追憶の時代②
気が付くと、姫君を追って半刻程歩いていた。
姫君は一度も振り向く事なく、青年の前をスルスルと歩いて行く。
すると、姫君はある山の入り口で一瞬立ち止まった。
青年も立ち止まる。
姫は振り返り、妖しくて美しい微笑を青年へ向けた。
すぐにまた振り返り、山道へと足を踏み入れて行った。
青年も急いで後ろを追いかける。
太陽は真上に在る。
なのに、山中は夕刻のように薄暗くて気味が悪い。
いかに教養のない青年でも、ここがどのような場所かは判っている。
判っているのに、歩みを止める事ができない。
強烈な違和感が青年の心を支配する。
胸のざわめきが抑まらない。
そこでやっと、青年は姫へ声を掛けた。
「もし!!麗しい姫君がこんな険しい山に行こうとは、どんな要件か!!」
歩みが止まる。
姫君が振り返る。
その顔は、まるで別人のように青白く冷たい表情をしている。
「カァッ!!カァ!!!」
カラスが大きな鳴き声と羽音を立て、木々から飛んで行った。
青年はその音に身体を震わせた。
姫君は口の両端をニュッと上げ、青年を坂の上から見た。
目が合う。
青年の背筋はゾクッと素早く波打ち、足は来た道を引き返した。
「あらぁ…どこに行かれるのかしら?」
妙に山中に響く低い声が飛んで来た。
益々背中は波打ち、青年の本能は大きく鐘を鳴らす。
振り向いた。
目の前には、皺くちゃの老婆が白髪を振り乱した姿があった。
目は血走り、顔は赤黒く、爪が1尺程も伸びきっている。
「ひぃっ…!!!?」
腰が抜けてその場に倒れ込んだ。
その時。
木立の間に、壺装束の女が立っているのが目に入った。
女は白く光り輝く弓矢を引き、こちらに向けて構えている。
「えいっ」
と言うと女は矢を射った。
光り輝く矢は流星の如く空中を走り、老婆の背中へ命中した。
「ぎいあっ」
老婆は刺さった矢と共に、煙のように消え去った。
呆気に取られていると、壺装束の女が駆け寄って来た。
「大丈夫ですか?」
「ひぃあっ!!?」
驚いて地面を這いずり、後じさった。
「…すみません。」
俯いた時、市女笠に隙間が出来た。
白いベールの隙間から、女の顔が覗いた。
色白とは言えない肌。
その中でも、純真無垢な瞳が印象的だった。
控え目な口元に、かすれて澄んだ声。
どこか哀しそうだった。
「では、真っ直ぐに道を下って行ってください。もうここに来てはいけませんよ」
同じくらいの歳に思える女は、今度は冷静沈着な態度でそう伝えた。
「…そなた、何者なのじゃ?」
口をついて出た。
「…私の事は、決して誰にもお話なさらないでください」
「礼がしたい」
「礼など結構です。」
「命を落とす所だった。本当に、ありがとう」
青年はやっと立ち上がった。
「今のは、妖だったんだな。我は初めて遭ったよ」
先刻の出来事を振り返り、身震いした。
「…殿方は、すぐにあのような妖に騙されます」
女は溜息をついた。
「…愚かよのぅ」
青年は尻を払い、女に近付いた。
「そなたは、こんな場所で何をしているのじゃ?か弱きおなご1人で…」
「それはお答えできませぬ」
引戸を勢い良く上品に閉めるように、女は言った。
「そうじゃ!礼としてそなたの屋敷までお供しよう!」
「…何ですか、あなたは」
女は少し動揺した声を出した。
青年はどうにかしてこの女の素性が知りたくなったのだ。
「我は、武術が得意なのじゃ。今度は、野党や盗賊等からそなたをお守り致しますぞ」
そう言って、青年はバク宙をしてから飛び走り、女の前に傅いた。
「…変なお人」
そっと下から覗くと、市女笠の隙間から温かく微笑む顔が見えた。
山道を下っている間、青年は女に詰問した。
「今の妙技は何なのじゃ?」
「…あなたが知る必要はありませぬ」
「冷たいのう!!そんなんでは、結婚できぬぞ!!」
「…構いませんよ」
同じ年頃とは思えない程、冷めた回答だ。
「…冗談じゃ。」
「殿方から文をもらう事等、私には一生ありえませぬ」
「なぜじゃ?世の男共の目は節穴なのか?」
「…私の肌は白くない。外に出る事が多いからです」
この時代、肌の白さは麗しの必須条件だ。
「肌は白くなくとも、そなたは我を妙技で救ってくれた」
「たまたまです」
「それに、そなたの目は今まで見たどの姫君よりも清らかで美しい」
「…上手な事ですね」
女は鼻で笑った。
「いや、我は文を書くのが下手なのじゃ!しかし、そなたを見ていると…」
自然と、言葉が浮かんでくる。
清彦自身でも不思議だった。
「私がどんな者かも知らず、よく屋敷まで来ようとお思いになられますね」
「…きっと高貴な姫君なのじゃろう?」
実際、この女が放つ雰囲気は尋常でない気品がある。
「こんな場所に、1人で来る女子がですか?」
振り返った女の市女笠が風に煽られる。
山の入り口まで下りてきていた。
太陽の光が女に降り注ぐ。
市女笠の隙間から女の顔が覗いている。
自嘲気味に微笑むその顔は、清彦の心の奥の何かをうずかせる。
「…何か事情があっての事だろう?そなたは、特殊な力を持っているから」
女は答えない。
「もし誰もそなたを守る者が居ないのなら、これからは我がお供致す。」
女は驚いて目を見開き、ぽかんと口を開けた。
「それが、命を救ってもらった我からの恩返しじゃ」
青年は自分でも思いがけない言葉がつらつらと出てきて得意気だ。
「…あなたは、童のように無垢ですね」
清彦はハッとした。
目を細めて笑う女に、清彦の心はいとも容易く奪い取らた。




