座る。
「昨日何かフロアで騒ぎがあったみたいだけど、教えてくれる?」
「騒ぎ? ああ、野村さんのいつものマジックでボールが破裂したりしてちょっとみんなパニックになってました」
「そう。藤本さんは何もしてない?」
「僕ですか? 何も、とは?」
なんだ、何が言いたい。
「実は課長に相談して、昨日のその時間帯のビデオ映像見せてもらったのよ」
悠太が働くこの介護施設内には防犯も兼ねて様々なところにカメラが取り付けられている。その映像は利用者が転倒したり何か事故があった場合の確認としても使われるのだ。
「その映像が何か?」
「それがね、藤本さんが言ったようにボールが破裂するところまでは見れたんだけど、そのあとすぐにカメラが故障したみたいで画面真っ暗になっちゃってたんだ。しかも他のカメラも全部だよ。どういうことだと思う?」
「さあ」
――知るかそんな事。
「まあカメラの事は置いておくとして。私はね、職場内でいじめみたいなことが起こらないようにしたいのよ」
「そこは大丈夫じゃないですか、吉岡さんも飯田主任も他のスタッフも皆いい人ばかりだと思いますよ。僕だって野村さんのこと心配ですよ。昨日あの後具合悪そうでしたし。明日もし仕事休んだらお見舞いに行きたいんですけど、野村さんの住所知りませんか?」
「さすがにそこまでは知らないよ。てか、知ってても教えないでしょ。そんな個人情報」
「そうですよね」
言いながら悠太は頭の中で舌打ちをした。
「それよりも――」
と言って美由紀がまっすぐ見つめてくる。
「梗子―吉岡さんとは何かあった?」
「吉岡さん―別に何もないですけど」
「そう。まあなんて言うか――。社内恋愛なんてよくある話だけど、片思いが行き過ぎるのはよくないよ。彼女はとても良い子だし好きになるのもわかるけど、彼女の事を考えて嫌だと思われるようなことはしないようにしないと」
「はあ。わかりました」
悠太は何となく偉そうに見える美由紀に対しての怒りが徐々に上がってきていた。美由紀の話を聞きながら悠太は彼女の身体を見つめる。ピッタリしたユニホームからは姿勢が良いので大きな胸が余計に目立つ。
――偉そうにわかったようなことを言っているが、制服の下はどうせ汗臭い身体してんだろう。
「私からは以上。仕事はしっかりやってね」
と言って立ち上がった美由紀は悠太の前を通り部屋を出ようとした。
悠太は衝動的に動き出した。
扉のノブに手をかけた美由紀の髪の毛を悠太は後ろから掴むと、反応を待つ前に思いきり美由紀の顔面をノブに叩きつけた。ゴンという鈍い音と美由紀の小さな悲鳴が聞こえる。髪の毛を掴んだまま悠太はもう一度ドアノブに美由紀の顔面を叩きつけた。そして美由紀を投げ飛ばし。仰向けの腹部を踏みつけ、腹を抑えて蹲る彼女を見下ろす。ドアノブに叩きつけた顔面は右目上部から多量の出血がある。悠太は美由紀の顔を力いっぱいに踏みつけた。何度も踏みつけるうちに抵抗力を失っていく足元の女性を見下ろしていると悠太はとてつもない性的欲求が芽生えてきていた。
6
8月25日。
悠太はその日が来るのを指折り数えて楽しみにしていた。
職場内では音信不通になった美由紀と華の無断欠勤でてんてこ舞いの状態であった。悠太も利用者の送迎や訪問介護、入浴介助などを見切り発車で独り立ちせざるを得ない状況となり、淡々と業務をこなしていった。悠太の中では、華は無断欠勤ではなく成仏したためもうこの世からいなくなったのだろうと考えていた。
研修担当である梗子は、美由紀と華の分をカバーするようになり悠太とはあまり重ならないシフトに変更されていた。それが悠太には、自分の事を避けているのではないかという被害妄想につながっていた。
業務の合間、パート職員達が喋っている内容が悠太の耳にも入った。その内容は、梗子が欠勤している華のお見舞いに行き、彼女は元気に過ごしていたとのことであった。
そんな会話を耳に挟んだ悠太は、愛希の前に華を完全に消し去らなければいけないという勝手な使命感が生まれた。
8月26日。
夜の十時。休日だった悠太は、職場の前である人物が仕事を終えて出てくるのを待っていた。
業務を終え施設の玄関から出てきたその女性は、小走りで駐輪場に向かっていった。
「吉岡さん」
と、悠太は女性―梗子―に背中から声を掛ける。
突然の事に梗子は短く悲鳴を上げて後ろを振り返り、悠太を見上げると一歩後退り眉間にしわを寄せた。
「藤本さん。何ですか?」
「すみません。あの、驚かすつもりなんてありません。この間のこと謝りたくて」
「この間?」
「僕が、無理矢理野村さんにやらせたんです。超能力を使ったレクを」
梗子は一瞬考えたように黙り込んだ後、口を開いた。
「あの日、一体何があったの?」
「野村さんはいつものようにボールを宙に浮かせて見せたんですけど、もっと重いものは動かせないのかって僕が提案したら花瓶とか椅子を宙に浮かせ始めたんです。でも急に制御が効かないような感じになって、野村さんの念力を超えて物が暴れ出すようになったというか」
「そう―」
「野村さんはきっと自分のせいであんな惨事になったって気にしているんじゃないですかね。きっかけは僕が提案したからなので僕が悪いんです」
「そう。教えてくれてありがとう」
梗子は早くこの場を離れたいのか、バッグから自転車のキーを取り出して鍵を外した。
「あの、吉岡さん」
「なんですか?」
と言った梗子の顔には疲れが現れていた。
「――好きなんです。吉岡さんのこと」
悠太は目を合わせずに言った。
「は? え、何?」
「だから、付き合いたいんです吉岡さんと。吉岡さん見てるとなんだか、上手く言えないんですけど、とにかくすごく好きなんです」
悠太の言葉が終わると梗子は小さくため息を吐いた。
「ごめんね、私には恋人がいるのよ」
「え、この間は彼氏いないって」
「まあ、彼氏はいないんだけど。ありがとね。でも藤本さんとは付き合えない。ごめん」
梗子が自転車に跨り悠太に背を向ける。
「あの金髪の女と付き合ってるんですか?」
「え?」
と言った梗子が振り向く間もなく後ろから悠太は腕で梗子の首を締めつけた。反射的に梗子はその腕を外そうしたので悠太はさらに力を込めて締め上げる。
梗子の髪の毛から汗の臭いが仄かに香った。
「あの女と施設の前でイチャついてたろ。知ってんだぞ。それにあの女が誰かも」
「離して」
「今度ライブやるんだって? 楽しみだな。良い舞台にしてやるよ」
「な、何をする気なの?」
悠太は顔を梗子の首筋に近づけて匂いを嗅いだ。
「やめて」
「あの女がいなくなれば、お前は俺の物になるのか?」
「やめてください!」
梗子は渾身の力を込めて身体を前傾にすると両足で地面を蹴飛ばして思いきり身体を反り返った。後頭部が悠太の顔に当たり、瞬間悠太は腕を梗子の首から外した。梗子はバランスを崩し自転車に跨ったまま地面に倒れたがすぐ起き上がると悠太と向かい合い顔を手で押さえる悠太を思いきり突き飛ばした。反動で悠太は並べられた自転車の列に倒れこんだ。
梗子は自分の自転車を起こし、すばやく跨り走り始めた。
――クソがっ。
悠太は身体を起こして梗子を追おうとしたが、すでに梗子は自転車を飛ばして去った後だった。
8月28日。
華の自宅はアパートの二階の一室だった。悠太は二階に上がる階段の下で上階を見上げている。昨日、施設の事務所内の管理者デスクの引き出しから華の履歴書を探り出し住所を調べたのである。
華の自宅へ踏みこもうと階段を上りかけた時、玄関から梗子が出てきたので悠太は慌てて物陰に身を潜めた。
梗子の姿が見えなくなってから悠太はアパートの階段を上がり華の自宅玄関前に立った。部屋の中からはシャワーの音が聞こえてくる。玄関の鍵は閉まっていなかった。悠太は躊躇なく土足で室内に上がり込んだ。
シャワールームからバスタオルを巻いた裸の華と悠太は対面した。濡れた黒髪が真っ白い肌に絡みついている。突然の来訪者に驚き隙を見せた華に悠太は襲い掛かる。
背中に回った悠太は華の髪を鷲掴みにして頭を壁に叩きつけた。
「ぐっ」
華は抵抗できず呻き声を上げる。
掴んだ髪を離さず二回、三回と悠太は華の頭を壁に叩きつけた。そして華をリビングに投げ飛ばし、四つん這いになった華の尻を思いきり蹴飛ばしてから背中を力強く踏みつける。
華が身体に巻いていたバスタオルはとっくにはだけて全裸になっていた。力弱く身体を起こそうとした華の背中をもう一度悠太は思いきり踏みつけ身体を床に押さえつけた。後ろ髪を鷲掴みにした悠太は華の頭をローテーブルの角に繰り返し打ち付ける。テーブルには華の顔面から噴き出した血液が付着した。華は抵抗力を失くし人形のように身体を柔らかくさせている。
――消えろ。
――消えちまえ。
――消えろ消えろ消えろ。
悠太によってテーブルに打ち付けられる華の顔面から流れ出た血が真っ白な裸体を首から肩、胸に伝って流れている。
さすがに疲れた悠太は華の髪を掴みながらその場に放り投げた。華は白目をむいて気を失っている。だらしなく足を広げ仰向けになった華の顔面と上半身は血に染まっていた。
8月28日。
【帝京新聞 8月29日朝刊より抜粋】
Ⅿ市の介護施設「Ⅿ田の森」で女性職員の遺体発見
Ⅿ市内の介護施設「Ⅿ田の森」で、同施設に勤務する女性職員、飯田美由紀さん(28)の遺体が発見された。
発見されたのは八月二十八日午後四時頃で、近隣住民が犬の散歩中に飼い犬が吠える様子に異変を感じて通報した。
遺体は施設の外壁と隣接する住宅の壁との間に挟まれるような状態で見つかった。現場の状況から、飯田さんは施設の二階から転落した可能性が指摘されている。
また、遺体には複数の打撲痕や内出血が確認されており、転落以外の外部からの力が加えられた可能性が否定できない状況だ。
警察は現在、事故、事件両面から調査を進めており、飯田さんの交友関係や当日の施設内の状況について詳しく調べている。施設関係者への聞き取りも進行中だ。
8月29日。
【帝京新聞 八月二十九日夕刊より抜粋】
Ⅿ市で警官二名の変死体発見
八月二十八日未明、Ⅿ市内のアパートで、男性警官の田中健太さん(35)と鈴木明さん(30)の変死体が発見された。二名とも全身の複雑骨折と窒息が原因で死亡しており、事件性が高いとみられている。隣室の住民が悲鳴を聞き、異変を感じて通報したことで発覚した。
発見された部屋は、このアパートに住む野村華さん(23)の自宅だった。しかし野村さんの姿は見当たらず、現在行方不明となっている。野村さんは、同日に同じⅯ市内の介護施設「Ⅿ田の森」で遺体で発見された飯田美由紀さん(28)と同じ職場の職員であったことが明らかになった。
警察は、田中さんと鈴木さんの死亡と野村さんの失踪、そして飯田さんの死に何らかの関連性がある可能性を視野に入れ、捜査を進めている。
8月30日。
悠太は家のキッチンで迷うことなく包丁を手に取った。刃の部分をハンカチで包みサコッシュに入れる。
ライブハウスの外にあったカフェボードには本日のイベント内容がカラフルなペンで書き記されていた。
『本日のイベント ロカロカ ワンマンライブ 6時開場7時開演』
もう間もなく開演である。中に入るとすでに大勢の客で賑わっていた。満員御礼というわけではないがアマチュアでワンマンライブを開催できるほどにはそれなりに人気のあるバンドなのか。すぐに会場の照明が暗くなり開演を告げるブザーが鳴った。
バンドメンバーがステージに現れると会場から歓声が上がった。ギター、ベース、ドラム、キーボード、サックスで五人の男性が演奏を始めた。曲はラテン調である。イントロが流れしばらくするとステージの袖から愛希が出てきた。さらに会場から歓声が上がる。愛希はひらひらとした真っ赤なスカートに真っ赤なブラを身に着けていた。何かの衣装だろうが名前がわからない。目当ての相手を見つけ悠太は身体が一気に震えあがり興奮してきた。
悠太の目にはもう愛希しか見えていない。
会場の群衆がライブにくぎ付けのためステージ裏にもぐりこむのは簡単だった。ステージの袖に悠太は向かう。
「悠太か? そこで何してんだ?」
声をかけられたので振り返ると小田切が悠太の前に近づいてきた。
「小田切さんすみません。特別に舞台袖からライブ見させてくださいよ」
悠太はステージ上の愛希に視線を向ける。
小田切は少しの間考えたあと、
「仕方ねえな。機材には勝手に触るなよ」
と言って向きを変え去ろうとする。
その動きを見ながら悠太は肩に掛けたサコッシュの中に手を入れる。
――邪魔なんだよ。
「小田切さん」
悠太は小田切の背中に声をかけた。
小田切が振り返る。
と同時に悠太は素早くサコッシュから持参した包丁を抜き取ると小田切の額に突き刺した。
悲鳴はバンドの演奏にかき消され、小田切はその場に倒れた。返り血を浴びた悠太は何もなかったようにステージを振り返る。
「ありがとう!」
ステージ上で愛希が会場に向かい声を出していた。
そんな愛希が舞台袖にいる悠太に顔を向け、目が合った。
今しかないと思った。
衝動が押し寄せる。
周りは全く見えない。
悠太はステージに飛び出し愛希に近づいて行った。




