第9話 森が聞いている
狼が去った後。
森には再び静けさが戻っていた。
カナタはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「なんだったんだろう……」
狼が現れた時は少し驚いた。
けれど。結局何も起きなかった。襲われることもなく。
威嚇されることもなく。ただ顔を逸らして帰っていった。
まるで。
「関わりたくない」
そう言われたような気がする。
「失礼だよね」
カナタは少し頬を膨らませた。もちろん狼に聞こえるはずもない。
だが本人は納得していなかった。別に何もしていない。少なくとも自覚はない。だから少しだけ不満だった。
もっとも。その不満も長くは続かなかった。
袋の中には薬草がかなり集まっていたからだ。
依頼達成まではもう少し。焦る必要もない。
カナタは近くの切り株へ腰を下ろした。
ふぅ、と息を吐く。木漏れ日が揺れていた。風が吹くたびに葉がざわめく。鳥の鳴き声が聞こえる。
街とは違う静けさ。誰かがいる静けさではなく。
自然そのものが息をしている静けさだった。
「好きだなぁ」
思わず呟く。前世でも自然は好きだった。神社の裏山。放課後の帰り道。夕暮れの境内。
静かな場所へ行くと、いつも歌いたくなった。
だからだろう。今も自然と歌いたくなっていた。
「少しだけならいいよね」
誰に許可を取るでもなく呟く。
そして。小さく歌い始めた。
ラララ――。
歌詞はない。鼻歌だった。気分のままの旋律。
けれど不思議と心地良い。森へ溶け込むような歌だった。
風が吹く。葉が揺れる。歌が流れる。まるで森そのものが耳を傾けているような感覚だった。
その時。小さな羽音が聞こえた。振り返る。小鳥だった。
一羽。それだけではない。
二羽。
三羽。
四羽。
気付けば次々と集まってくる。
「また?」
カナタは苦笑した。最近よくある。歌っていると動物が寄ってくる。偶然にしては多い。しかし理由は分からない。
分からないなら仕方ない。カナタは考えるのをやめた。そして歌を続ける。
すると。今度は小鳥だけではなかった。
白い兎。木の上から顔を出すリス。少し離れた場所には鹿までいる。誰も逃げない。ただ静かにそこにいる。
まるで歌を聞いているみたいだった。
「観客?」
思わず笑う。もしそうなら不思議な観客だ。拍手もしない。感想も言わない。ただ聞いているだけ。
それでも悪い気はしなかった。むしろ少し嬉しい。
異世界へ来てから。知らないことばかりだった。
知らない街。知らない人。知らない常識。
けれど。歌だけは変わらない。前世でも歌った。
今も歌う。それだけは同じだった。だから少し安心する。そんなことを考えながら歌っていると。
ふと。昔のことを思い出した。神社だ。
小さい頃から通っていた神社。学校帰りによく寄った。
境内の石段に座って歌ったこともある。誰も聞いていないと思っていた。
だから好きなように歌えた。恥ずかしくなかった。
でも。本当は聞いていた。
あの神様が。
「変な感じ」
思わず笑ってしまう。今なら分かる。あの神様は本当に聞いていたのだ。
ずっと。子供の頃から。
考えるほど不思議だった。そして少し嬉しかった。
歌を続ける。今度は少しだけ懐かしい旋律だった。昔よく歌っていたものに似ている。自然と口から零れていた。
その瞬間だった。視界の端で光が揺れた。
名前:カナタ
呼び名:
・歌好きの少女
祝福:
・歌姫の祝福
祝福が光る。
今までより少し強く。
優しく。
暖かく。
まるで何かを待っているように。
「ん?」
カナタは歌を止めた。光も消える。もう一度歌う。また光る。
「なんだろう?」
首を傾げる。だが答えはない。動物達も分からないらしい。
小鳥が首を傾げている。同じだった。少し可愛い。
カナタは笑った。そして立ち上がる。そろそろ戻る時間だ。
薬草も十分集まった。依頼は達成できるだろう。
だが。帰る前に少しだけ気になるものがあった。
森の奥。木々の隙間から差し込む光。そこだけ妙に明るく見える。不思議だった。
まるで。
「こっちだよ」
そう呼ばれているような気がした。
「……少しだけ」
少しだけ見てみよう。そう思った。ほんの少しだけのつもりだった。
その先で。神様からの最後の贈り物に出会うことになるとは。まだ知らずに。




