追憶の時代③
「父上、戻りました」
盲目の父は、御簾の奥から地蔵の様に動かない。
「うむ。ようやった」
御簾を開け、父上の様子を確認する。
烏帽子は斜めだが、いつもの事だ。
家人はいちいち「斜めですよ」とは言わない。
私も、外出する時以外は指摘しない。
いつもの浄化作業をしていたら、今日は変わった殿方に出会った。
しつこく、礼を言いたいと言っていたが、屋敷の中に入れるのだけは断固として断った。
今まで幾人もの殿方を助けてきたが、どの殿方も場違いな女が奇妙な術を使って現れた事に怯えて腰を抜かし、這いずりながら逃げて行った。
あんなにしつこく食い下がる殿方は、初めてだった。
童のように純粋で、透き通った瞳をした青年。
でも、私は…
御簾をおろし、下がろうとした。
「待て」
はぁ。
「はい」
「…千代、おぬし男と話したな?」
始まった。
「…いえ」
「とぼけるでない!!匂いで分かるのじゃ!!!」
父上は激高して怒鳴り、足を踏み鳴らした。
「…しつこかったのです。紫野で浄化をしていたら、物の怪に騙されノコノコとやって来て、助けました。」
「ふん!!」
「礼がしたいと、付いてきたのです。」
「千代!分かっておると思うが、お前に殿方と添い遂げる事なんて出来はしないのだからな」
「…はい」
「お前には無理だ。分かるだろう?」
私の力は、殿方と婚姻を結ぶと消えてしまうらしい。
父上がそう語っていた。
私には、この力がないと生きていけない。
物心ついた頃より、奇妙なものが見えた。
母君も同じように、物の怪を見る事ができた。
8歳時分より、月に1度陰陽師の元へ座学に行き、術や世の法則を習っている。
殿方が得意げに話をするような事は、もうほとんど知っているし聞いても驚かない。
こんな可愛げのない女、誰が好きになるというのだろう?
こんな、変わった女を…。
私はあの青年の柔らかそうな頬、
その頬に浮かぶ若笹のような口元を思い出していた。
そして、ガラス玉のようにキラキラとした両目。
ふと、風が吹いた。
筆机の上に広げていた巻物を、飛ばされないように押さえる。
その瞬間、切灯台の火が消えた。
ふと、味噌のにおいが鼻をさす。
立ち上がろうとして何かが足に引っ掛かり、畳の上に転んでしまった。
その瞬間、手の甲に鋭い痛みが走った。
「痛っ…!!?」
刹那、また焼けるような痛みを手の甲に感じた。
「…何!?」
「…傷口には、味噌よ」
艶っぽい声が耳元でぽつりと放たれる。
味噌のにおいが香る中、中庭へ目をやる。
光る目が4つ、こちらを見ていた。
あれは…
目を凝らしていると、目は6つに増えた。
「お怪我させてしまって、ごめんなさい。私たち、どうしてもこうせずにはおられなくて…」
光る目の方から聞こえる、童女のようなあどけない声。
「お千代様に、お願いに参ったのでございます」
先程の声より、少し大人びた声が上ずっている。
「…何者ですか。まずは名乗ってください」
光る目は、皆同時にひれ伏すように下を向いた。
「はい。私たち、百瀬三姉妹と申します」
「ももせ…」
ようやく目が闇に慣れてきて、庭に跪く女性三人の姿がうっすらと見えてきた。
人間の姿をしているが、人の目はこんな風に闇夜で光らない。
「そなた達は人に非ざる者であろう」
「はい。私たちは、かまいたちという妖でございます」
かまいたち!?
「聞いた事がある。そなた達は、三位一体となり人を転がし、斬り付け、治療する妖怪なのじゃろう?」
3日前、陰陽道の座学の際に越後から学びに来たという若者が話していた。
その若者も、越後で実際にかまいたちに遭遇した事があったという。
「はい。そうでございます」
「…ではなぜ、傷口に味噌を塗るのですか?」
薬膏を塗るのが三人目の仕事なのでは…?
「はい…。私が、菊お姉の薬膏壺を割ってしまって」
幼い声が震えながら答える。
「…私も何かを塗らないと気が済まないので、こうして傷口に味噌を塗っています」
先程の艶っぽい声が答える。
成程…え、ん?
「傷口に味噌を…それが、私の今の使命だと…一心に思っております。」
どんな使命?
菊姉…そなた味噌の成分をご存知ない?
「…味噌を傷口に塗ると、余計に痛いのですが?」
闇夜の中、三姉妹は跪いたままじっと動かない。
「お許しください!菊は何も悪くないのです!!」
三人の中で一番大人びた声。
声のよく通る、誠実そうな声だ。
恐らく三姉妹の長女だろう。
「では、どういう理で傷口に味噌を塗りたくっておられるのです?」
「これには、深い理由があるのです…」
そう言うと、その長女と思われる女性は更に目を爛々とさせ、話を続けた。




