第三章『華』
【念動力とは――世界超能力白書より抜粋――】
念動力とは、物理的な接触を伴わずに意識や精神の力で物体を動かす能力のこと。
念動力は科学的には証明されていないとされ、多くの研究者はこの現象を懐疑的に見ている。これまでに実験や研究が行われてきたが、信頼性のある再現結果が得られていないため、念動力は「超常現象」または「疑似科学」と見なされている。
歴史上、念動力を使えると主張したり、他者から念動力の能力があるとされた人物は存在するが、厳密な科学的検証を経てその能力が確認されたケースはない。
1
野村華は今夜も職場のパソコンで念動力について調べている。昼間より夜の方が調べ事をするのに集中できるからだ。
日常生活も夜型の華は夜勤という仕事が好きだった。好きと言うより自分に合っていると思う。
華の働く介護事業所では夜勤の職員が一人で朝まで勤務する体制である。一人と言っても宿泊している利用者は多くても五人。もちろん大変な時もあるが、基本的には皆寝ているので夜勤者は一時間に一度の巡視と、必要な人は定時で排泄介助に入り、朝食を解凍して提供する至ってシンプルな仕事である。テーブルや手すりの消毒作業や食器の漂白などもあるがそこまで苦ではない。ここの前にいた施設で三十人を夜勤で見ることを考えれば幸せな方である。
今夜の宿泊利用は四人。しかも特に介入しなくとも自立してなんでもできる利用者ばかり。華は気楽な気分で皆が寝静まったフロアのパソコンでインターネット画面を見つめていた。
華は夜勤で行うべき事務作業を一通り終わらせ、定時の巡回も済ますとレクリエーションで使用するスイカほどのゴムボールを手に取りフロアのテーブルに置いた。近くの椅子に腰を下ろしてボールに向かって両手を伸ばす。そして華はボールを見つめ目に力をこめた。
――動け。
ボールは動かない。まだまだ力が足りないのかもしれない。
――動け。
――動け動け動け。
ボールは動かない。
――あの時はできたのに。
**
あ、来たよ。
来た来た。
うわぁ。
きもいよね。
マジ勘弁なんだけど。
ないない。
怖いよね。
てか視界に入ってほしくないんだけど。
名前なんだっけ?
知らない。
お化けでしょ?
生きてんの?
うわ、こっち見た。
一緒に働きたくないよね。
お化け。
どっか行けよ。
てかお化けのくせに生きてんじゃねえよな。
それ意味わかんないんだけど。
早く辞めないかな。
一緒にいるだけでテンション下がるよね。
ホント無理。
私は生理的に無理だわ。
お化けはお化けらしく墓場にでもいろよな。
きもい。
死んでくれないかな。
てか生霊?
怖ぁ。
死ねよな。
ブス。
いやブスとかの次元じゃないから。
ブスに失礼だから。
お化け。
死ねよ。
死ね。
死ね。
華は廊下を歩くと同僚から鼻で笑われる。
華はトイレから出てくると「お化け」だと陰口を叩かれる。
華は同僚に話しかけると無視される。
まるで学生のように子供じみた嫌がらせではあるが、華のストレスは日に日に溜まっていった。
翌日はクリスマスイブという日のこと。職場の上司がスタッフ全員に日々の業務を労うという名目で一つずつ小分けにされたケーキを買ってきた。もちろん華の分もあった。利用者の夕食時間が過ぎ日勤者が退勤のタイムカードを押した後、休憩室を兼ねた更衣室では嬉しそうにケーキに手を伸ばす同僚たちで溢れていた。各フロアの職員が集まっていたので、たった十名ではあるが室内は賑やかだった。
華も楽しみにしていた小分けにされたケーキの蓋を開けると、中にはチョコレートケーキではなく利用者の排泄物で染まった吸収パットが入っていた。すぐに嫌悪を感じ咄嗟に華は箱を床に落としてしまった。それを見ていた一人の女性スタッフが華に近づいてきた。彼女は華のことをいじめているリーダー格の女性である。彼女は箱を床から拾い上げると華に向かってそれを突き出した。
「お化けの癖に何贅沢してんの? ちゃんと食べなよ」
言いながら彼女が便まみれのパットが入ったケーキの箱をさらに華の顔に近づけた時、華は意識が朦朧とし始めた。そして頭の中で耳鳴りのような、バイオリンを高音でかき鳴らしたような不愉快な音が鳴り響いた。そのような意識の中、華は両手を彼女に向かって突き出した。
我に返った時、目の前では先ほどまで華に威圧的な態度をとっていた彼女が床に倒れて同僚たちに介抱をされていた。大きな怪我はなさそうだ。その同僚たちの冷たい視線が華に突き刺さる。ふと、その視線は自分の下半身に向けられていると華は気が付いた。華が目を落とすと、仕事用に履いているベージュのパンツが内腿から足首にかけて黒く染まっていた。
生理だった。なんの前触れもなかった。動揺した華は視線をあらゆる方向へ動かした。同僚たちは何やら話をしているようだが華の耳に言葉は届いてこない。不協和音の耳鳴りがまたやってくる。華は耳を押さえ目を閉じ首を振った。再び目を開いた時、最初に視界に入ってきたのは休憩室に置いてあったガスファンヒーターだった。
次の瞬間、ファンヒーターは火を噴き爆発を起こした。火は窓のカーテンや近くにいた職員のユニホームに飛びさらに燃え上がった。逃げようと扉に近づく同僚たちを目で追い睨みつける。休憩室の扉は外からロックされたように開かなかった。炎で熱くなった扉の取っ手を掴んでいた職員は手を燃やし悲鳴を上げた。耳鳴りはまだ続いている。自身の服にも火が移り身体が熱く溶けていくような感覚を華は感じた。
火災報知機の作動音と同僚たちの悲鳴が強くなる耳鳴りの中で微かに聞こえ続けた。
**
あの事故を思い出すと毎回息が出来なくなるように胸が締め付けられる。
事故のあと、華は予定通り希望していた現在の職場に人事異動でやってきた。
華が自分から念動力が発生することがあるという事に気が付いたのは高校生の時だった。自分に嫌なことがあった時、ふと目に入ったものが突然壊れたり物体が勝手に動いてしまうこともあった。
意識と関係なく起きる現象をどうにかコントロールできないものかと華は日々研究し続けている。念動力をコントロールできるようになれば、あの事故のような悲劇は起きなくなるかもしれないし、誰かを助けることができるかもしれない。
朝になり食事の支度をある程度終わらせた華は利用者の各居室に入り起床の声掛けを行った。着替えが難しい利用者は介入しパジャマから洋服に着替える手伝いを行う。モーニングケアを終わらせ全ての利用者がフロアに集まったところで朝食の味噌汁をよそい、予めお皿に取り分けてあったおかずとごはんと共に配膳を済ませ、記録を作成するために華はパソコンの前に座った。
「おはよー!」
利用者が朝食を食べ終えた頃に、介護主任である飯田美由紀が元気よくフロアに入って来た。美由紀は本日の早番職員で朝の送迎担当である。華はちらりと美由紀を見やり囁くように挨拶を返した。当然美由紀には届かない。
「昨日は華が夜勤だったのね、お疲れ!」
言いながら美由紀は本日のスケジュールが記載された日誌に目を通す。
華は美由紀のことが少しだけ苦手だった。美由紀はスポーツジムに通っているらしく健康的で姿勢も良く、明るく社交的でハキハキとなんでも主張するリーダー気質な女性だ。だがその積極的な関わりについていくのが辛い時がある。そして下の名前で呼ばれるのにも納得がいかない。美由紀より年下ではあるが友達では決してない。呼ぶのをやめてくれと言うのも面倒くさいので華は黙って受け入れていた。
「おはようございます」
聞き慣れぬ男性の声がしたので華は目だけをまず声の方へ向け、ゆっくりと顔を上げた。美由紀の後ろにユニホームのポロシャツを身に着けた若い男性が立っているのが見えた。自分と同じ二十三歳くらいだろうかと華は想像する。
「彼、新人の藤本悠太さん。よろしくね」
美由紀が華に悠太を紹介し、同じ要領で悠太に華を紹介した。よろしくお願いしますと華も返したが悠太には聞こえなかったようだ。彼と目が合った瞬間、華の背中にとてつもない寒気が走った。高身長とまではいかないが低い方ではない悠太の整った顔立ちが見せる微笑みの向こう側で、何かとてつもない闇が見えた気がしたのだ。
「何か申し送りある?」
美由紀が本日の予定が書かれた業務日誌に目を通しながら華に聞いた。その声に平静を取り戻し、
「いえ。夜はみなさんよく寝てました」と華は答えた。
「そう。あとで夜間記録も見ておくね。じゃあお迎え第一便行ってくるね!」
明るく美由紀は言うと悠太と共にフロアを出て行った。改めて華は夜間記録入力のためパソコンに向き合った。
いつの間にかパートの女性スタッフが出勤しており一人でバタバタとフロアを動き回っていた。華は正社員としてフォローをしなければと思ったが、話しかけてダラダラと愚痴を言われるのが嫌なので動き出せなかった。そのうちに同じく正社員の先輩である吉岡梗子が出勤してきた。梗子は華を見ると明るく挨拶をしてきたので華は美由紀の時と同様囁くように挨拶を返した。梗子にはその声が聞こえたようだ。
彼女が来ればひとまず安心だと思い華はフロアを出て事務所で退勤のタイムカードを押した。
華は梗子が好きだった。
誰に対しても優しく、差別なく同等に接してくれる。梗子が人の悪口を言うところなど見たことがない。誰からも好かれる優等生のような存在だと思う。会社からの通知文書や研修資料などを入れるレターボックスの彼女の引き出しは常に溢れかえっているし、ロッカーの中が汚いという噂を聞いたこともあるが華は梗子に対して汚さは一切感じなかった。きっと梗子はオナラもしないのではないかなどと思うことすらある。
社交性に欠けその見た目から「お化け」と馬鹿にされた前の施設で、華は一度だけ梗子と会ったことがあった。
その時から梗子は華にとって希望だった。
夜勤明けで家に帰った後すぐにベッドで眠り、目が覚めると夜の八時だった。枕元で充電をしていたスマホの画面には梗子からのメッセージが一件表示されていた。内容は新人職員の歓迎会の誘いだった。しかも今夜行うという。梗子からの誘いなので迷ったが、華は『夜勤明けなので行けません』とだけ書いてメッセージを返信した。
空腹を覚えた華はベッドから起き上がり寝間着にしているキャミソールワンピースを立ったまま脱いだ。床に落ちたそれを畳むことなく近くに脱ぎ捨ててあった白いリネンシャツとスカートを拾い身に着けた。そしてユニットバスの洗面台まで行き軽く顔を洗い、化粧もせずに華は家を出た。
夜の住宅街を華は猫背の姿勢で歩き繁華街へと向かう。胸まで伸びた黒髪は固く、軽い風にはなびかない。前髪は目にかかる程長い。時々すれ違う人物を華は目だけを動かし睨み付ける。睨まれた相手は華のその見た目にひるみ一瞬はっと唾を飲むように驚くことが多い。これは華の防衛行為でもあった。自分は梗子や美由紀のように美人ではないが、女性には変わりない。いつ変質者に襲われるかわからない。少しでも相手を近づけさせないようにと考えたのが、睨み付けることだった。
駅前のハンバーガーショップに入る。アイドルのように明るく笑顔で来店を歓迎した女性店員を上目遣いに見てから、華は注文する商品名を伝えた。だが声が小さく女性店員から聞き返されたのでカウンターに広げてあるメニューの商品を指さし「これとこれ」という風に注文をした。
トレイに乗った食事を受け取ると華は窓側の席に座った。チーズバーガーを一口食べると口の周りにケチャップが付着したが、それをナプキンで拭き取りもせず華は窓から夜の街を眺めた。
華は席の窓から見える駅前のベンチ下に置かれている空き缶をずっと見つめていた。いや見つめていたのではない。その空き缶に意識を集中していた。動け動けと念じ空き缶がひとりでに動く姿を想像して――。
「お客様――そろそろ閉店です」
男性店員に声をかけられた華は我に返った。意識を集中していた華は突然声をかけられたことに驚き、同時に集中を途切れさせられたことに対し小さな怒りも覚えた。反射的に店員を睨みつける形で振り返った際、バイオリンを高音で掻き鳴らしたような耳鳴りが短く起こった。華に睨まれた男性店員はその場で 小さな爆風を前方から浴びたように身体が後方に動かされてしまった。
華もその現象に驚き、慌ててトレイを持って立ち上がる。「お、お預かりします」と我に返った男性店員にトレイを受け取られ華は会釈をして足早に店を出た。
「あれ、野村さん?」
名前を呼ばれて振り返るとそこには梗子が立っていた。梗子は自転車を押している。小型のマウンテンバイクか。名前はわからないが、おしゃれな自転車だった。
「よ、吉岡さん」
華は梗子と目が合った瞬間顔を伏せて口を開いた。
「そっか。野村さんも事業所から家近かったっけ。私も近いからいつも自転車。今日はほら美由紀に誘われた新人歓迎会でお酒飲んじゃったから乗れなくて」
「参加できなくてすいません」
華は会話を広げることができずひとまず謝った。
「良いのよ。夜勤明けだったんだし。私もそれだったら断るよ」
「はあ」
梗子は酔っているのかいつもより少しだけテンションが高いように華は感じた。軽く火照っている顔も梗子だから可愛らしく見えた。
「帰るの? 途中まで一緒に帰ろうよ」
梗子はそう言って華の了解も得ないまま自転車を押して歩き始めた。華は追いつくように速足で近づき梗子と並んで歩いた。
何を話していいかわからない。
梗子も話しかけてこない。
いつものように、清楚で凛とした雰囲気の梗子をちらちら横目で見ながら、華は俯き加減で歩いた。
「こ、ここ、ここです」
華は小さな声で言うと立ち止まった。そして目の前の二階建て小型アパートを指さす。
「へー。私ん家はもう少し先行ったところ。じゃあまた職場でね!」
梗子は明るくそう言って華に笑顔を見せた後、自転車を押してまた歩き始めた。
「お疲れ様です」
華は離れていく梗子の後ろ姿を見送った。
――吉岡さん、どれだけお酒を飲んだんだろう。
――吉岡さん、顔が赤かったな。
――吉岡さん、帰ったらそのまま寝るのかな。
――シャワーは浴びるのかな。
――吉岡さん。
――吉岡さん。
――吉岡さん。
梗子の姿が見なくなってから、華は自宅のアパートに入った。
2
――野村さんね? 吉岡です。よろしくね――。
華は初めて梗子に会った時のことを今でもよく覚えている。
以前の職場にいた時、人手不足のため梗子がヘルプに派遣されてきたのだ。散々お化けと悪口を言われている華に対し梗子はちゃんと目を見て名前を呼んでくれた。梗子の綺麗な眼差しに、華は久しぶりに自分の名前を呼ばれたような気がした。
そのあとすぐに華は上司に職場異動希望を出した。理由はどこにでもあるような人間関係の悩みであると伝えた。異動先は梗子の働くⅯ市の施設だ。華の意見を聞き会社でどんな会議が行われたかはわからないが、年明け早々に希望通り異動できることが決まった。その年の十二月に例の火事が起きた。
梗子はいつでも同等に接してくれたし、華に無理矢理仕事を押し付けたりもしなかった。むしろ梗子自身が大変な仕事を引き受けてしまうようなこともあった。梗子は勤務歴も長く周りの職員からの信頼も厚かった。そのため介護主任の美由紀を始め誰も―たまに文句を言われることもあるが―華を「お化け」と呼ぶようなことはなかった。
梗子のプライベートがどんなものか知らないが、華は勝手に、梗子は全く裏表の無い純粋な女性だと決めつけていた。
――吉岡さんだけは信頼できる。
――吉岡さんのためなら何でもできる。
――吉岡さんに言われれば何でもやれる。
――肩を揉めと言われれば揉む。
――勤務を変われと言われれば変わる。
――パンを買って来いと言われれば買う。
――裸になれと言われればその場で脱ぐ。
――吉岡さんの尿を飲めゲロを食えと言われたってできる。
――そして。
――死ねと言われれば死ねる――。
と言っても梗子に飲み会を誘われた時だけは断っていた。お酒が飲めないというのもあるが、梗子が自分意外とも親密に仲良く接している姿を近くで見るのが嫌だったのだ。
何度断っても梗子は必ず飲み会があると誘ってくれた。それが華は嬉しかった。
何かのタイミングで一度誘いに乗ってみようという気持ちがずっとあったので、同じ職場の男性スタッフが組んでいるバンドのライブを観に行こうという企画に華は思い切って足を踏み出してみることにした。
当初は同僚である及川のバンドだけを観に行く予定と思っていたのだが、梗子が気になるバンドがあるからという理由で少し早めに集合することになった。
集合場所であるⅯ田駅前に華が時間ちょうどに到着するとすでに梗子と美由紀は揃っていた。
職場のユニホーム姿を見ている機会が多いので私服で集まるのはなんだか新鮮に感じた。美由紀はTシャツにジーンズというスポーティーな恰好だった。出退勤時に見慣れた彼女の私服姿である。梗子はというと、いつも職場で目にするのはダボダボのTシャツ―サイズを間違えて買ったのではないかと華は思っている―に色あせたジーンズ姿だが、今日は黒いノースリーブのワンピースを着ていた。普段の恰好は少女か少年のような幼さを感じるが今日は大人びて見えた。唯一いつもと同じなのは華が勝手に梗子のトレードマークと思っているベージュの野球帽だった。野球帽なんて、もっと他に今は良い呼び方があるのかもしれないが、知らない。
美由紀の案内でライブハウスに到着した。及川のバンドは梗子が気になるというバンドの次に登場する段取りになっていた。
梗子が観たかったというバンドは『ロカロカ』という名前で、男女六人組のバンドだった。ラテン調の楽曲ばかりを披露し、ボーカルは男性と女性の二人。女性の方は露出度の高い衣服に身を包み、妖艶に体をくねらせて踊りながら歌を披露していた。ファンが多いのか会場は掛け声もするほど大盛り上がりだった。華はステージを見ながら、時折梗子の姿を盗み見ていた。隣にいた美由紀は曲に合わせて体でリズムを取ったりしていたが、梗子はまっすぐステージに立つバンドを見つめていた。
ロカロカの演奏が終わりいよいよ次が目的である及川バンドの出番なのだが梗子の姿が見当たらなかった。
「えーマジで」
華の横で美由紀はそう言うと手に持っていたスマホの画面を華に見せつけてきた。画面の中には梗子からのメッセージが表示されており『急用を思い出したから先に帰る』と書かれていた。
梗子がいなくなったと知った途端に華は美由紀と一緒にいることが気まずく感じ始めてきた。だが退席する理由もないので結局美由紀と二人で及川バンドの演奏を鑑賞することになった。
ライブが終わり及川のバンドメンバーと打ち上げがてらに飲みに行こうと美由紀から誘われ、華は断り切れずに近くの居酒屋に入らされた。
店での二時間は全くもって楽しくない時間だった。興味のない音楽論を熱く語ったり他愛のないうわさ話や恋愛話。
華は美由紀の隣に座り目をキョロキョロさせて適当に相槌を打つだけでなんとかその場をやり過ごした。酒を一滴も飲まなかった華は会計時に美由紀から「華は払わなくて良いよ」と言われた。無理矢理誘ったことを悪いと思っているのかもしれない。華はそんな美由紀の大人な対応に感激した。
このまま解散すると言うので店の外で華は美由紀に礼を言うとまるで逃げるようにその場を離れた。だが華はすぐに家には向かわず駅前広場のベンチに腰を下ろした。そこでふと目線の先に止まったのは一つの空き缶だった。華は何も考えずいつもの癖でその空き缶の方へ手を伸ばし「動け」と念じ始めた。
――今日、吉岡さんはどこに行ってしまったのだろう。
――居酒屋に吉岡さんがいたら、少しは楽しめたのかな。
華は空き缶に「動け」と念を込めながら頭の中では梗子のことばかり考えていた。すると、それまでピクリともしなかった空き缶が微かに震え始めてきた。華はその変化を瞬時に察し、伸ばしていた手をゆっくり上方に動かした。見つめていた空き缶が華の腕の動きと同じように地面から宙に浮く。その動きに華は驚きを感じたが意識を途切れさせないように浮いた空き缶に集中させた。視線の右側に自動販売機がありその横には缶専用のごみ箱が設置されていた。華は浮いた空き缶に腕を伸ばしたまま視線をごみ箱へ向ける。そして視線はそのままに伸ばした腕をごみ箱の方へゆっくりと降ると浮いていた空き缶はその腕の動きと同じように自動販売機横のごみ箱へと飛んでいき、見事にごみ箱の中に納まったのだった。
一連の出来事を間近で体験した華はベンチに座ったまま力が抜けるように吐息を漏らした。
「すごい」
後ろから聞き慣れた女性の声がしたので顔を向けると、そこには梗子が立っていた。
3
「いいじゃん、みんな絶対驚くし喜んでくれるって。利用者さんたちにも見せてあげようよ、野村さんの超能力」
翌日出勤するや否や梗子がフロア内のキッチンで話しかけてきた。
梗子が見つめてくる。華は目を合わせられない。俯いてチラチラ梗子の顔を伺うだけだ。
超能力というのは、昨夜の空き缶を触れずにごみ箱まで投げ入れたことを言っているのだろう。あれは初めての経験で華自身も驚いていることなのだ。梗子はそれを目撃しとても感動してくれ、職場のレクリエーションで披露して欲しいとねだってきているのである。
「でも、上手くいくかわからないし、気持ち悪がられるんじゃないですかね」
華は答えた。実際あれから家に帰って何度か同じように物体を動かそうと試みてみたのだが成功しなかったのだ。
「気持ち悪くなんかないよ。ほら昔だって人気あった人いたじゃない。ユンゲラーとか」
「ユリ・ゲラーです。ユンゲラーはポケモン」
即答で華が指摘すると「そうだったそうだった」と梗子は笑った。
「じゃあ一緒に練習しようよ。あとで休憩室にボールもってくから」
すっかり梗子のペースに押されている。
時間になり華は休憩室へと向かい、梗子はゴムボールを持ってやってきた。華が夜勤中に何度も念を送りその都度失敗に終わるボールだ。休憩室にはもうすぐ休憩が終わる藤本悠太がいた。
「はい」と梗子が目の前にゴムボールをかざした。練習しようと言われてもどのようにしたらいいものか。
「藤本さんも見てあげて。野村さんがこのボールを指一本触れずに宙に浮かしてみせるから」
梗子に煽られ華は仕方なくテーブルにボールを置きいつものようにボールに向かって手を伸ばしてみる。そして動け動けとボールに念を送る。しかしボールは動く気配がない。黙って念を送り続ける華とそれを見守る梗子と悠太で室内は物音ひとつしなくなった。
「ダメみたいです」
華は力尽きてボールに向かって伸ばしていた腕をおろした。
「あの時が奇跡だったんですよ」
「あの時、何を考えていたか思い出してもう一回やってみようよ」
梗子は諦めず華を説得した。
「何かきっかけがあるはずだよ」
「あの時は―」
華は再び腕を前に伸ばしボールに向けた。
あの日考えていたのは――梗子のことだ。
梗子が同僚のバンドライブを途中退席し残された華は楽しくもない飲み会に参加し、その場に梗子がいたら良かったのにと考えていた。そう、梗子のことを考えてあの時はずっと空き缶に念を送っていたのだ。
――吉岡さんのことを考えて。
――吉岡さん。
――吉岡さんはどうしていつも笑顔なの?
――吉岡さんはどうしてそんなにピュアなの。
――吉岡さんみたいになりたい。
――吉岡さんともっと一緒にいたい。
梗子に対しての思いを頭に浮かべながら華はボールに焦点を合わせ念を送った。
――動け。
ボールは静かに宙に浮いた。
華は梗子に顔を向ける。
「素敵」
梗子がまっすぐ華を見つめ返して言った。
「よ、吉岡さん。私―」
自身の能力に華はまだ頭の整理ができず声と身体が震えた。そんな華の肩に梗子は両手を乗せ微笑んで見せる。その手で次に華は頬を包まれた。
「自身を持って。あなたはすごいのよ」
梗子の綺麗な二重瞼に見つめられながら華は、今にも失禁しそうなくらいに歓喜していた。
「みなさん! 今日はここにいる野村さんがとっておきの特技を披露しますよ。マジックです!」
昼食が終わり自席でテレビを見たりそれぞれのんびりしている利用者たちの中央に立ち梗子が声を上げた。「何だい何だい」「何が始まるんだい」と利用者たちの注目は梗子とその隣に立つ華に集まった。
「さあ、早速みなさんを重力の消えた世界へご招待しましょう」
梗子がわざとらしく利用者の期待を高めた。
「野村さん、じゃあお願い」
と言ってからすっと梗子は華から離れた。フロアの片隅では悠太が表情のない顔で華に視線を向けていた。華は両手でしっかり抱えていたゴムボールに目を移し、頭の中に梗子の顔を思い浮かべる。華は覚悟を決めボールから両手を離した。
ボールは華の広げた両手の間で――浮かんでいた。
それを見た利用者たちから歓声が上がった。
これをきっかけにして、利用者からの華に対する姿勢ががらりと変わった。普段話しかけてこないような利用者も華に興味を示し再び念動力―利用者からはマジックだと思われている―を見せてほしいと次の日もまた次の日もせがまれることになった。
披露するたびに感動を呼んだ。全ては梗子が無理やりにでも華をフロアに立たせ念動力を披露させたことがきっかけである。
華は梗子に対して表現しきれないほどの感謝の気持ちを持った。同時に華は、梗子に対する好意がより深くなっていった。




