第31話 フィオ
その日の朝。
王城の一室。フィオナは鏡の前に立っていた。
「本当に行かれるのですか……」
侍女が頭を抱えている。
フィオナは少しだけ視線を逸らした。
「散歩です」
「王城の外へ?」
「散歩です」
「お忍びですね」
「散歩です」
苦しい言い訳だった。誰が聞いてもお忍びだった。それでもフィオナは諦めない。
一度だけ。本当に一度だけ。歌のお姉ちゃんを見てみたい。
ただそれだけだった。
「護衛は付けます」
「それは仕方ありません」
さすがにそこは譲れない。
王女なのだ。何かあっては困る。
そしてしばらく後。フィオナは簡素な服へ着替えていた。王女らしい豪華な服ではない。
街娘風の服装。それでも隠しきれない気品がある。だが本人は気付いていない。
「では行ってまいります」
フィオナは少し嬉しそうだった。まるで冒険へ向かう子供のように。
◇◇◇
その頃。
王都の市場。
「ふふーん♪」
カナタは今日も鼻歌を歌っていた。
完全に定着した。本人は無意識。ルークとエマは慣れた。市場の人達も慣れた。
「おはよー!」
「おはよう!」
いつもの挨拶。いつもの市場。今日も平和だった。カナタは露店を眺める。
果物。パン。装飾品。見ているだけで楽しい。
その時だった。
「わぁ……」
小さな声が聞こえた。振り向く。一人の少女が立っていた。
金色の髪。青い瞳。年齢はカナタと近い。見たことのない顔だった。観光客だろうか。
そんなことを思う。
一方。フィオナは固まっていた。
見つけた。噂の少女。水色の髪。肩から下げた不思議なポシェット。
そして。
想像以上に普通だった。もっと神秘的な人を想像していた。
だが実際は違う。楽しそうに笑っている。市場の人達と話している。
子供達と笑い合っている。本当に普通の少女だった。
「こんにちは!」
突然声を掛けられた。
フィオナが飛び上がる。
「ひゃっ!?」
カナタが目を丸くする。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
全然大丈夫そうじゃなかった。フィオナは慌てる。
緊張していた。王族としてではない。
普通の友達として話す経験が少なかったからだ。
カナタは首を傾げる。変わった子だな。それが第一印象だった。
「初めて見る顔だね」
「そ、その……」
フィオナは言葉に詰まる。何と言えばいいのだろう。歌のお姉ちゃんを見に来ました。
それは恥ずかしい。かなり恥ずかしい。
だから。
「散歩です」
思わず口から出た。
「私も!」
即答だった。
カナタである。
「散歩楽しいよね!」
「え?」
「市場好き!」
フィオナは少し呆然とした。こんな風に話し掛けられたことがない。王女としてならある。
だが。
一人の少女として話し掛けられたことは少なかった。
不思議な感覚だった。
そして。
少し嬉しかった。
「私はカナタ!」
元気よく名乗る。フィオナは少し迷う。本名はまずい。さすがにまずい。
だから。
「フィオ……です」
愛称を名乗った。
すると。
カナタが笑う。
「フィオ!」
いきなりだった。フィオナが固まる。
今。呼び捨てにされた。王城ならあり得ない。
騎士も。貴族も。使用人も。誰もそんな呼び方はしない。
だが。不思議と嫌ではなかった。
むしろ。少し嬉しい。
「フィオって呼んでいい?」
「え?」
「駄目?」
上目遣いだった。フィオナは負けた。一瞬で負けた。
「だ、大丈夫です」
「やった!」
カナタは満面の笑みだった。フィオナも思わず笑ってしまう。その光景を。少し離れた場所から護衛達が見守っていた。
「仲良くなりましたね」
「早すぎるだろ」
護衛は呆れていた。まだ数分である。なのに。もう友達みたいだった。
◇◇◇
その後。
カナタはフィオナを連れて市場を歩き始めた。
「ここのパン美味しいんだよ!」
「そうなのですか?」
「うん!」
「こちらの果物もおすすめだよ!」
「へぇ……」
フィオナは驚いていた。全部が新鮮だった。
市場。店。人々。笑顔。王城では見られない景色。そして何より。カナタとの会話が楽しかった。
王女としてではなく。一人の少女として接してくれる。
それが嬉しかった。
やがて。
フィオナは思う。来て良かった。本当に。そう思った。
そしてカナタはまだ知らない。隣を歩く少女が。アルヴェリア王国第一王女だということを。
全く、欠片も気付いていなかったのである。




