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第五章『華』

  1

「野村さん今日も手品を見せておくれよ」

 華は出勤すると目の合った女性利用者に声をかけられた。念動力を使ってボールや花瓶などを宙に浮かすことを施設の利用者たちは手品だと思い込んでいる。

「あ、はい。あとで、やります」

 応えながら梗子の姿を探すが出勤しているはずの彼女の姿が見当たらない。

「野村さん、おやつまで時間あるから手品やってあげなよ。藤本さんもレク手伝ってあげたら?」

 パートの島田が提案すると利用者たちからそれぞれに同意の意見が上がる。他のスタッフも賛成していた。その陰で悠太の顔が目に入り華はいつものように寒気を感じた。

「わかりました」

 と言って華は壁際の棚からゴムボールを取って戻り、利用者全員が見られる位置に移動した。悠太も補助で入ると言うので華の横にやってきた。

 さすがにもう慣れっこである。それほど緊張もしなくなってきた。ボールをテーブルに置き手をかざし、華は梗子のことを思い浮かべる。

 ――吉岡さんの笑顔。

 ――吉岡さんが利用者と話している時の優しい声。

 ――焦って着替えたのかユニホームの襟がめくれていることに気づいていない吉岡さん。

 梗子のことを思うと口元に笑みがこぼれ、華は静かにゴムボールを空中に浮かべた。フロアからは利用者やスタッフたちの拍手が聞こえる。もっと高く天井までボールを飛ばしてみようと華は両腕を上方に動かした。ボールも同じ動きで天井まで上がる。すると悠太が華の耳元で口を開いた。


「―お前―」


 悠太の言葉に華は驚いて彼の顔を振り返る。悠太は冷たく華を見下ろしていた。それを見ていると華の頭の中で強い耳鳴り―バイオリンを高音で掻き鳴らしたような不快な音―がした。

次の瞬間―。


 宙に浮いていたボールが破裂した。

 大きな音と共に瞬間的な悲鳴がフロアから上がる。

 華も驚き姿勢はそのままに顔を動かし周りを伺う。


 音が――なかった。


 その場にいた全員が華のことを見つめていた。

 無音。

 華の耳には何も聞こえない。

 ただ白い目でじっと見つめられている。

 皆――。

 同じように――。

 まるで蝋人形のように動かない。

 その中の一人、悠太の姿だけが異様にくっきりと浮かび上がって華の視界に入った。何故か彼を見ていることができず、華は視線をキョロキョロと動かした。どこを見ていいかわからない。なんとか視点を定めた時、視界に入ったフロアに置いてある椅子が次々と倒れ始めた。驚いて視線を動かした先で洗面台の花瓶が割れる。利用者の何人かが驚いて立ち上がろうとしたのでそちらに視線を動かすと皆金縛りにあったように身体を硬直させた。

 華は両腕を上げたまま、まるで映画のポルターガイストのような光景を眺めた。

 嫌だ――。

 下半身が熱くなってくる。

 視線をまた不規則に動かすと雑誌やレクリエーション道具が置いてある棚がガタガタと揺れ始めた。

「野村さんやめて!」

 パートの島田の叫び声が微かに聞こえた。

 その声がこだまし徐々に大きく華の脳内で再生される。

 華は両手で耳をふさぎその場にしゃがみ込んだ。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――。


 その時、梗子の声が聞こえた気がした。肩を抱かれ何かを聞かれたが華はしっかりとした返事ができなかった。

 梗子にエスコートされ華は二階の職員休憩室に案内された。室内のソファベッドに促され身体を横にすると、それまで鳴り続けていた耳鳴りが止み華は急激に緊張が解け、睡魔に襲われた。



  2


 視界にぼんやりと光が差し込んだ。光の中で徐々に形のあるものが浮かんでくる。

 蛍光灯だ。私は仰向けになっている。

 身体を起こした華は自身がソファベッドの上にいることに気づいた。

 見慣れた空間。

 ここは職場の休憩室だ。

 どれだけの時間横になっていたのだろう。窓の外はすでに日が落ちていた。

 頭の中で梗子に肩を抱き寄せられた時の感覚が蘇る。

 梗子の匂いがした。

 ――やっぱり吉岡さんがいる職場に来て良かった。

 ――吉岡さんのことをもっと知りたい。

 ――吉岡さんともっと一緒にいたい。



 ソファで休んでいたら少しずつ元気が出てきた。まだいるはずの梗子にお礼をしに行こうと華は休憩室を出た。

 一階フロアへ向かうため階段を下りている時、玄関へ向かう梗子の姿を発見した。声をかけようと華は後を追った。


 玄関のガラス窓から外を覗くと梗子の後ろ姿が目に入った。梗子の前には女性が立っていた。

 金髪でスタイルの良い女性。

 どこかで見た記憶がある。

「あっ」

 華はその女性が以前梗子と観に行った音楽ライブで出演していたラテン系バンドのボーカルをしていた女性だと思い出した。ステージで身体をいやらしくくねらせ会場を沸かしていた女性である。なぜ梗子が彼女と会っているのか華は興味深くなり二人の姿を盗み見た。

 遠くて何を話しているのかわからない。金髪の女性が梗子に背を向けて歩き出すと、梗子はその後を追っていった。そして振り返った女性を梗子は抱きしめた。

 華は咄嗟に息を吸い込む。さらに梗子はその女性に向かってキスをした。華は目をそらす。そして落胆し、猫背をいつもよりもっと丸めて更衣室に入った。

 室内の椅子に華のズボンが畳んで置かれていた。そこで初めて華は今履いているズボンが自分の物ではないことに気が付いた。きっと梗子が洗濯し乾燥機もかけてくれたのだろう。それに着替えてから、それまで履いていたズボンを華は床に叩きつけた。



 外に出ると先ほどの金髪の女性が男性と車に乗っている姿を発見した。車内の二人が華には親密な間柄のように見えた。

 その時、強い耳鳴りがした――。

 ――汚らわしい。

 最初に浮かんだ言葉がそれだった。

 綺麗で清潔だと思っていた梗子の―淫らな姿。

 相手が女性だからと言うのではない。

 相手が誰であろうと、梗子があのようなことを人前でしていることが信じられなかった。

 気付くと華は両手を突き出し金髪女性を乗せた車を念動力で動かしていた。

 我に返った時には車は電信柱に衝突した後だった。



 何も考えることができない。

 今夜はやけに蒸し暑い。

 一刻も早く家に帰り思いきりシャワーを浴びたい。そう考え速足で下を向いて歩いていた華は暗闇で人にぶつかった。

「痛えな!」

 そんな声に顔を上げると若い男性が真横から華を睨みつけていた。どうやら彼にぶつかったらしい。

「すみません」

 小声で謝りその場を立ち去ろうとしたが、後ろからその男性に肩を掴まれ動きを止められる。

「おい待てよブス」

 華が男性の方に振り返ると彼の仲間と思われる男性がもう一人「どうした?」とやってきた。

「こいつが俺にぶつかって来たのに謝りもしねえからよ」

 男性が仲間に告げた。華の謝罪の声は聞こえていなかったようだ。再度「すみません」と俯いて言った。

「顔見て謝れよ」

 男性にそう言われた華は、いつのまにか後ろに回り込まれていた彼の仲間の男性によって羽交い絞めにされた。そして無理矢理背筋を伸ばされる。目の前に立つ男性の口元がにやけるのが分かった。同時に彼は華の胸に視線を向けている。

「意外と良い胸してんじゃねえか」

 男性の言葉を聞くと華は羽交い絞めで伸ばされた背筋によってヨレヨレの白いリネンシャツからブラジャーが透けていることに気が付いた。羞恥心と共に嫌悪感、そして怒りの感情が込み上げてくる。

「おい。どっかでやっちゃおうぜ。顔隠せばなかなかイケそうだ」

 後ろの男性が言うと、目の前に立つ男性は周りに人がいないのを確認すると「そうだな」と言い華の胸を両手で掴んだ。

「いや」

 咄嗟に華が声を漏らす。

 男性たちが笑いだす。

「こいつ溜まってんじゃねえか」

 華は目の前の男性を思いきり睨みつけ、

「いやだ!」と声を上げた。

 その瞬間、ひどい耳鳴りがした。

 バイオリンを高音でかき鳴らすような耳鳴り。

 華が声を上げた時、胸を握っていた男性は突風に煽られるように真後ろへ飛んだ。まるで映画のワイヤーアクションのようだ。そのまま直線上にある自動販売機に背中からぶつかり地面に倒れた。

「おい大丈夫か!」

 華を羽交い絞めにしていた男性が叫ぶ。華はその男性が後ろから回している手に視線を向けた。すると華を押さえていた男性の指が一本ずつ関節と反対側に折れ曲がった。

 耳鳴り――。

 バイオリンを高音でかき鳴らしたような不協和音――。

 男性は悲鳴を上げた。解放された華がその男性へ向き直り睨みつけると男性は怯えた表情で金縛りにあったように身体を硬直させた。睨んだまま華が顔を先ほど飛ばされた男性の方へ向けると、硬直した男性は華の顔の動きと同じに身体が風に乗るように飛ばされた。そして自動販売機の前で倒れている男性にぶつかり再び悲鳴を上げた。華は彼らを睨み続けている。二人の男性は怯えながら立ち上がると走って逃げて行った。

 彼らの姿が見えなくなった時、華は我に返った。そして今自分の目の前で起きていたことを頭の中で再生する。

 彼らを苦しめたかったわけではない。

 傷つけたかったわけではない。

 それなのに。

 衝動が抑えられなかった。

 抑えられないという自覚もなかった。

 意志とは無関係に力が働き、彼らを飛ばした。

 一歩間違えれば殺していたかもしれない。

 考えていると華は急に自分のしたことが恐ろしく思えてきた。先ほど梗子とキスをしていた金髪女性の乗った車にしたこともそうだ。

 ――どうしたらいいの。

 ――私は何をしたらいいの。

 自問しながら華は辺りを見渡す。

 人の気配がしない。

 物音もしない。

 風も感じない。

 静寂の世界。

 ただじめじめとした嫌な空気だけを感じた。

 華の身体が震え始めた。

 ――私は独り取り残されてしまったのだろうか。

 前方に立つ街灯が一つ点滅している。気になって華が目線をその明りに合わせた途端に街灯のランプが破裂した。

 驚いた華の顔が青ざめていく。

 さらに職場で悠太に言われた言葉も頭に蘇った。

 

 ――お前本当は――。


 ――嫌。

「嫌ああああああああああああ!」

華は両手で頭を押さえ自宅に向かって走り始めた。

 ――怖い。

 ――怖い怖い。

 ――私は。

 ――私は―。


 自宅に着き玄関を閉めた華は扉に寄りかかり息を整えた。靴を脱いで部屋に上がり、ひとまず汗を流そうと思い華はお風呂場へ向かう。全ての服を脱ぎ捨てた華は、下着に常時つけているナプキンが真っ赤に染まっていることに気が付いた。ナプキンだけでは吸収しきれず局部から内腿を伝い踵まで赤い液体が伝っていることにも気づく。

 華は汚れた身体を見ながら、先ほど路上で男性に絡まれたことや梗子のキスシーンが頭の中で渦を巻いて再生された。


「汚らわしい‼」


 脱衣所で思い切り華が叫ぶと洗面台の鏡にひびが入る。

華は割れた鏡に顔を向けると、写った自身の割れた裸を睨み付けた。



  *


【東都新聞 四月二十二日朝刊より抜粋】


身元不明の犠牲者、未だ身元判明せず 無縁仏か

2022年12月23日にS市の特別養護老人ホームで発生した火災において、犠牲となった10名のうち1名について、現時点で身元が判明していません。

警察や消防当局は火災発生後、指紋やDNA鑑定、歯科記録の照合、行方不明者の届け出との比較など、可能な限りの手段を尽くしています。また、被害者の持ち物や衣服の調査を通じた確認も行われましたが、全身が燃えて黒焦げになっていたため判別がつけられない状況とのことです。

この結果を受け、身元不明の犠牲者については、公的機関により無縁仏として埋葬される手続きが進められる予定となっています。


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