『悪魔』
悪魔は夢を見ない。
これは、ただの追憶だ。
あいつがまだ生きていた頃。
俺は呼び出された。
目の前には小綺麗な格好をした女がいる。
俺を呼ぶのは決まってそういう人間だ。
「俺を呼んだのはお前か? 願い事を言え。魂と引き換えに叶えてやろう」
下らない望みなら、この場で殺す。
そのつもりだった。
だが、目の前の女の願いはあまりに馬鹿馬鹿しかった。
「私とお友達になってくださらない?」
殺す気も起きなかった。
俺は契約を結んだ。
それから、女は一人になるたび、俺に話しかけた。
「あなたのお名前は?」
「…………」
「私の名前は――ですわ」
「…………」
俺が無視しても、女は話し続けた。
契約どおり、姿は見せてやっている。それ以上のことをする義理はなかった。
俺の目的は、こいつの魂だ。
こいつの魂は、これまで見てきたどの人間より白くて旨そうだった。
歪な形をしていたが、その時は気にも留めなかった。
姿を消したまま女の側に居続けるうち、奇妙に思うようになった。
こいつは、いつも同じ顔をしていた。
人間とは、欲望のままに生きる愚かな生き物だ。
それなのに、こいつはまったく感情を見せない。
異常だ。
「悪魔様は普段何をしていますの?」
「悪魔様の好きな食べ物はありますか?」
「悪魔様は本は読まれますか?」
女は変わらず俺に話しかける。
「アモンだ」
「アモンと呼べ」
ただの気の迷い。
奇妙な人間に興味が湧いただけだ。
それなのに、この女は馬鹿みたいに顔をほころばせる。
俺は気が向けば返事くらいしてやることにした。
だが、それでこいつの日々が変わったわけでもない。
こいつを取り巻く環境は歪んだままだ。
寝る前のひととき。昼食の最中。廊下を歩く間。
そんなわずかな時間が、俺とこいつの話をする時間だった。
毎日毎日、女はどうでもいい話を語って聞かせる。
そして、俺のつまらない話にも真剣な顔で耳を傾ける。
退屈な日々だった。
だが、いつからか女の話す言葉が少なくなった。
ある日、気がつくとこいつの魂の歪みがひどくなっていた。
下らない噂が広まっているようだった。
こいつは日に日にやつれていく。
俺の前で暗い顔を見せるようになった。
「殺してやろうか? お前が命じれば、すべて終わらせられるぞ」
契約にはないが、それくらいならしてやってもかまわなかった。
「いいの。これは私がどうにかするべきことだもの」
こんな状況でさえ、こいつは白いままだった。
「それに、お友達にそんなこと頼めないわ」
俺を友達だと、本気で思っているらしい。
この女はやはり異常だった。
それからも、噂は消えない。
こいつに向けられる醜悪な視線は増えていくばかり。
なのに、こいつは俺を使わない。
馬鹿だ。馬鹿にもほどがある。
しかし、一度契約してしまえば、悪魔は契約者の意思に反することができない。
俺はこいつが、義務とやらを諦めるのを待った。
その時はすぐにやってきた。
だが、こいつが捨てたのは義務だけではなかった。
その日、こいつは自室に戻っても俺に話しかけなかった。
淡々と何かを用意し始める。
「おい、何をしている」
「やめろ」
「そんなことをして何になる」
こいつは黙ったまま、縄を結ぶ。
「命令しろ」
「あいつらを殺せと!ここから逃がせと!」
悪魔は契約者の意思に反せない。
俺にはこいつを止められない。
「なぜだ!」
「お前が死ぬ必要がどこにある!」
俺がどれだけ叫ぼうとこいつは止まらない。
椅子の上に立って、一度だけ俺を見た。
「ごめんなさい。もう、うまく笑えないの」
その顔はあまりにも悲痛で苦しげだった。
「お友達になってくれてありがとう、アモン。お礼に私の魂をあげるわね」
一方的に言葉を並べて、こいつは縄を手にする。
「そんなものいらない!」
「だから生きろ、レティシア!!」
俺の声は、もう届いていなかった。
契約が切れた。
こいつの魂が、俺の手元に浮かんだ。
触れれば壊れそうなほど傷つき、それでも真っ白な魂。
それを仕舞い込み、縄を切ってこいつの身体を横たえる。
もう目覚めることのないこいつの顔を、俺は見続けた。
人間は愚かだ。
自分の都合で他者を傷つけ、それに気付きすらしない。
そして、傷つき果てれば自ら命を捨てる。
耐える必要などなかったのだ。
殺せなくとも、逃げればよかった。
そんな簡単なことさえわからなくなる。
人間は、本当に愚かだ。
こいつは死んだ。
だが、周りにいた人間は明日も同じように生きていくのだろう。
自分たちは何も悪くないという顔で。
それが、どうしようもなく気に入らなかった。
だから、見せてやることにした。
こいつが何を見て、何を聞き、どのように生きてきたのか。
そうすれば、少しくらいは気が晴れるかもしれない。




