『男子生徒』
悪夢を見た。
夢の中で、俺は自殺したはずの公爵令嬢になっていた。
朝早く、目が覚める。
身体が勝手に起き上がり、寝台を整え始める。
細く白い指が、乱れたシーツを伸ばしていく。
一人で朝食を取る。
広い食堂の長い卓に、俺一人分の食事だけが用意されている。
向かいの席には誰もいない。
声をかける相手もいないまま、音を立てずに食事を終える。
部屋へ戻り、勉強をする。
分厚い本を開き、文字を追い、覚えたことを紙に書き出す。数時間、手は一度も止まらない。
支度を整え、学園へ向かう。
教師に挨拶をする。 授業を受ける。 指名されれば答える。 困っている生徒がいれば手を貸す。
礼を言われることはなかった。
昼食を取る。
ここでも一人。
周囲には話し声が溢れている。 笑い声も聞こえる。その中で、静かに俯き食事を続ける。
午後の授業を受ける。
放課後になれば、婚約者である王子のもとへ向かう。
「殿下」
俺の口から、穏やかな声が出た。
王子はこちらを見た。
ただ、見ただけだった。
その瞳に浮かんでいるのは、煩わしさと嫌悪だ。
返事はない。
俺は、その敵意に恐怖した。
それでも、この身体は何事もなかったように言葉を続ける。
「本日のご予定について、確認したいことが――」
最後まで聞かず、王子は立ち去った。
わからない。
なぜ、あんな顔をされる?
なぜ、公爵令嬢は平然としている?
俺の意思に反して、この身体はただ背筋を伸ばし、遠ざかっていく背中へ静かに一礼した。
校舎を歩く。
見知った男子生徒が一人いた。
俺の友人だった。
目があった。
話しかけたい。
でも、声が出ない。
友人はわずかに背筋を伸ばした。 緊張したように一礼し、俺が何かを言うより先に足早に立ち去っていく。
家へ帰る。
勉強し、食事をし、眠る。
次の日も同じだった。
一人で起きる。 一人で食事を取る。 勉強をする。 学園へ行く。 授業を受ける。 一人で昼食を取り、また授業を受ける。
王子に声をかけ、無視される。
その次の日も。
さらに次の日も。
夢の中で、何日も過ぎた。
その間、公爵令嬢は何も変わらなかった。
誰かを睨むこともなかった。 嫌味を言うこともなかった。 誰かを呼び出し、脅すこともなかった。
ただ毎日、求められた務めを果たしていた。
正しく。 静かに。 誰にも迷惑をかけないように。
──いつの間にか噂が流れていた。
公爵令嬢が、王子と親しい女子生徒を睨みつけたらしい。
覚えがなかった。
夢の中で過ごしたすべての日を、俺は知っている。
あの日、その女子生徒とは目さえ合わせていなかった。
それでも、噂は学園中に広まっていく。
遠巻きに見られる。
こちらを見ながら、声をひそめられる。
けれど、誰も面と向かっては言わない。
だから、訂正する機会はなかった。
反論する相手もいなかった。
覚えのない悪事が増えていく。
それでも、公爵令嬢の日常は変わらない。
俺は叫び出したかった。
違う。やっていない。
誤解なんだ、と。
けれど、この身体は噂など聞こえていないかのように微笑みを浮かべる。
辛い。
苦しい。
痛い。
それなのに、夢から覚めない。
息が詰まるほどの噂と視線の中で、いつもの日常を過ごす。
ある日、夢の中に俺がいた。
俺は教室の中で、友人と笑っている。
公爵令嬢は、教室の外に静かに佇んでいた。
何を言ったのか、覚えている。
彼女がそこにいるなんて知らなかった。
いやだ。
聞きたくない。
聞きたくない……!
「否定しないってことは、本当ってことだ。たぶん裏で虐めてるんだろ!」
……悪気なんて。
なかったんだ。




