最終章『情動』
1
事務所でタイムカードを押し梗子は急いで更衣室に入った。ロッカーを開けるといつものように中から書類が溢れ床に散らばった。
「ああもう!」
と言いながら梗子はしゃがみ込んで床に広がった紙を素早くまとめた。ロッカーの中を整理しない自分が悪いのはわかっているがイライラする。紙を持った梗子が立ち上がった時、ロッカーの上段―更衣室のロッカーは二段仕様で梗子は上段部分を使用している―の開いている扉の角に梗子は頭をぶつけた。痛みに思わず声を上げるが、これも自業自得なので悔しさの方が強い。
梗子は今日も寝坊をした。
朝、スヌーズ機能が作動しているスマホの目覚ましアラームを止め時間を確認した時梗子は一気に血の気が引き、飛び起きて急いで出かける準備を始めた。
最低限の化粧をさっと済まし、職場で着替えている時間がもったいないので制服であるポロシャツを着て家から職場まで自転車を飛ばして向かったのだった。
愛希と付き合うようになってから、寝起きざまのうつつの中愛希のことが頭に浮かぶとついつい毛布を抱きかかえ二度寝をしてしまうのだ。
ロッカーにカバンを丸めて投げ込み梗子は鏡も見ないで髪の毛を後ろで束ねた。フロアに出ると悠太が梗子に挨拶をする。彼の目線から梗子は自分のポロシャツのボタンが全開で胸元が丸見えであることに気づき、おはようと返事を返しながら自然な動きでポロシャツのボタンを閉めた。
何も魅力のない平らな胸だと梗子は思うが男性の視線を感じていい気持ちはしない。気持ちを切り替えるために今日一日の流れが書いてある業務日誌に目を通す。
今日は人員配置ギリギリの人数構成のシフトだ。
現在入浴介助をパートの島田が行っている。
朝の送迎はバンドマン及川。
利用者は現在迎えに行っている二人を含めて十五人。
梗子はこの後すぐ訪問介護が三件割り振られている。
フロアには悠太が一人。
――ふむふむ。
そこへ島田が入浴を終えた女性利用者と共にフロアへ帰ってきた。
「あ、吉岡さんおはよう」
利用者を席へ誘導しながら島田は「ごめん冷たいお茶出してあげてくれない?」と梗子に言った。
「はーい」と応えて梗子はキッチンの冷蔵庫に行こうとすると悠太が追い越して冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出した。
「藤本さん、ありがと」
梗子は反射的にお礼を言った。
「いえ」
悠太は麦茶をグラスに注ぐと入浴後の女性利用者の元へ運んで行った。浴室へ向かう島田を梗子は呼び止める。
「このあと私訪問で午後まで帰って来ないんだけど、フロアに藤本さん一人になっちゃうから島田さん少し見ててくれない? 残りの入浴は午後に回しましょ」
「はい。わかりました。もうすぐ及川さんも帰ってくるし何とかなりますよ」
「ありがと。じゃあよろしくね」
今日の最高気温は三十八度らしい。出勤時に自転車を飛ばしていた時にはあまり気にしなかったが、訪問介護から自転車で汗だくになり帰ってきた梗子は事業所に入った途端眩暈がしてその場に座り込んでしまった。近くにいた職員に支えられ梗子は休憩室のソファで横になることにした。
三十分だけのつもりが気づいたら一時間近くも横になってしまっていた。梗子は休憩室のソファから身体を起こすと両手で一度頬をパチンと叩いた。
――仕事に戻ろう。
という気持ちはあるがまだ倦怠感は残っていた。
やっぱり無理せず早退させてもらおう。だが今日は仕事が終わる夕方から愛希と会って出かける約束もしている。もう少し頑張ってみようか、など色々考えながらとりあえず働くスタッフたちに謝りにいこうと梗子は休憩室を出た。
フロアの扉に近づくと騒がしい物音と声が聞こえてきたので何事かと思った。
「野村さんやめて!」
中に入ると島田のヒステリックな大声が耳に入る。同時に地震の時に家具や食器が音を立てて揺れるような物音がしていた。
「何?」
と言いながら梗子が辺りを見回すとフロアの中央で華が両耳を押さえてしゃがみ込んでいる姿が目に入った。迷うことなく梗子は華に駆け寄り包み込むようにして抱きしめた。
様々な声が周囲から上がるのを梗子は一喝した。
華の履いているベージュのズボンに黒い染みが滲んでいるのを発見した梗子は素早く浴室からバスタオルを取ってきて華の腰に巻き付ける。
華を支えながらそっと立たせ梗子は一緒にフロアを出て更衣室に向かった。中にあった椅子を引き寄せ華を座らせ梗子も隣に椅子を用意して座った。
「何があったの?」
梗子の声掛けに華は目を合わせることなく視線を泳がせていた。
「野村さん」
華はまだ震えている。
梗子は自分のロッカーを開ける。中から書類が散らばって落ちるのは無視して入浴介助用に用意していたズボンを差し出した。
「これに着替えて。今日はもう早退しなよ。代わりに遅番は私がやるから。課長にも連絡しておく」
華の様子を見ているととてもではないが働けそうにないと思った。自分の早退どころではない。
「私――。私――」
「落ち着いて」
混乱する華の肩を梗子は抱き寄せた。
「もういいから。今度、話せるようになったら教えて。少し休憩室で休んでから、今日は帰りな」
梗子の言葉に華は無言で頷いた。
華の身体を支えながらフロアを出たところで後方から数名の悲鳴が聞こえてきた。
「ゆっくり休んでて」
と言い残し梗子がフロアに戻ると、男性利用者の大西が胸に手を当て仰向けで苦しそうに悶えていた。そして大西は間もなく意識を失った。
――さすがにヘトヘトだ。
梗子は体調を崩した華の代わりに朝から遅番まで通しで働いたことに加え、利用者の急変がありフロアで一次救命として心臓マッサージを行い、一緒に救急車で病院まで同行したのだ。
外出していた管理者が病院に付き添うと言ってくれたのだが、送迎等で親しく話していたご家族に直接事情を説明したいと思い梗子は自ら同行することを選んだ。結果体力を消耗しているのだから自業自得である。
施設玄関のガラス扉に近づくと中にいた悠太が、梗子が脱ぎっぱなしにしていた履き古した上履きを揃えてくれていた。私服姿なので帰宅するところなのだろう。
――案外良いところあんじゃん。
もしかしたらいつもこのように丁寧に揃えてくれているのは悠太なのかもしれないと思い、梗子は感謝の気持ちが沸いた。
だがその感情は一瞬にして消え去った。
悠太がその黒くなった梗子の上履きの中に鼻を近づけたのだ。中の臭いを嗅いでいるようである。梗子は全身が総毛立つように嫌悪感を覚えた。正義感が強い梗子ではあるが、その場で悠太を咎める勇気はなかった。
悠太が外履きに履き替え始めたので梗子はその場を一瞬離れ、彼が出てきたタイミングを見計らって鉢合うように動いた。
「あ、藤本さん。お、お疲れさま」
平静を装い声をかける。悠太も挨拶を返し施設を後にしていった。
悠太の姿が見えなくなってから梗子は、先ほど悠太に臭いを嗅がれた上履きを玄関に置いてあるアルコールスプレーで消毒する。
――ああ気持ち悪い。これ絶対捨てる!
そう思いながら草臥れたスニーカーを脱ぎ、アルコールで濡れた上履きに梗子は履き替えた。
フロアに入り職員用の椅子に腰を下ろすと梗子は一気に疲れが全身に現れ、大きな溜息を吐いた。
壁に掛かった時計を見上げると夜の六時になろうとするところだった。通常なら梗子は六時で退勤である。今日はこの後、愛希と一緒に帰って梗子の家で食事をすることになっていた。だが華を早退させたので予定が変わり、梗子はまだあと四時間も勤務をしなければならない。愛希はそろそろ施設の前にやってくるはずだ。会って謝りに行かなければ―。
「あれ、梗子どうしたの?」
夜勤担当である美由紀が出勤して来るなり聞いてきた。
「今日の遅番は華じゃなかったっけ?」
「体調を崩しちゃって、早退させたんだ」
梗子は昼間の記録をパソコンに打つ手を止めて応えた。
「そう、大丈夫かね。梗子も相当酷い顔だけど、何かあった?」
美由紀に言われ梗子はフロアに設置された洗面台の鏡で自身の顔を確認する。鏡は二枚あり一枚は昼間の騒動で割れたらしい。鏡に写った自分の顔には疲労が目に見えて浮かんでいた。確かに酷い顔だ。
「美由紀、今日ね」
と言って梗子は今日体験した出来事を美由紀に話して聞かせた。
「え! それは―ほんとお疲れ様。てか課長いたんなら搬送同行は任せればよかったのに」
課長というのは管理者の伊藤の事である。
「まあそうなんだけど、娘さんにも会って話したかったし」
「まったく。自分を犠牲にするの得意だね梗子は。さあ、もう今日は帰って休みな」
「野村さんのことなんだけど」
「うん?」
「今日フロアで集団いじめみたいになってたんだ。きっかけは野村さんの披露した超能力が手違いで荒れちゃったみたいなんだけど。皆で野村さんのこと罵倒したりしてて見てるのが辛かった。咄嗟に私も声上げてやめさせたんだけど、また同じようなことが起きるんじゃないかって心配」
「酷い。そんな職場になるなんて。今日いた人で明日もいるのは―」
言いながら美由紀はバインダーに挟まっているシフト表に目を落とした。
「藤本さんか。明日私からも何があったか聞いてみるわ」
藤本、という名前を聞いた梗子は寒気を覚えて鳥肌が立った。
「何? どしたの? 寒い? 熱でもあんじゃない?」
と瞬時に美由紀が聞いた。
「え、いや、うん。実はね―」
と言って梗子は夕方見かけた悠太の行動について美由紀に相談をした。
「何それ、気持ち悪い。小学生が好きな子のリコーダー舐めるみたいなやつかな」
「そういうの、話に聞くのと実際に目撃するのとでは全然違うよ、気持ち悪さが」
「まあそうか。そしたらそれも明日、それとなーく聞いてみるよ。安心して。それとなく聞くから。ささ、早く帰りなって。すごく疲れてんでしょ」
「ありがとう。おつかれさま」
と言って梗子はフロアの出口に向かった。
「そういえば目の前の公園で車の事故があったみたいよ。今ちょうどレッカー車が停まってた。梗子本当に相当疲れてるみたいだから、自転車の運転も気を付けてね」
「そうなんだ。わかった気を付ける」
梗子が美由紀の姿を見たのはこれが最後だった。
今日はユニホームのまま家から来たため、ロッカーからバッグだけ取り出して施設の外へ出ると梗子はスマホで愛希に電話をかけた。コールは短くすぐに愛希は出た。
『終わった?』愛希が聞く。
「うん。待たせちゃってごめんね。今どこ?」
『すぐ近く。待ってて』
と言って電話を切った愛希は五分もしないうちに梗子の前に歩いて現れた。
「最悪よ。まあおかげで時間潰れたけど」
「何かあったの?」
「来て」
愛希に言われ付いていくと公園の前のガードレールに腰かける男性と目が合った。どこかで見たことがある。
「彼、私のバンドでサックス吹いてるセイヤ。セイヤ、彼女は私の恋人の梗子」
あまりにも自然な紹介に梗子は一瞬ぽかんとした。
「ふん」とセイヤは素っ気なく梗子から目をそらせた。
「信じなくてもいいんだけどさ」
愛希が口を開く。
「さっきセイヤのオンボロ車が暴走してさ」
「おいオンボロはねえだろ」
セイヤが口を挟むが愛希は続ける。
「そこの電信柱にぶつかって今やっとレッカーで運ばれたところなの。たまたま私も乗ってて、もう散々」
「え!」
先ほど帰り間際に美由紀が言ってた事故とはこのことなのか。
「大丈夫? 二人とも怪我は?」
「掠り傷程度だから大丈夫。警察の人とかも来て二人で事情聴取されてたんだ。でね、車が暴走する前にね、目の前に真っ黒なロングヘアの女の人を見たのよ。その人が両手を車に向かって伸ばして、そしたら途端に起こった事故だからきっと幽霊か何かの仕業だって言ったんだけど、当然相手にしてもらえなかったんだ」
「真っ黒なロングヘアの女の人?」
「そう。白いシャツ着て青白い顔してさ、思い出すだけで寒気がするわ」
「こいつがその女が超能力か何かで車を動かしたんだとか言うから、クスリでもやってんじゃないかって俺まで疑われて大変だったぜ」
「超能力?」
何か嫌な予感がした。咄嗟に華の顔が浮かぶ。容姿も重なる。
「本当に見たんだから。もう夢に出てきそう」
「知るか。せいぜい彼女に慰めてもらえ。一体どんな風にやるか見てみたいもんだけどな」
と言ったセイヤが梗子の全身を舐めるように見た。梗子は愛希と付き合うようになってからか、男性の視線というものが極端にいやらしく生理的に受け付けなくなってきていた。
「ちょっと、いやらしい目で見んじゃないよ!」
愛希が鋭く突っ込む。
「別に。もう俺は帰るぜ」
と言ってセイヤは歩き出す。
「またスタジオでね!」
愛希が彼の背中に声をかけると彼は振り返らず手を振って歩き続けた。愛希はポーチから煙草の箱を出し中から一本引き抜いたが、梗子をちらりと見てまた箱に戻した。
「吸って良いよ?」
「携帯灰皿がもうパンパンなのよ。梗子の前でポイ捨てしたくないし」
「私の前じゃなくでもダメだよ」
「ダメか」
と愛希が笑いつられて梗子も微笑んだ。
「お疲れ様。帰ろっか。えっと今日は梗子ん家泊まっていいんだっけ?」
「良いよ。自転車取ってくるね」
梗子はそう言って施設の駐輪場に向かった。
窓から差し込む日差しで梗子は目を覚ました。蒸し暑さに上体を起こすとタオルケットがはだけた。上半身に何も身に着けていないことに気づき「えっ」と咄嗟に胸を腕で隠してベッドの周りを探し無造作に床に落ちていたTシャツを拾い上げる。トイレを流す音が聞こえ中からタンクトップにショーツ姿の愛希が出てきた。
「起きたの?」
「おはよう」
「もうすぐお昼だよ。昨日はすごかったよ、梗子」
言いながら愛希は梗子の隣に腰を下ろした。
「何が?」
「何がって。覚えてないの? あんなに激しくあんたったら。まだ私アソコうずうずしてるような感じ」
「そ、そうなんだ」
あまり覚えていなかった。しかし口の中で愛希の味が微かにしている感じがした。
「ねえ、換気扇の下で一服して良い?」
「うん、良いよ」
「あ、昨日言ったこと覚えてる?」
愛希が火をつける前の煙草を咥えたまま聞いた。
「八月三十日でしょ? あと一週間ね。絶対忘れないないよ。愛希の晴れ舞台だもんね」
「晴れ舞台とか言われるとなんか恥ずかしいな」
愛希の所属するバンド『ロカロカ』のライブにレコード会社の職員が鑑賞にくるらしい。気に入られればそのままデビューの話になるかもしれないと昨夜愛希は目を輝かせて話してくれた。梗子は自分のことのように嬉しかった。その嬉しさが溢れるあまり、愛希に対して積極的に愛撫をしたのかもしれない。
「シフト調整して必ず観に行くね」
「ありがと」
と言って愛希が梗子にキスをする。
梗子は目を閉じてゆっくり愛希のキスを味わった。
その時、梗子のスマホが着信音を鳴らした。
キスの余韻をもっと感じていたかったが、仕方なく梗子はスマホを手に取り画面を見る。画面には職場の番号が表示されていた。
2
市内にある総合病院からの通報を受け、Ⅿ警察署の武田刑事は相棒の田中と共に病院に着いた。
今の時期は夕方になっても気温は少しも下がらず蒸し暑いため不快な気持ちになる。病院に入りエアコンの聞いた館内で一瞬立ち止まり武田は大きく息を吐いて気持ちを整えた。
あと二年で定年という歳の武田にとって猛暑の中ワイシャツを着て出歩くことだけでも最近はしんどくなってきていた。武田に比べまだ三十代の田中は何故か清々しく見える。
救急治療室前の廊下に医師と思われる白衣を着た男性とその横にはワイシャツ姿の中年男性、そして廊下に設置してあるソファには中年女性が顔に手を当て、泣いているのか前傾姿勢で身体を震わせていた。武田は田中と並んで近づき警察手帳をかざしながら自己紹介をした。
武田に顔を向けた医師も続いて自己紹介をし、隣にいた中年男性は介護施設の責任者で伊藤と名乗り名刺を差し出した。ソファに座っているのは死亡した男性の娘であるという。
今回の通報は介護施設を利用している男性が突然意識消失し救急搬送後に亡くなったことが発端である。心臓発作による急性心不全という診断となったのだが、死亡した男性には心臓病などの既往もなく所謂突然死であったため、病院が警察の介入を勧めたのであった。遺体に不審な痣などはないようなので暴力による虐待ケースではないだろう。
「伊藤さん、今回の経緯を教えていただけますか?」
医師が場を離れた後、武田はソファに座る女性に冥福の言葉をかけ、伊藤に話しかけた。
「あ、はい、えっと―」
伊藤は動揺している。警察に事情を聴かれることなど滅多にないだろうから仕方がない。
「私は営業で外回りをしていたんですが、帰ってきたらフロアが騒がしいんで見に行ってみたら大西さんが床に倒れておりまして」
大西と言うのは今回亡くなった男性のことである。
「ベテランの職員が心臓マッサージして一次救命してくれていたので私は簡単に事情を聞いてすぐに救急車を呼んだんです」
「原因は?」
「それがまだはっきりとわからなくて」
「伊藤さん、職員から事情聴いたんでしょ。何もわからないってことはないでしょう」
自然と強い口調になってしまった武田は隣にいた田中に静止をかけられた。
「失礼。その心臓マッサージしていた職員にも話を聞きたいですね。明日にでも施設に伺わせていただけますか?」
「刑事さん―」
伊藤が返事をする前に大西の娘である女性がソファに座ったまま口を開いた。涙はもう治まったみたいだ。
「心臓マッサージしてくれた子、吉岡さんは本当にいい職員です。いつも送迎の時に顔合わすんだけど、父が理不尽なこと言ってもいっつも笑顔でね。嫌な顔してるとこ見たことないんです。父もデイサービスは楽しく通わせてもらってましたし、最近は手品を見せてくれる職員さんがいるみたいでそれを見るのが楽しみだって言ってました。良い職員さんばっかりなんです」
「それはそれは」
武田が返す横で伊藤は大西の娘に深く頭を下げていた。
「では、伊藤さんまた連絡しますので」
そう言って武田は田中と共に病院を後にした。
警察署に戻ると武田は真っ先に喫煙所に入った。田中も続く。
「事件性は―どうですかね?」
紙巻き煙草に火を点けた武田の横で田中が聞いた。田中は煙草を吸わない。
「さあな。明日施設行って防犯カメラ映像でも見せてもらおう」
「介護施設の事故といえば、武田さんが前にいたS市で大規模な火災ありましたよね」
「え、ああ。あれは休憩室のファンヒーターが爆発したんだよ。俺がⅯ(こっ)市に転勤してくる前の最後に関わった」
「今日の件と同じ法人なんですよ。なんか匂わないですか?」
「どうだかなー」
言いながら武田は煙草の煙を口から吐き出した。
あれは確かクリスマスイブの前日に起きた事故だった。
現場となった介護施設の休憩室には火災発生時複数名の職員が滞在していた。その人数は遺体の数から十名と断定された。休憩室は更衣室も兼ねていたため室内に防犯カメラはなく、状況把握に手間を要したのを覚えている。
この事故には不可解な点が三点あった。
一つは、部屋の鍵は施錠されていなかったのに逃げ出した者がいなかったこと。火災が発生したとなれば身の安全を守るためにもまずその場から逃げることを考えるのが一般的だと思うが、助かった者はいなかった。
二つ目は、室内のスプリンクラーが作動しなかったこと。施設内のスプリンクラーは直近で点検に入って異常がないことを証明されている。
最後は、遺体の一つが身元不明だったこと。
何故かその遺体だけ他のものとは違い丸焦げになっていた。指紋や歯科記録、DNA鑑定などで身元特定のため科学捜査も取り入れられた。
当時インターネットでは様々な憶測記事や掲示板による流言飛語が飛び交っていたのを覚えている。それはいずれも一人の女性を語るものであった。氏名を始め個人情報もそこには晒されており、顔写真も掲載されていた。
その写真の女性は、真っ黒な髪を胸まで垂らし前髪は瞼にかかるほどで、肌は白く、猫目の一重瞼には表情が現れていなかった。
事故当日の出勤名簿と照らし合わせて、警察でもその女性の事は疑ってみたのだが、事故後も何も変わらず勤務していたため遺体と結びつけるのは不可能なことであった。
武田は結局、事故を最後まで担当することなく転勤になってしまったのだが、後日確認したところ身元不明遺体の特定は進展なく無縁仏として埋葬するかもしれないとのことだった。
謎は残されたままだ。
翌日、利用者の急逝事故があった介護施設に武田と田中が到着すると管理者の伊藤が出迎えた。
「今日は施設内の防犯カメラ映像の確認と、当日いた職員さんに話を聞きに来ました」
武田がぶっきら棒に言うと伊藤は「申し訳ありません」と頭を下げた。
「私に頭下げたって仕方ないでしょう。とにかく確認させてください。昨日救急車に同乗してくれたという職員は出勤ですか?」
「今、こちらに向かってもらっています」
「そうですか。では私は先に館内のカメラ映像を見させてください。田中は、事故の時に居合わせた職員に話を聞いてくれ」
武田はそう采配すると伊藤に館内の防犯カメラ映像の確認方法を教わった。
確認は文字通りすぐに終わった。結果として、事故が起きたその瞬間は何もわからなかった。理由はカメラが故障していたのである。しかも全てのカメラが同時に真っ暗になったのだ。
現場となったフロアの映像に映っていたのは女性職員が手品か何かを披露しているところだった。その女性職員が伸ばした両手の先でスイカ大のゴムボールが宙に浮いていた。一人の男性職員が手品をしている女性職員に近づいたあと、ボールが破裂した。そして一気に館内のカメラが映らなくなってしまったのだ。
これは偶然の出来事として流して良いものなのだろうか。
事件性なしとして処理をしたい案件ではあったが、これではどうも腑に落ちない。
何の収穫も得られなく頭を抱えた武田は後ろから「職員からの聞き取り終わりました」と田中に声をかけられた。
「おう。こっちは何も収穫なしだ。カメラが全部壊れていやがる。聞き取りはどうだ?」
「特には。救急に同乗した職員も到着して話聞きましたが、不審な点はありません」
「そうか」
武田は責任者の伊藤に依頼し、亡くなった大西の医療情報や利用状況など一式のコピーをもらい、田中と共に施設を後にした。
3
課長の伊藤に呼び出しを受け梗子は施設にやってきた。
三十代と思われる田中という刑事が昨日の大西の事故の詳細を聞きたいと言ってきた。
聞き取りは施設の二階にある休憩室で行われた。室内には悠太の姿もあった。悠太と目が合うと、昨日施設の玄関で見た光景が頭に蘇る。
汚れた上履きを顔に近づけ中の臭いを嗅いでいる悠太に生理的嫌悪感で鳥肌が立つのを梗子は感じた。
聞かれたこととその場の状況を偽りなく伝え、梗子と悠太は解放された。
翌日から梗子は悠太とはなるべく勤務が被らないように調整し働くことにした。
愛希のライブまであと6日。
華はあの事故以来、欠勤が続いていた。電話をかけてもみたが電源が入っておらず反応がない。病気にでも罹ったのだろうか。心配になった梗子は華の家に行ってみようと思い立った。
**
ああ。
朝だ。
起きなきゃ。
顔を洗わなきゃ。
歯を磨かなくちゃ。
起きなきゃ。
起きなきゃ。
起きなきゃ――。
華は重い身体をゆっくりベッドから起き上がらせた。硬い髪の毛が寝ぐせで跳ね上がっている。
周りがぼやけて見える。
もう仕事に行くのが面倒くさい。
きっと私一人いなくたって職場は何事もなく回っているだろうと華はベッドに寝転がりながら卑屈な気持ちになったりもするが、久しぶりに電源を入れたスマホに梗子から送られた『野村さん大丈夫?』と気遣うメッセージが嬉しくもあった。
――嘘でも嬉しい。
今はまたスマホの電源を落とし外の世界をシャットダウンしている。テレビも見ない。気が付いた時に起きて、どうしても空腹に耐えられなくなったら近くのコンビニで買えるだけ食料を買い込みまた部屋に引きこもる。そして眠くなったら寝るだけの生活。
――このまま消えたほうがマシかもしれない。
何もせず過ごす中で時折職場での体験がフラッシュバックしてしまう。
あの日フロアで華は念動力を使ってボールを宙に浮かせていた。だが悠太の一言に感情の抑制ができなくなりボールや花瓶が割れ、椅子が倒れポルターガイストのようにタンスやキャビネットが揺れ始めたのだ。スタッフや利用者からは罵声が飛び、守ってくれた梗子は――。
――吉岡さんが、あんな――。
華はあの日の梗子の姿が目に焼き付いていた。
職場の前で派手な身なりの女性と唇を重ね、淫らに互いの舌を絡めあい、いやらしく身体を撫であう姿――。多少記憶が妄想により膨張しているかもしれないが、それほどショッキングだったのだ。そしてその女性は梗子と別れた後すぐに男性の車で――。
その日の帰宅途中、華は因縁をつけられた男たちを念力で投げ飛ばした。そして帰宅してから脱衣所にある洗面台の鏡を割った。
――昨日は何を食べたのだろう。
――お風呂にも入っていない。
――ああ髪が臭い。
――身体中ベタベタしている。
インターホンが鳴った。
ベッドに横になりながらテレビの横に置かれた時計を見ると時刻は夕方になっていた。
無視をしていると再び鳴る。
出る気など毛頭ない。
居留守を使おう。
三度目のインターホンの代わりにドアがノックされた。
「野村さん。大丈夫?」
梗子の声が外から華を呼んだ。
驚いて華はベッドから飛び起き、寝間着代わりのキャミソール姿のまま玄関の扉を開いた。瞬間外に立っていた梗子と目が合い、すぐに華は目をそらした。
「良かった、生きてた」
と、梗子は安心したように言った。
「よ、吉岡さん。どうしたんですか?」
目を合わさず華は聞いた。
「どうしたじゃないよ。ライン送っても返事ないし、電話も繋がらないから心配してたのよ。うろ覚えだけど家の場所見ておいてよかった。髪の毛もボサボサじゃない。具合はもう良くなったの?」
「ええ、まあ」
「これ、お見舞い」
梗子は手に提げていたビニール袋を見せ、果物だと言った。
このまま追い返すのも気まずいと思い華は玄関を大きく開き梗子を中に招き入れた。
1Kの間取りのアパートである。キッチンを抜けるとそこは寝室兼リビングになっている。歩きながら華は自らの身体から発する汗臭いにおいを感じていた。梗子も感じているはずなのに全く顔に表さないことに華は好感を抱いた。
フローリングの床に座布団代わりのラグマットが置かれている。華と梗子は部屋の中央に置かれたテーブルをL字で囲む形で腰を下ろした。
「仕事を休んですみません」
華は梗子に向かって頭を下げた。
「具合悪かったんじゃないの? それは仕方ないでしょう」
梗子はそう言ってテーブルに置かれた何日も洗っていないコーヒーカップを目にすると、
「ご飯ちゃんと食べてるの?」と聞いた。
「ええ、まあ」
答えたはいいが華は自分が昨日何を食べたのかも覚えていなかった。
「ええまあってねえ。なんか美味しいものでも食べに行こうか? それとも私が作ろうか?」
「あの吉岡さん、そんな、大丈夫ですから」
「ああごめん、私世話焼きでね。何でもかんでもやってあげたくなっちゃうの悪い癖なんだ。こんな話をするつもりで来たんじゃないのよ」
「悪いことじゃないと思いますけど。吉岡さんは本当優しいんですね」
「優しいっていうのかねえ。甘やかしすぎて彼氏とかどんどんダメになっていくんだよね」
「彼氏―ですか」
華は梗子の言葉に何か違和感を覚えた。
「今は、彼氏はいないけどね」
そう言った梗子を上目遣いに見ると華はあの日の光景が目に浮かんだ。瞬間、何かに憑かれたように華は梗子を問い詰めたくなった。
「彼女はいるってことですか?」
「え?」
「あの女の人と吉岡さんは、付き合ってるんですか? 職場の前でキスしてるところ見ちゃいました。吉岡さんは―」
華は自身を落ち着かせているネジが外れたように一気に喋った。そして、
――レズビアンなんですかと最後は小声になって聞いた。
「私は――」
梗子が答えに詰まる。
はっきりしない梗子の様子を見ていると華はイライラしてきた。気持ちが抑えられなくなってきている。
「私のことはどう思いますか?」華が聞く。
「え?」
「私に魅力は感じますか? 恋愛対象になりますか?」
華は鋭く梗子を見つめた。
「世話焼きだって言うなら、私をお風呂に入れさせることもできますか? 私の排泄も介助してくれるんですか?」
「落ち着いて野村さん」
華の剣幕に梗子は座ったまま後退りを始めた。
「逃げるな!」
華は声を上げると梗子に飛び掛かった。そして押し倒し上に重なる。抵抗する梗子の両手に意識を向けると彼女の腕は金縛りにあったように動かなくなった。
「やめて――」
バタつかせる梗子の片足を華は自分の両足で挟む。そしてゆっくり股間をこすりつけた。
――ああ臭い。
興奮している華の身体からは何日もシャワーを浴びていない汗の臭いが噴き出していた。
梗子の顔を見つめる。
目が合うと梗子は一瞬動きを止めた。
その瞬間に華は――。
梗子にキスをした――。
唇を重ね一瞬力が緩んだ時に華は梗子に突き飛ばされた。
華は我に返り、今までの行動に自らが驚いている。
梗子は素早く起き上がり玄関に駆けたが、華は後を追わなかった。玄関を出る前に梗子が部屋を振り返ったが、何も言わず玄関を出て行った。
華は全身の力が抜けリビングの床に座り込んだ。
何をしていたかわからない。
華は自分に何が起きたのか頭の中で整理がつかなかった。
ただ身体は火照っていた。
ゆっくり目を閉じた時、猛スピードで今この部屋で起きたことの記憶が蘇る。
自分自身の視点ではなく、梗子に襲い掛かる自分を華は客観的に見た。
梗子に覆いかぶさり、梗子の足を自らの足で挟み、両手の動きを封じ、梗子に無理矢理キスをする自身の姿を見た。
目を開けて現実に戻る。
身体中が興奮しているのがわかる。
そして自身の行動に対して華は嫌悪を覚えた。
「ああ――――!」
部屋の中で華は叫び両手を広げた。
むしゃくしゃした華はその手を思いきり前方に振り切ると、テーブルに置いてあったコーヒーカップが吹き飛び玄関に当たって壊れた。華はそこで力が抜けたように床に仰向けになり天井を眺めた。
それから何分が経過したのだろう。時計を見ていたわけではないのでわからない。何時間かもしれない。外はもう暗くなっていた。
インターホンが鳴りそのあとドアをノックする音が聞こえた。
「野村さん」
聞き慣れた女性の声が華を呼ぶ。
優しい。
声を聴くだけで安心できる柔らかい声。
「吉岡――さん」
華は身体を起こすと玄関に行き扉を開けた。
外には予想通り梗子がいた。
「急に出て行っちゃってごめん。やっぱりちゃんと話しようかなと思って―」
梗子の言葉を聞いて、謝るべきは自分の方だと華は思ったが言葉が上手く口から出てこなかった。
「ど、どうぞ」
と華は梗子を再び家の中に招き入れた。
寝室兼リビングで華は梗子と向き合って床に座った。
「私、彼女とお付き合いしてる」
梗子が口を開く。
「え?」
華は咄嗟に何を返事して良いのかわからなかった。
「施設の前で野村さんが見た彼女と」
「よ、吉岡さんって、やっぱり、その――」
「同性愛者かって? わかんない。初めてだもん。今までは男の人しか付き合ったことないし。でも今は彼女をとても好きなのよ」
言葉が出てこない。
だがものすごく悲しい。
誰に対しても優しく、職場で誰からも好かれていた憧れの梗子が、ものすごく遠い存在になってしまったような気がした。
今まで恋をしたことがないと言えば嘘になるが、これが失恋というものかと華は感じた。同時に華は、梗子に恋をしていたのだということに気が付いた。
梗子に同性愛者か問いただす前に自分がそうなのではないかと思った。
「私は――」
華は風が吹いただけでもかき消されそうな細い声をだしたが梗子は聞き取ったようで「うん」と相槌を打った。
「吉岡さんに憧れてます。人としても介護職員としても憧れてるんです」
「それは――ありがと」
「触れずに物を浮かせたり動かしたりできるのも、吉岡さんのことを強く想像するとできるんです。これ、今までは制御できなくて悩んでいたんですけど、吉岡さんのことを考えると冷静にできるようになれました。きっと吉岡さんを好きになったからだと思います」
「ありがとね。でも私は言うほど出来た女じゃないと思うよ」
「そんなことないです。吉岡さんは人を見下したり悪口言ったりしないじゃないですか」
「そりゃあ、自分がされて嫌なことはしないようにしてるけど」
「じゃあ何がダメなんですか? 人を殺したことでもあるんですか?」
華は少しムキになってきていた。
「野村さん、落ち着いて。気持ちはすごく嬉しいよ。本当にありがとう。もちろん人殺しなんてしたことないよ。あなただってないでしょ?」
――もちろんです。
と言いかけて華は言葉を詰まらせた。先日男性二人に絡まれた時の記憶が蘇ったからだ。苛立ちによる衝動が抑えきれずに華は彼らを自らの念動力によって投げ飛ばし、一人は指の骨もおそらく折ってしまったのである。ひとつ間違えたら殺していたかもしれなかった。それに、前に働いていた介護施設で起きた火災はきっと衝動が抑えきれずに念動力で起こしてしまったことだろうとも思う。あの火災では大勢が亡くなった。
「私は自分が怖いです」
「怖い?」
「無意識のうちに私は―あの力で酷いことをしてしまうんじゃないかって」
「超能力のこと?」
「はい」
と華が返した後しばし梗子との間に沈黙が流れた。華は下を向いた。
「私は――」
黙る華に梗子が言葉を続ける。
「野村さんのその力を糾弾したり否定したりしたくないの。むしろ守るべきものだと考えてる。誰にだって持っているものじゃないし、野村さんに与えられた資格だと思うのよ。私は野村さんの味方でいたい」
梗子の言葉を聞きながら華は少しずつ顔を上げた。
梗子は微笑むと「そろそろ行くね」と立ち上がり玄関へ向かった。華も立ち上がり見送りに向かう。玄関で立ったままスニーカーを履いている梗子を華は後ろから抱きしめた。
「吉岡さん――」
華は衝動的に抱きしめたはいいが、続く言葉が思いつかなかった。
「野村さんがその不思議な力を使えるようになったのは、私のことを好きになったからって言ってたよね―」
梗子は振り返らず静かに口を開いた。
華は相槌も打たず梗子の言葉を待った。
「もしまたその力を抑えられなくなりそうになったら、私のことを想像してみてよ――少しは、違うかも」
そう言うと梗子は首だけで華を振り返り「また職場でね」と言って玄関を出て行った。
梗子の言葉はとても嬉しかったが、同時に彼女を失ってしまったときは何を支えにしていけばいいのか考えると華は底知れない孤独を感じた。
――お前、本当は死んでんだろう――。
ふいに悠太の言葉が華の頭に蘇る。
ちゃんと生きてるのに――。
――私は――。
私は梗子に会いたかった。
梗子と一緒に働きたかった。
同僚からお化けだと言われ酷い扱いを受けていた施設にヘルプで一回だけやってきた梗子に名前で呼ばれたことが嬉しかった。
梗子がいる施設に異動願いを出し、年明けにはそれが叶うことになっていた。だからどんなにいじめられても華は耐えて仕事に専念してきた。そしてクリスマスイブの前日、華は同僚から受けた屈辱についに我慢が出来なくなり――。
周りはとても熱かった。
火の手はあっという間に室内に充満していった。
泣き叫ぶ同僚たちの声が耳に響く。
自分が履いているズボンにも火が移っていた。
私は――。
4
愛希のライブまであと5日。
セイヤのサックスが音を止めたのでバンドの演奏もそこで止まる。愛希は短く息を吐き髪を掻き揚げた。スタジオ内にはまだ音の余韻が残っていた。彼が演奏を止めたのは愛希が何度も歌詞やタイミングを間違えるからだろう。
「おい愛希! 集中しろよ!」セイヤが怒鳴る。
「ごめん。なんか今日はミスばっか」
「本番まであと五日だぞ。気を抜くなよ」
「わかってるよ」
本番まであと五日―。
そのライブにはレコード会社の関係者が来るそうだ。
ロカロカの演奏を聴きに。
私の歌を聴きに――。
今度のライブは、レコード会社の人間にももちろんちゃんと観てほしいが愛希にとっては誰よりも梗子に観せてあげたいと思っている。
「恋人と喧嘩でもして、そんなんで集中できないとかだったらふざけんなよ」
と言ったセイヤの言葉に舌打ちをして愛希は彼を睨みつけた。そのあと「愛希彼氏いたのか?」など他のメンバーが広げたくもない話題を始めた。
セイヤはバツが悪そうに気まずい表情を浮かべていた。その瞬間、愛希の中で何かが吹っ切れた。
「ねえ皆、ちょっと聞いて」
と愛希はメンバーに向かって口を開いた。
「今まで黙ってたんだけどさ、私はこれからもこのメンバーでバンドを続けていきたいから隠し事は無しにしたい。だから私のこと、話すね」
かしこまった愛希の態度にメンバーは茫然とした表情を浮かべた。
「めんどくさいから単刀直入に言っちゃう。私の恋人は男じゃない。言い出せなかったけど、私はレズビアンなんだ」
「お前」
セイヤがまず咄嗟に言葉を出した。他のメンバーは黙っている。
「驚いた? 別にどう思おうと良いよ。私はもう慣れてるから」
言い切ってから愛希は若干後悔していた。ライブ前にメンバーを動揺させてしまうことになるかもしれない。
「いや」
と口を開いたのはドラム担当のユージだった。
「愛希、まあビックリだけど、なんていうか今更感だよ」
「今更感?」
「他のメンバーはどうか知らんけど俺は、なんとなく予想してたよ。愛希は、そうなんじゃないかなあって」
「え?」
ユージの言葉は愛希にとってとても意外なものだった。彼に続き他のメンバーも同様の意見を述べ始めた。
「だから、やっぱりなって感じよ。セイヤが愛希のこと口説こうとしてたのも知ってる。セイヤには絶対無理だって言ってたんだけどな」
と言ってユージは笑い、「話してくれてありがとな」と最後に言ってくれた。
「つーかそんなことバンド活動に関係あんのか? 疲れてんなら一服して来いよ愛希」
ユージにそう言われ愛希は目を閉じ、ゆっくりとまた開いた。
「ううん。もう大丈夫。続きやろ」
愛希の言葉を聞くとメンバーはそれぞれ楽器の準備を始めた。そして曲の練習が再開される。
愛希はなんだか、とても重い肩の荷が下りた気がした。
5
愛希のライブまであと4日。
「吉岡さんごめん。山田さんのお風呂介助代わってくれない?」
トイレ掃除をしていた梗子はパートスタッフの後藤から話しかけられた。三十代半ばの女性スタッフである。山田というのは七十代の男性利用者のことだ。
「良いけど、どうしたんですか? 具合でも悪い?」
梗子は後藤に聞いた。彼女は勤務中まれに体調不良を起こし早退することがあるのだ。
「いやそういう訳じゃなくて―」
そう言うと後藤は梗子に近寄り耳元に手を当てて小声になった。
「実は前回お風呂入れた時に山田さんのアレが勃っちゃって。失礼だけど思い出すと気持ち悪くなっちゃうのよ」
「え? 本当?」
アレというのはおそらく男性器のことだろう。男性利用者が女性スタッフに対して勃起反応を示すことは珍しいことではないが、今話題にしている利用者の山田がそのようなことになるというのは長年この施設で努めてきて梗子は初めて聞いた。
「私の時は一度もそんなことないよ?」と梗子。
「ええ―。じゃあたまたまかなあ」
「魅力ないんですかね、私」
と笑って返した梗子に対して後藤は、
「私だって別に誘惑したわけじゃないし」
と真剣な目つきで梗子に言い返した。
「とりあえず今日は代わりますね。後藤さんはフロアお願いします」
「わかった。ありがとう」
後藤の頼みを承諾してはみたが、改めて考えると彼女の方が年上なのである。経験が長いとは言え梗子はまだギリギリ二十代。なんとなく釈然としない気持ちになった。もし主任の美由紀に報告したら後藤はきっと注意されるだろう。
**
「梗子最近何となく雰囲気変わったよね」
通常業務を終え梗子がフロアのパソコンでため込んだ訪問支援記録の打ち込みや正社員としての報告書作成で残業をしていると遅番の美由紀が梗子に話しかけた。宿泊の利用者はすでに皆就寝している。
「そう? どこが変わった?」
「どこがって言うか、雰囲気よ。彼氏でもできた?」
「え」
「うそ! できたの? 誰誰?」
美由紀は梗子の目の前に椅子を近づけて座り顔を覗き込んだ。
「か、彼氏なんてできてないよ」
梗子はそう答えた。本当のことである。彼氏などできていない。
「なんだ。てっきり藤本さんかと思ったのに」
「藤本さん? なんでよ」
「新人職員と先輩なんてありがちじゃない。研修でずっと一緒に仕事してたんでしょ。実際どうなのよ。もし彼からアプローチされたら」
「想像もできない」
悠太の教育担当を任された梗子は数日彼と同じ時間帯で勤務をしている。自分の業務と同じ動きを彼にもしてもらい、休憩も同じ時間に取り、二人で利用者宅へ訪問支援にも行った。それだけだ。悠太に対して男性的な魅力は一切感じなかった。年下ということもあるだろう。時折見せる不思議な仕草や考え込む表情は弟のようにすら感じる時もある。
「そっか。まあそう思うなら気を付けなよ。梗子は真面目過ぎて相手に誤解されやすいから。特に男性は」
「どういうこと?」
「親身になりすぎて好意があると思われちゃうってことよ」
美由紀の言葉は正論だった。梗子自身、相手のことを考えすぎてしまうのは悪い癖だと思っている。
「藤本さんがどういう人かわからないけどさ、誤解されないようにしなね」
「ありがと。気を付ける」
「梗子は『みんな大好き吉岡さん』なんだからさ」
「何よそれ」
「みんなに好かれてるってことよ。嫌いっていう意見聞いたことないし」
「私と美由紀が仲良いのわかってるから美由紀には私の悪口なんて言えないでしょう」
「梗子はさ、嫌いな人間なんていないでしょ?」
「嫌いな人間? そうねえ。パッと思いつかない」
「まあでもそう梗子が明るくいてくれるから本当いつも助かってるよ。梗子がいると私が楽出来ていいわ」
「なんかむかつく」
その時ナースコールがあり美由紀は該当の居室に向かった。
美由紀が対応を終えて戻ってくると梗子は「美由紀、実はね」と静かに口を開いた。
「ん?」
梗子は一瞬悩んだが隠していても仕方ないし美由紀には言いたいという思いが強くなり決意する。
「恋人ができたの」
「え、でも彼氏できてないってさっき」
「うん。まあね」
「まあって?」
「女の人なのよ、今付き合ってるの」
この言葉を聞くと美由紀は言葉に詰まったようだ。
「女? 梗子ってそういう系だったっけ?」
「ううん、これが初めて」
「私の知ってる人? まさか華じゃないよね?」
「野村さんじゃないよ。どうしても職場恋愛させたいの?」
笑って梗子は返す。
「美由紀が知ってるというか、見たことはあるって感じかな」
「どういう意味?」
「一緒に及川さんのライブ観に行った時に及川バンドの前に出場してたバンド覚えてる? ラテン系の。そのボーカルやってた人なんだけど」
「ああ、あの金髪の? マジ?」
「うん」
「意外過ぎて梗子とその人が一緒にいるところ想像できない」
「恋愛なんてそんなもんだよ。誰とどうなるかなんてわからないもの」
「それもそうね。なんか、梗子らしい」
**
以前美由紀と話した場面が突然蘇った。
あの時は冗談交じりで悠太の事を話していたが、今は考えることもしたくないほど梗子は悠太に幻滅している。
梗子は愛希の大切なライブを自分のことのように緊張していた。愛希のバンド生命が懸かっていると言ってもいい特別なステージなのだ。当日は最前列で愛希の魅力をたっぷり堪能しようと思う。
夜の十時。遅番業務を終え帰宅しようと梗子は施設の外に出た。
空は真っ暗である。周りは住宅街で街灯も少ないため施設の照明が常夜灯のみにされると寂しさが増す。小走りで駐輪場に向かった梗子はバッグに入れたはずの自転車のキーを探した。
「吉岡さん」
と背中から声を掛けられ梗子は短く悲鳴を上げて後ろを振り返った。目の前に悠太が立っていたので梗子は咄嗟に一歩後退り眉間にしわを寄せた。
「藤本さん。何ですか?」
自然と声が低くなってしまう。
「すみません。あの、驚かすつもりなんてありません。この間のこと謝りたくて」
「この間?」
「僕が、無理矢理野村さんにやらせたんです。超能力を使ったレクを」
華の名前が出たので何を言いたいか見当がついた。スタッフや利用者から罵倒されフロアの隅でうずくまっていた華の姿が目に蘇った。
「あの日、一体何があったの?」
「野村さんはいつものようにボールを宙に浮かせて見せたんですけど、もっと重いものは動かせないのかって僕が提案したら花瓶とか椅子を宙に浮かせ始めたんです。でも急に制御が効かないような感じになって、野村さんの念力を超えて物が暴れ出すようになったというか」
「そう―」
「野村さんはきっと自分のせいであんな惨事になったって気にしているんじゃないですかね。きっかけは僕が提案したからなので僕が悪いんです」
と語る悠太の目はどこを見ているのかわからないくらい泳いでいた。
「そう。教えてくれてありがとう」
梗子は早くこの場を離れたくて会話を終わらせたかった。バッグから自転車のキーを取り出して鍵を外す。
「あの、吉岡さん」
「なんですか?」
と、わざとらしく梗子は疲れた表情を見せて応えた。
「――好きなんです。吉岡さんのこと」
悠太は目を合わせずに言った。
「は? え、何?」
「だから、付き合いたいんです吉岡さんと。吉岡さん見てるとなんだか、上手く言えないんですけど、とにかくすごく好きなんです」
悠太の言葉が終わると梗子は小さくため息を吐いた。
「ごめんね、私には恋人がいるのよ」
「え、この間は彼氏いないって」
「まあ、彼氏はいないんだけど。ありがとね。でも藤本さんとは付き合えない。ごめん」
気まずい空気になってきたので梗子は自転車に跨り悠太に背を向けた。
「あの金髪の女と付き合ってるんですか?」
「え?」
と梗子は声を出すと、振り向く間もなく後ろから悠太の腕で首を締められた。驚いて反射的にその腕を外そうとするが強く固められビクともしない。顔の横に悠太の息使いが聞こえた。さらに首を締めあげられ自転車に跨った足がピンと伸びる。
「あの女と施設の前でイチャついてたろ。知ってんだぞ。それにあの女が誰かも」
「離して」
「今度ライブやるんだって? 楽しみだな。良い舞台にしてやるよ」
「な、何をする気なの?」
悠太は顔を梗子の首筋に近づけて匂いを嗅いだ。気持ち悪さに思わず身体が震える。
「やめて」
「あの女がいなくなれば、お前は俺の物になるのか?」
「やめてください!」
梗子は渾身の力を込めて身体を前傾にすると両足で地面を蹴飛ばして思いきり身体を反り返った。後頭部が悠太の顔に当たる感触があり、その瞬間悠太の腕が首から外れた。梗子はバランスを崩し自転車に跨ったまま地面に倒れたがすぐ起き上がると悠太と向かい合い顔を手で押さえる悠太を思いきり突き飛ばした。反動で悠太は並べられた自転車の列に倒れこんだ。梗子は自分の自転車を起こし、すばやく跨り走り始めた。振り返らないようにして、とにかく早くペダルを漕いで梗子は駅前の警察署に向かった。
**
田中から来客が来ていると聞き、武田は喫煙所から出てデスクに戻った。武田の椅子には若い女性が座っていた。武田は隣の席の椅子に腰を下ろし田中がその横に立った。
女性の名は吉岡梗子だと田中が紹介した。武田が担当した死亡事故のあった介護施設で働いている女性だ。
「刑事さん助けてください。愛希が、殺されちゃう」
梗子が向かい合うなり口を開いた。
「ちょっと待ちなさい。一体何を言っているんだ。アキと言うのは誰だ? 君の職場の人間かい?」
事故が起きた介護施設で事情聴取をした職員の名前を全員覚えているわけではない。
武田の質問を受けた梗子は深呼吸をして息を整えてから今回の訴えについての解説を語り始めた。愛希というのは現在彼女が付き合っている恋人の名前だという。さらりと同性愛を公表した梗子に武田は田中と顔を見合わせたが、それについて深くは踏み込まなかった。その愛希は音楽活動を行っており今度行われるライブで同僚の藤本悠太という男性に殺されるというのだ。なんとも突拍子もない。
藤本悠太は梗子に想いを寄せており恋人である愛希を殺せば梗子が自分の物になると言って梗子を脅したらしい。
「その彼は、いったいどうやって君の恋人を殺すというんだね?」
「そんなこと詳しくは話してないです」
「そのライブというのは、いつなんだ?」
「八月三十日。あと三日しかないんです!」
武田はデスクに置いてある置き型のカレンダーを見る。
「藤本さん――」
梗子は俯きがちに言葉を続けた。
「私の靴の臭い嗅ぐんです。これどう思いますか?」
「どうって――」
突然の話題転換に武田は横で立っている田中を見上げた。
「一種の性癖でしょう。吉岡さん、ストーカーで被害出しますか? ひとまず警告として彼に伝えることはできると思いますよ」
田中が冷静に答えた。
「そんな警告だけじゃダメです。せめてライブの日だけでも身柄を拘束してください!」
「そう言われてもなあ」
武田は渋面で返事をする。
「この間の事故だって、野村さんの超能力が暴走したのはきっと藤本さんが何かしたからだと思うんです。もう少し調べてみてください」
「超能力?」
田中が素早く反応する。
「野村さんは超能力を使えるんです。意識を集中させれば。それを藤本さんが何か酷いことでも言って邪魔したんですよ」
「吉岡さん、そんな非科学的で映画みたいな作り話を誰が信じると思いますか? 警察にはオカルト専門の部署なんてありませんからね」
田中が冷たく答える。
「それにねえ、僕が聞いている限り君と恋人の彼女と彼との痴情の縺れにしか聞こえないよ。殺すとか死ぬとか、若い子は今簡単に使う言葉なんだから。そんないちいち警察に来られちゃこっちも目一杯なんだよ」
「おい田中」
武田はそこで田中の言葉を制した。
「酷い! じゃあ誰に相談すればいいんですか!」
梗子が田中ではなく武田の目に向かって声を上げる。
「だからまずは当事者同士で話し合いを―」
武田の代わりに田中が返答すると「もういいです!」と言って梗子は武田を睨み立ち上がって出口の方に向かっていった。
「君、待ちなさい」と咄嗟に武田は呼びかけるが。
「武田さん」
と田中に袖を引かれ武田は向かい合う。
「まさか彼女の発言を信じるんですか? 狂ってますよ。ドラッグを疑ってもいいかもしれません」
と小声で田中は言った。
「そんな風には見えんけどな。むしろ放っておいた方が心配だ。何か彼女を安心させてやらんと」
そこに梗子がまた戻ってきた。
「ライブは今度の金曜日よ。もし愛希に何かあったら、あなたたちも許さないから!」
と言うと梗子は武田を睨みつけて出て行った。
**
愛希がシャワーを浴びて浴室から出ると同時に部屋のインターホンが鳴った。返事をするよりも早く次は玄関が叩かれる音がする。
「愛希」
と外から梗子の声が聞こえた。愛希は濡れた身体を拭くのもそこそこにショーツに足を通し寝間着代わりのTシャツを着ると玄関を開けた。外には梗子が息を切らして立っていた。
「どしたの?」
梗子を部屋の中に迎えつつ愛希は聞いた。梗子の目は潤んでいた。
「愛希。今度のライブ、中止して――」
「え?」
予想外の言葉に愛希は理由を聞くよりも先に嫌悪の気持ちが顔に出てしまった。
「何言ってんの?」
「藤本さん――」
梗子は息が上がっていて言葉を刻みながら話す。
「藤本さんが今度のライブで愛希を殺すって」
「藤本って誰よ? なんで私がそんな面識もない人に殺されなきゃいけないのよ」
愛希の質問に梗子はここに来る前に起きたことを話してくれた。梗子の言う藤本という男は梗子に想いを寄せており、愛希が梗子の職場の前で二人で抱き合っている姿を目撃し殺すと脅してきたということだ。警察に相談しても取り合ってくれなかったらしい。
男の嫉妬は醜い。
「ただの嫉妬だよ。ライブハウスはちゃんとスタッフもいるし警備もしてくれるよ。お客さんだっているんだからそんな大々的に犯行なんてできないよ」
「でも――」
「今度のライブはレコード会社の人も見に来ることになってるし、中止になんてできないよ。私の夢が前進するかもしれない重要なライブなんだから」
「そうだけど」
「大丈夫。梗子に見に来てほしいけど、怖かったらやめておく?」
「それも嫌」
梗子は下を向いて涙声になっていた。
「まったく」
愛希はそっと梗子を抱き寄せる。
「今日は泊まってきな。疲れてるんじゃない?」
と言った愛希の言葉に梗子は黙って頷き返した。
6
愛希のライブまであと3日。
施設の玄関を入る。外履きを脱いで上履きに履き替え事務所に向かおうとして、ふと思い立ち梗子は脱ぎ捨てた外履きをちゃんと下駄箱にしまった。
昨日愛希の家に泊まり彼女は優しく抱きしめて横で眠ってくれた。おかげで少しは気が楽になったが、今朝目覚めると愛希はすでにバイトに出かけていた。リビングのテーブルには『鍵はポストに入れといて。今度合鍵作るね』というメモと一緒に玄関の鍵が置いてあった。
彼女は心配ないと言ったが梗子はやはり不安を消すことができない。警察にも足を運んだが、刑事には相手にされなかった。
「あ、お、おはよう」
更衣室に入ると同僚の女性スタッフと鉢合わせた。彼女は梗子と目が合うとぎこちなく挨拶をして目線を外して更衣室を出て行った。
ユニホームに着替えた梗子はフロアに入り利用者に挨拶をして回る。そこへ島田が送迎から帰ってきて利用者を一人連れて現れた。梗子が挨拶をすると島田は表情をなくして顔をそらせた。フロアに設置されているパソコンの前には夜勤明けの及川が座って記録入力をしていた。
「おはよう。島田さんなんか機嫌悪そうだけど、朝何かあった?」
梗子はパソコン横のカウンターに置いてある本日の業務日誌に目を通しながら何気なく及川に聞いた。
「おはようございます。別に何もないっすよ」
「そう」
「あ、そういえば吉岡さん、ロカロカの愛希と付き合ってるらしいじゃないっすか。言ってくださいよー。てか、吉岡さんレズだったんすね」
「は?」
思いもしない及川の発言に梗子は咄嗟に声を出した。
「誰がそんなこと?」
「あ、いや別に。朝島田さんがそんなこと噂していたんで」
梗子の緊迫した表情に及川は目を泳がせた。島田は噂好きなのできっといろんなスタッフと話をしているのだろう。更衣室ですれ違った女性スタッフも聞いたのかもしれない。噂の拡散は島田だとして、その発端は悠太に違いないと梗子は確信している。愛希との恋愛について話したのは職場では美由紀と華、そして悠太だけだからだ。美由紀や華がアウティングをするとは思えない。悠太の悪意を感じた。
「バンドやってると、そういう恋愛の話いろんなところで聞きますよ。だから別に吉岡さん気にすることないっすよ」
「気にするって、これがまるで常識じゃない悪いことみたいじゃない」
「そんなつもりで言ったんじゃ―」
「あなたは自分の知らないところで、及川さんは女にお尻を掘られるのが好きだなんて広められたらどう思うの?」
「え? いや、なんで知ってんすか」
「知らないわよ。図星? 朝から変な話やめてよ」
「そっちが言ったんじゃないすか」
「とにかく。例え本当の事でも人のそういうマイノリティーは勝手に噂なんかしちゃダメよ」
「はい。すみません」
強く意見を言ってはみたがショックは大きかった。島田たちの態度を見ると少なからず偏見の目があるのだろう。これ以上及川に当たっても仕方ない。
梗子は仕事を終え退勤すると、出勤時は晴れていたのに急変した天気で土砂降りの中自転車を走らせた。
愛希のことは本気で応援したい。
助けを求めた警察は当てにならない。
――私に何ができるだろうか。
強い雨に打たれていると、梗子は次第に心細くなり大きな不安と恐怖、悲しみ、怒り、様々な感情が込み上げてきた。
そして自然と涙が零れ、それは止まることなく梗子の視界をぼやけさせた。
あとは――。
もう頼れるのは一人しかいない――。
彼女に――。
彼女に話してみよう――。
**
インターホンが鳴る。
華はいつものように居留守を使った。
再び鳴る。無視する。
今度は玄関がノックされた。
「野村さん――」
梗子の声が扉の外から聞こえた。
華は顔を上げるが動く気力が出ない。
「お願い。開けて――」
という梗子の言葉を聞き、華はゆっくりと身体を起こしベッドの上で胡坐をかいた。そして右手を前に伸ばし何かを掴むように手を動かすとその場で手首をひねった。すると玄関の鍵がひとりでに開いた。さらに華は腕を前に突き出すと玄関の扉が自然と開く。外にはずぶ濡れの梗子が職場のユニホーム姿で立っていた。
「どうぞ」
と華は小さく口を開いた。
梗子が中に入ると玄関の扉と鍵が自然と閉まる。梗子はその場に立ったまま部屋に上がろうとしない。
「どうしたんですか?」
華が聞く。
「野村さんお願い―。助けて」
と言うと梗子はその場に崩れ落ちた。
震えている。
懇願するように梗子は身体を丸めて頭を下げている。
「風邪引きますよ」
と言って華はベッドから重い腰を上げる。そして部屋のクロゼットを開け中にある衣装ケースから乾いたバスタオルを取り出した。それを玄関でうずくまる梗子の肩にかけてあげる。
「助けてってどういうことですか?」
と華が聞くと梗子はゆっくりと顔を上げた。
梗子は涙を流していた。
「愛希が――殺されちゃう。今度のライブで殺してやるって藤本さんが私に言ったの」
「そういうことは警察の人に言った方が―」
「相手にしてくれないのよ。愛希にライブの中止をお願いしてみたけど、大切なライブだからどうしてもできないみたいだし、もう頼れるのは華しかいなくて――」
華は下の名前で梗子に呼ばれたことに敏感に反応した。
気が動転しているようなので無意識に出たのだろうが、華はちょっと嬉しく感じた。
「その、要するに吉岡さんの恋人の愛希さんを私に守ってほしいってことですか」
華の問いに梗子は返事をする代わりに目を見つめてきた。
「お断りします――」
当然だろう。
「吉岡さん。私言いましたよね。私は吉岡さんが好きなんです。なんか―なんか釈然としません」
言いながら華は梗子から離れ、部屋のラグマットの上に座って梗子に背を向けた。
「野村さん――」
後ろから聞こえる梗子の声は震えていた。
釈然としない。
「帰ってください」
華は静かに口を開いた。
「――そう――だよね」
図々しいお願いだよねと梗子が言う。華はそれを背中で聞いていた。
「ごめんね」
と言って梗子が玄関を出て行く音がする。
本当に釈然としない。
考えれば考えるほど華の頭はモヤモヤとした。
汗とフケだらけの黒髪がべっとりと顔に張り付き、夏の蒸し暑さが余計に華の神経を苛立たせた。
――シャワー浴びよう。
華は数日ぶりに、そんな気分になった。
シャワーを浴びると少し気分がすっきりとした。先ほど梗子から頼まれたことを改めてゆっくり考えてみようと、バスタオルを身体に巻いて華は浴室から出た。
完全に油断していた。
部屋の中に男性が立っていた。
その男性が同僚の藤本悠太だと認識するより早く、華の背中に回った悠太に髪を鷲掴みにされ、頭を壁に叩きつけられた。
「ぐっ」
華は抵抗できず呻き声を上げる。
悠太は髪を掴んだまま二回、三回と華の頭を壁に叩きつけた。そのあとリビングに投げ飛ばされた華は、立ち上がろうと四つん這いになる。悠太に背を向けていたため、華はお尻を悠太に蹴飛ばされた。痛みに仰け反った背中を悠太に踏みつけられる。
華は身体に巻いていたバスタオルがはだけ全裸になっている。頑張って身体を起こそうとするが、さらに強い力で悠太に背中を踏まれ床に押さえつけられた。
再び髪の毛を鷲掴みにされた華は、悠太によって頭をローテーブルの角に繰り返し打ち付けられた。テーブルには華の顔面から噴き出した血液が付着した。
華はすでに抵抗力を失くしていた。
頭から流れた血が目に入り視界がぼやける。
意識を集中しようとするが、朦朧として念動力が発揮できなくなっていた。
全裸でだらしなく足を広げ、仰向けになった華は悠太に見下ろされていた。
遠のく意識の中、華は力を振り絞り両手を前に突き出した。
梗子の顔を思い出そうと頑張るが集中できない。
すかさず悠太の足が華の顔を目掛けて振り上げられた。それは華の顎に直撃し反動で華は身体を仰け反らす。
悠太の足音がリビングから離れ、またすぐに戻ってくる。
華は血まみれの顔面で悠太の姿を認識した。
悠太は包丁を持っていた。キッチンから取ってきたのだろう。その包丁を迷うことなく悠太は華の心臓目掛けて突き刺した。
「あああああああああ」
華の叫び声は枯れていた。
仰向けに横たわる華に悠太は覆いかぶさり、顔を華の耳元に近づけた。
「梗子は俺の物だ。周りの奴らを消して、俺だけの梗子にするんだ。お前が完全に成仏する前に、同じ快楽を味合わせてやるよ」
そう言うと悠太がズボンのベルトを外す音が聞こえた。
華は抵抗力を失っていた。
そしてそのまま、
華は悠太に犯された。
――成仏。
――私は。
――私は生きてる。
――生きていて、男に犯されている。
――吉岡さん――。
華は悠太に下半身を突き上げられる度に、梗子の顔を思い浮かべた。同時に目の前で身体を重ねる悠太を憎んだ。その憎しみは悠太だけに留まらない。悠太を期待の新人だと甘やかした美由紀を憎み、悠太を職場に採用した管理者を憎み、人事異動を認めた前施設の上司を憎み、その職場で嫌がらせを先導していた女を憎み、その女に合わせて華を無視してきた職員達を憎み、道ですれ違いざまに陰口を叩いた知らぬ男女を憎み、学生時代に無視をしたクラスメイトを憎み、いじめに気が付かなかった教師を憎み、優しい言葉をかけてくれなかった両親を憎み、華を生んだ母親を憎み、母親を妊娠させ華を誕生させた父親を憎んだ。
悠太はペニスを華の中に突き出しながら、梗子の名を呼んでいた。
――吉岡さん。
――吉岡さんも。
――吉岡さんもこの男に犯されるの。
――それだけは。
――それだけは許せない。
――吉岡さんのことは――守りたい――。
7
愛希のライブまであと2日。
「武田さん、まだ何か引っかかってるんですか?」
田中に声を掛けられ武田はまた無心でデスクに座っていたことに気づき我に返った。
「いかんいかん。もう歳だな」
「あれはもう事故として報告書を書いたんですよ。何度も振り返りましたけど事件性はなかったじゃないですか」
「そうだな」
先日Ⅿ市内の介護施設『Ⅿ田の森』で、利用していた高齢男性が死亡するという事故が起きた。病院から通報を受け、武田は田中と共に現場に向かい現状確認と職員へ聞き取り調査を行った。館内の防犯カメラ映像も調べたが不審な点は見つからなかったのだ。
「彼女の訴えが、どうもなあ」
と言った武田に田中がすかさず突っ込みを入れる。
「彼女って、この間署に来た吉岡梗子の事ですか? ライブハウスで恋人が殺されるやら職場でセクハラされたやら超能力がなんちゃらって、今度来たら尿検査でもして薬物使用疑った方が良いと思いますよ」
「まあ動揺が強すぎる感はあったがなあ」
「最初は僕だってちょっとは気になりましたよ。でも超能力がどうこう言われちゃうと、急に信じられなくなっちゃいましたよ」
たしかにあの時初めは真剣に彼女の意見を聞こうとしたのだ。田中の言う通り超能力などという非科学的な力を信じろと言う方が無茶だろう。
だが―。
「この間、駅前交番で職質した巡査からの報告で気になるものがあってな」
「気になる報告ですか?」
「やけに青ざめた若い男二人を職務質問したそうなんだが、二人は女に投げ飛ばされたと言ったらしい」
「投げ飛ばされた? 女に? どういう事ですか」
「ああ。指の骨も折られてこれから病院に行くところだと言ったそうだ。確認すると確かに手の指の骨が全て不自然に曲がっていたと書いてある」
「信じがたいですね。大の男が女に投げ飛ばされたなんて」
「俺も最初に報告書見た時はそう思った。それで、その現場付近の市内カメラ映像を確認してみたんだが―。これを見て田中の意見を聞きたい」
と言って武田はデスクのパソコンを操作し録画されたカメラ映像を再生させた。そこには真っ黒な長い髪をした女性が男性をまるでイリュージョンか何かのように吹き飛ばしている様子が映っていた。
「武田さん、これ―」
田中は映像を食い入るように見ている。
「なあ田中よ。若い頭でこの老いぼれにわかるように説明してくれないか?」
「ええ。いや、映像の真偽も気になるんですけど、これ、この女性―」
「女性がどうした?」
「この間事故があった介護施設で、マジックを披露していた女性職員じゃないですか?」
「何?」
「間違いないですよ。一緒に何度も見たじゃないですか。同一人物です」
「確かめてみよう」
武田がパソコンの画面を先日介護施設からコピーさせてもらったカメラ映像に切り替えようとした時、署内の壁に取り付けられたスピーカーから館内放送が流れた。
――午後四時Ⅿ市の介護施設で女性の遺体発見!
――施設の名は「Ⅿ田の森」!
――遺体の衣装から女性は施設の従業員と思われる!
放送を聞きながら武田と田中は目と目で合図を送り素早く課内を飛び出した。
到着した施設の周りには早くもマスコミの連中が群がっていた。人垣を分けるように武田と田中は施設の中に入る。
施設内では複数の警官や鑑識職員が慌ただしく動き回っていた。施設職員も動揺を隠しきれない様子が伺える。武田は警官一人を呼び止め田中と共に現在の状況を共有することとした。
「お疲れ様です」
そう言って男性警官は手帳を開いた。
「被害者の名前は飯田美由紀。この施設の職員です。発見場所は隣の家と施設の壁との間でした。近隣住民が犬の散歩をしてる時に犬が吠えたため発見につながっています。被害者は二階の休憩室の窓から転落したと思われますが、転落時の傷とは思えない複数の打撲痕と内出血もある状態でした」
「殺しか?」と武田。
「可能性は高いでしょうね」
武田は田中に目を向ける。
「捜査本部立つでしょうね」
田中は男性警官から聞いた事項を書き取った手帳を閉じて武田と向き合う。
「田中、お前はあの手品やってた女性職員を調査してくれ。俺は吉岡梗子を当たる」
「わかりました」
と言った田中は早速事務所に向かっていった。
ふと外を見ると、もう日が暮れ始めていた。
**
野村華の自宅は二階建てアパートの202号室だった。田中は介護施設管理者の伊藤に教えてもらい、制服警官の鈴木に同行してもらいやってきた。
飯田美由紀が亡くなったのは、遺体の状況から誰が見ても他殺だと予想できる。管轄であるⅯ田署には今夜にも特別捜査本部が設置されるだろう。
警視庁から捜査員が派遣され、情報共有がなされた後に管理官によって捜査の担当が割り振られるのはその後だ。捜査が始まると飯田美由紀の交流関係も確実に調査される。そして先日の利用者突然死の事故についても遅かれ早かれ気づかれるはずだ。当然、映像に映っていた野村華についても調べられる。
飯田美由紀死亡事件が起きる前に関わっていた身からしては、その前に何らかの情報を掴んでいたいと思う気持ちが強かった。
ドア前に立ち田中はインターホンを押した。
中から反応は無い。
二度目のインターホンを鳴らしても反応がなかったため田中はドアをノックして中に向かって話しかけた。
「野村さん。いらっしゃいますか? 突然に申し訳ありません。Ⅿ田署の田中と申します。少々お伺いしたいことがございまして」
反応は無かった。
田中は軽くため息を吐いた。隣に立っていた鈴木と顔を見合わせて、振り返って一階に向かう階段に足を踏み出した。
その時、ドアノブが回るような音が聞こえた。すぐに振り向くと、野村華の自宅玄関ドアがゆっくりと中から開けられているところであった。
「野村さん。いらっしゃったんですか」
言いながら玄関に近づいたがドア付近に人影はなかった。
室内に踏み込もうとしたが田中は踏みとどまる。
相手は女性だ。いきなり中に入るわけにはいかない。
玄関のすぐ目の前はキッチンになっていた。その奥にリビングという間取りである。
リビングには、全裸の女性―野村華―が真っ白な足をこちらに広げた状態で仰向けに倒れていた。田中は咄嗟に目を伏せたくなったが、彼女が血を流していることに気付き、「野村さん!」と声を上げて呼びかけた。
その時――。
野村華は上半身を音もなく起き上がらせた。
――えっ。
と田中が思うと同時に彼女が両手を前に突き出した。すると田中は何かに強く引っ張られるようにして身体が前に勝手に動き出し、部屋の中に入れられた。
鈴木も同様に身体を引かれる。
二人が室内に入ったあと、背中から玄関が閉まる音が聞こえた。
二人は引き寄せられ、全裸の野村華を前にして静止した。金縛りにあったように身動きが取れなくなっている。
華の顔面は血まみれだった。胸には深い刺し傷がありそこからも血が溢れている。さらに全身は痣だらけだった。
華の猫目には生気がなく、憎しみが籠ったように田中の事を睨みつけていた。
華は田中の胸の前に伸ばした両手のひらの右手を握るように閉じた。
田中と鈴木は悲鳴を上げる。肋骨が砕けているのだ。
華は次に左手を空中で握った。
右腕の骨が砕け、二人はさらに悲鳴を上げる。
華は最後に田中の首元近くに右手をかざした。
そして、その右手をゆっくりと握りしめた。
**
介護施設での職員からの聞き取りが全て終わったのは夜の八時を過ぎていた。ほとんどが有力な情報とは言えないものであったが、及川という職員が吉岡梗子について話をしてくれた。
恋人の名は伊佐愛希。梗子が言っていたライブと言うのも実際あるらしく。金曜日の夜七時からとのことだ。愛希の連絡先までは知らないという。
施設管理者から吉岡梗子に連絡を入れてもらったが電話には出なかった。住所は施設からそれほど離れていない距離にあった。
周りには制服警官の姿もなく、時刻を考慮し相棒の田中と共に明日にでも自宅を訪問してみようと武田は考えた。
署のデスクに腰を下ろした時、武田の会社用スマホが着信音を鳴らした。スマホの画面には未登録の携帯番号が表示されていた。
『武田さんですか? 坂本です。お久しぶりです』
電話の相手は以前武田がS市の警察署で勤めていた時の相棒である坂本という男性刑事だった。
「おう坂本か。どうした?」
『急にすみませんね。武田さんが転勤する直前に起こった介護施設の火災覚えてます?』
「ああ。あれがどうした?」
『あの時、身元不明の遺体が一つあったと思うんですが』
「無縁仏として埋葬とか、新聞に書いてあったな」
『それが身元判明したんです。かろうじて採取できたⅮNA鑑定で』
「ほう。それは良かったじゃないか」
『そんなに良くないです。おかげでこっちは大混乱なんですよ』
「どういうことだ?」
『その遺体、女性なんですけどね。ちょっとどう説明して良いかわからないんですが、火災のあとも普通に働いていて、しかも勤務地異動までしてて、確実に生きている証明がされているんです』
「それは鑑定間違いじゃないのか? 今でも働き続けてるってことなんだろ? その女性には直接事情は聞いたのか?」
『これから調査が始まります。彼女の異動先、Ⅿ市の介護施設なんですけど、そこで職員の死亡事件が起きてて、武田さんの管轄だと思うんです』
「なんだと? その女性の名前は?」
『―野村華』
「はあ⁉」
武田は思わず大声を出した。
野村華とは現在田中が自宅に聞き込みに行っている女性の名前である。利用者突然死の時に手品を披露していた女性だ。
―やはり何か怪しい。
「坂本、また今度かけ直す。それまでに何か進展があったらすぐに教えてくれ」
と言って武田は電話を切り、田中が持っている社用携帯に電話をかけた。
だが、呼び出し音が続くだけで何も応答がなかった。
8
愛希のライブまであと1日。
梗子は愛希の自宅ベッドで目を覚ました。
隣に愛希の姿は無い。バイトかバンドの練習に出かけたのだろう。悠太に脅かされた日から梗子は自宅に帰らず愛希の家で寝泊まりをしていた。
もう無理なことだとわかってはいるが、愛希に対しライブの中止を梗子は訴え続けていた。もちろん愛希は聞き入れずデビューがかかっているライブを成功させることで頭がいっぱいのようであった。
警察には相手にされず、華にもきっぱりと断られた。あとは自分の力で愛希を守るしかないと思うのだが、何ができるのだろうと自身を責め続けている。
職場に行く気も失せてしまっていた。梗子のスマホには職場からの電話と留守録が数件残されていた。
華はまだ休んでいるだろうし、自分まで無断欠勤をしてしまってはシフトが大変なことになっているだろうと想像はできるのだが、今回ばかりは持ち前の仕事に対する責任感という気持ちが梗子は発揮できないでいた。
それに、いつもは何かあるとすぐに連絡をくれる美由紀から何も音沙汰がないことも不思議だった。
考えてばかりでは余計に気分が沈んでいくと思い気晴らしに点けたテレビから流れるニュースに、梗子の心はとどめを刺された。
そのニュース番組では美由紀と警察官二人の死、そして華の失踪という内容が顔写真付きで取り上げられていた。
さらに、そのニュースではこのように報道されていた。
『昨年末、同法人のS市特別養護老人ホームで火災あり。被害者十名のうち一名が身元不明遺体であった。ⅮNA鑑定の結果、身元は野村華さんであると判明。Ⅿ市で警察官が死亡した宅の住居者で現在失踪中の野村華さんは誰か別人の可能性が高いとみて警察では調べを続けています』
梗子は――、
とてつもない恐怖を感じ――、
声にならない叫びを上げ――、
失禁をしてその場に倒れた――。
――愛希の声。
――愛希のぬくもりを感じる。
梗子が目を覚ますと窓の外はもう暗くなっていた。
身体を起こすとリビングのテーブルにはメモ用紙だけが一枚置いてある。
『今日のライブ、具合悪いなら無理しなくていいよ。観に来てほしいけど、身体が一番だからね。―愛希―』
メモ用紙にはそう書いてあった。
――今日?
手紙の内容に違和感がありスマホで日付と時間を確認すると、愛希のライブの当日であることに気が付いた。
――まさか。
――ほとんど丸一日眠っていたのか?
――しかもライブの開始まであと一時間もない!
梗子は、寝間着代わりに愛希が着せてくれたであろうマドンナの白いロックTシャツはそのままに、ソファに畳んで置いてある自分のジーンズに足を通して急いで外に飛び出した。
――どうしたらいいの。
――愛希―。
――私には何ができるの――。
9
ライブ当日。
更衣室代わりにトイレの個室でライブ衣装に着替えた愛希はメンバーの待つ控室に向かった。
――ついにこの日が来た。
今日は大切にクロゼットにしまっていたベリーダンスの衣装を着た。赤いブラに赤いフレアスカートである。
この日のため、というか大切なライブの日まで着ないで我慢していたのだ。
「似合ってるぞ」
控室に入る前にオーナーの小田切に声をかけられた。
「ありがとうございます。セクシーですか?」
愛希が聞くと小田切は煙草の煙を吐き出し「オーディエンスに聞きな」と言って微笑んだ。
「今日は――」
「ん?」
「このライブハウスって防犯対策とかどうしてます?」
そう。
今日のライブで。
私は――。
「まあ、防犯カメラが出入口と会場には設置してあるくらいだな」
「荷物チェックはしないんですか?」
「え? そんなのやんねえよ」
「そうですか」
愛希は先日、梗子に泣きつかれた。
その時は強がって――いや、取り乱す梗子を落ち着かせたいという気持ちが強くて気にしない素振りを見せた。
見ず知らずの男に自分が殺されるなんて想像もできないし現実的な話でもない。
でも全く信じていないわけではない。
梗子の動揺は異常だった。
もしかしたら本当に――。
「愛希、ちょっとこっちから会場見てみろよ」
とセイヤが控室の扉を開けて愛希に声をかけた。その声に愛希は我に返る。セイヤは愛希の真っ赤な衣装をちらと見たが何も言わない。以前なら腰や胸元に視線を向けてきたものだが、もう口説いても意味がないと知ってからはそのようなことはなくなった。わかりやすい奴だ。
愛希は彼に続いて中に入りステージの裾から会場を覗き込む。
「半分以上入ってんじゃねえか?」
二百人ほどが入れる会場は観客で賑わっていた。満員御礼とまではいかないが想像以上の数に愛希は一瞬圧倒された。ロカロカはこんなにも人を呼べるバンドだったのかと改めて認識した。
梗子の姿を探すが見つからなかった。レコード会社の担当者はどこから見ているのだろう。
「あと十分で開演だ。緊張する」
「そうね。いつもどおり、やってやりましょ」
と言って愛希は髪を掻き揚げる。
いつも通り。
音に身体を乗せて踊る。
会場にキスを送る。
歌う。
今までで最高のステージにする。
それだけ。
ステージの上で私の周りには五人の男性がいる。
会場にもたくさんの人が。
こんな中で、たった一人が私を襲うことなんてできるはずがない。
「行くぞ」
セイヤの声掛けで愛希以外のメンバーがステージへと出て行った。会場からは歓声と拍手が聞こえる。中央に置かれたスタンドマイクでセイヤが会場に「ありがとうございます」と伝えるとドラムのカウントの後にラテン調のセッションが始まった。
その様子を裾から愛希は眺めた。このセッションが終わり次の曲のイントロが始まったらタイミングを見て飛び出そう。いつも通りのパフォーマンスである。
深呼吸をする。
ふと、今ここには一人しかいないことに気が付き愛希は周りを見渡した。
何も変わりはない。
誰かがいるような気配もない。
セイヤたちのセッションが終わり二曲目のイントロが流れ始めた。愛希は再びステージに目を移し登場のタイミングを待つ。そしてセイヤがステージから愛希を呼ぶ声を聞き愛希は勢いよく飛び出した。愛希の姿がステージに現れると会場から歓声が沸いた。
得意のベリーダンスを披露し、愛希は途中のMCを含め全十曲を歌い上げた。
「ありがとう!」
汗だくで息を上げながら愛希は会場に向かって叫び、深く頭を下げた。曲を披露することに必死だった愛希はその時会場の最前列に梗子がいることに気が付いた。
梗子と目が合ったので愛希はウインクを送る。梗子はそれを見て微笑んだが視線をキョロキョロと動かし辺りを見回していた。愛希もつられて会場やステージ横に視線を回す。
ステージの袖に一人の男性が立っていた。
その男性は青白い顔をして愛希を見つめていた。
**
――吉岡さんのことは守りたい――。
恋人が殺されるかもしれないから助けてほしい――と好きな人に言われた。
華は、断った。
あの日梗子が出て行ったあと、華は悠太に暴行され、身体も凌辱された。
悠太は華を犯している間、梗子の名を呼んでいた。
梗子も同じ目に合わされるのではないかと思うと、華はとてつもない怒りを覚えた。
――吉岡さんだけは守りたい。
華の怒りは悠太だけではなく梗子以外の全ての人間に向けて高鳴っていた。
突然訪問してきた警察官二人を念動力で絞殺した後、華は無心で夜の街を徘徊した。
梗子に出会った頃を思い出した。
梗子はちゃんと名前で呼んでくれた。
それまでのまるで人間扱いをしなかった連中とは違い、梗子は華を引き立て頼ってもくれた。
そんな梗子を――失いたくない。
その後の約二日間の記憶が華には無かった。
我に返った華は、梗子に教えてもらったライブハウスの前に立っていた。足が自然と中に向かう。中に入るとすでに演奏は始まっていた。
梗子は――。
きっと最前列で恋人の姿を見守っていることだろう。
音楽に乗って身体を動かす背中の群れに圧倒された。改めてバンドの人気に驚かされる。華は会場の前へ進もうとした時に肩を掴まれた。振り返るとそこには白髪交じりでスーツを着た五十代くらいの男性がいた。
「待ちなさい。話をさせてほしい」
男性は真剣なまなざしで華に言いながら、華の全身を凝視した。
――何?
そんなことをしている場合じゃない。
早く梗子の元へ行かないといけないのに。
――邪魔!
と華は男性を睨みつけ出口の方へ両腕を振り動かすと男性は軽々と吹き飛ばされた。
「ありがとう!」
会場のスピーカーから女性の声が響き、華はステージの方へ振り返った。金髪のボーカル女性が感無量といったように会場に向けて腰から頭を下げていた。
金髪の女性が頭を上げるとステージ袖に顔を向けた。
同時に会場からステージに女性が一人上がっていく。
――梗子だ。
梗子が金髪女性の前に辿り着いたその時、ステージの袖から包丁を持った悠太が飛び出してきた。
悠太は勢いのまま、金髪女性を抱きしめる梗子の背中に包丁を突き刺した。
それを見ていた会場からは女性の悲鳴が複数こだました。
華は頭の中であの不快な、バイオリンを掻き鳴らしたような耳鳴りがした。
会場にいた客たちはパニックになっている。
「吉岡さん――」
華は自分にとっての光が奪われたように感じた。
華の怒りはそこで頂点に達した。
華は大きく両腕を広げる。
すると会場にいた人々が磁石に吸い寄せられるように左右の壁に向かって飛ばされた。
**
一瞬だった。
刃物を持った悠太がステージ袖にいるのがわかると、梗子は無意識に舞台に上がり、愛希の事を強く抱きしめた。
痛い――と思い、
刺された―と感じた瞬間、
突然ステージ上のアンプが爆発し火を噴いた。
アンプの近くにいたセイヤは全身を火に包まれて倒れた。
爆風に飛ばされたステージ上の照明機材がドラマーの顔面に直撃し彼の顔が潰れた。燃え上がる煙に反応しスプリンクラーから大量の水がステージに撒き散らされる。アンプの爆発でショートした楽器のコードに電流が流れギターとベースを抱えていた男性二人が感電して死んだ。梗子をそっと床に寝かし悠太に向かって叫びながら近づいた愛希は彼の持つ包丁によって喉を一直線に切り裂かれ血しぶきを上げてその場に倒れた。
スプリンクラーの水がステージに寝そべる梗子に降りかかる。
水がかかっているというのに背中が熱い。
きっと血が出ているのだろう。
梗子は意識が遠のいていく中、会場に目を向けると華の姿が目に入った。
華は手を広げ両腕を前に突き出している。
華の顔と胸は血まみれだった。
あんなにたくさんいた観客が皆、左右の壁に押しやられており、人が人を押しつぶし圧迫されていた。
一番手前にいる人たちも何か見えない力によって押しつぶされている。
口から血を流している者もいた。
会場は爆発したアンプの火が壁に燃え移り、炎の威力が強くなってきている。
華は――悠太を睨みつけている。
悠太は直立していた。いや――。
その場に縛り付けられたように身体を硬直させている。
華が手を前に伸ばしたままゆっくり悠太に近づいていく。
瞬きせずずっと悠太を睨みつけている。
悠太は怯えているようだ。息ができないのか口をだらしなく開いていた。
華はとうとう悠太の目の前までやってきた。
梗子も息を飲む。
華は両手で悠太の顔を挟み、一気に首を三百六十度右回転させた。
華が手を離すと悠太はその場に倒れこんだ。
「野村――さん」
梗子は声にならない声で華に向けて口を開いた。
華が振り向く。
華は――泣いていた。
華は――。
身体が透けているようだった――。
梗子はそこでついに意識を失った。
**
終わった――。
間に合わなかった――。
梗子だけは守ろうとやってきたのだが、悠太によって背中を深く刺されて死んでしまった。
だが仇は取った。
この手で。
この力によって悠太を――。
さらに、ここにいた全ての人間を殺した。
今日、私の姿を見た人間を――。
梗子が目の前で消えていくのを眺めながら、華は自分の身体が軽くなっていくのを感じた。
思い出した。
前の職場で火事が起きた時もこの感覚を味わっている。
そして悠太に暴行された時も。
その度に、梗子の存在が身体の中に宿り華は生命を吹き返していたのだ。
だが、梗子はもういない。
華は、
涙と共に消えていく自身の身体を見渡した。
その時。
「野村!」
と遠くから男性の声が聞こえた。
エピローグ
顔の前には蛍光灯の光がある。
右に向くと窓の外にある木の葉はすっかり紅葉していた。
武田はベッドに横たわり、腕には点滴をつながれていた。
ここは病院だ。
八月の終わりに起きたⅯ田駅ライブハウス火災で生き残ったのは武田だけだった。
当然メディアでは生き残った武田への問い合わせが殺到した。武田は自らが体験し目撃したことを偽りなく話したつもりだったが、次第にそれは武田の妄想でしかも精神障害を患っているのではないかというところまで発展し、否定し続けた武田は鎮静剤を投与されベッド上の生活を余儀なくされたのだった。
ライブハウス内の音響機材がショートし燃え上がったことで大火災を招いてしまったということと、藤本悠太が吉岡梗子と伊佐愛希を刺し殺したという事実は認められたのだが、野村華が藤本悠太の首を捻り殺したという部分だけが信じてもらえなかった。
野村華は、火災が起きる以前にすでに亡くなっていることと、ライブハウス内の防犯カメラにもそのような女性が映っていないことから信憑性にかけると言われたのだった。
武田は、『野村華の身体は舞台上で消えて消滅した』という事を言ったのでさらに精神障害を疑われることになったのだった。
だが確かに武田は見た。
野村華の身体がステージ上で徐々に透明になり消えていく姿を―。
彼女はどこに消えてしまったのだろう。
「点滴を外しますね」
と言って看護師が病室に入ってきた。
慣れた手付きで作業を終えた看護師が病室を出て行き、武田は再び窓の外の紅葉した葉を眺めた。
その窓ガラスに、黒い髪を胸までまっすぐ垂らした雪のように白い顔の女性が映り込んでいた。
武田は咄嗟に息を飲み振り返った。
そこには、白いリネンシャツにチェックのフレアスカートを着用した華が、ベッドに横になる武田を表情のない顔で見下ろしていた。
武田は目を見開く。
華に睨みつけられた武田は身体を硬直させる。
華は、静かに両手を前にかざした。
武田は息が出来なくなった。
華はゆっくり両手を閉じていき、最後は力強くその拳を握りしめた。
完




