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デイジーの村で 10

「え? あ……!」


リーフィアスの言葉に、トイヴォは動きを止めた。音を立てるようにして振り返ったその顔は、自責の念に色を失っている。


「俺、すぐ自分のしたこと忘れて──ああ、そうだよ手当て! 傷の手当てしなきゃ」


焦った声で、背中見せて! とリーフィアスの背後に回る。


「祖父さんに言われて、苦労して採ってきた薬草がまだ残ってたはずなんだよ……」


言われるままその場に座ったリーフィアスが、新しく萌え出た草の、ひんやりとした瑞々しい感触を指先で愉しんでいると、少年が息を呑む気配がした。


「リーフィアス! 傷が無いよ。服が黒っぽいからわかりにくいけど、血を吸って重いくらいなのに、どこにも傷が無い……布は裂けてるのに……。俺、確かにあんたのこと──刺したのに……」


後半を弱々しく呻くようにして、ぺたぺたと彼の手がリーフィアスの背中を触る。


「痛くない? 本当に痛くないの? リーフィアス」


「ああ、どこも痛くはないよ」


「何で……やってしまったことは無かったことにはできないって、祖父さんが──」


呆然とする声に、リーフィアスは振り返った。少年は、草の上に頽れるように膝をついている。


「あれは夢だったのかな、リーフィアス。俺、何か変な夢見てるのかな。──今あんたとこうやってしゃべってるのも本当は夢で、俺は本当は死にかけてるのかな」


でも、俺の手はあんたの血で汚れてるんだ、と呟くトイヴォの手を、リーフィアスは握ってやる。


「いいや、全ては本当にあったことだよ、トイヴォ。おまえが私を刺したことも、穢魔の風が吹いたことも。──吟遊詩人(バルド)としての私の初仕事が、こうして成功したことも」


うつむく少年に、リーフィアスは目の前のまぶしい緑、大地を覆い尽くすかのような、緑の弥栄に目を向けるよううながす。


「見てごらん、夢ではない」


そう言って立ち上がり、彼らの近くまで枝を伸べているアプルの木から赤い実をひとつもいで、うなだれる少年に手渡そうとした。幼いリーフィアスに、シダリアスがハマナシの実を渡してくれた、あの日のように。


「……祖父さんが言ってた、アプルの実。甘くて、汁気がたっぷりで、あれほど美味かったものはないって──」


琥珀色の瞳が、遠い幻でも見るように差し出されたものを見つめている。臆病な手が、汚れを恥じるように後ろに回される。


「……そうだな。まず、手を洗いなさい。ほら、そっちを見てごらん、泉が湧いたようだ」


生い茂る草木のあいだから、太陽の光をきらきらとさせながら一筋の水が流れてくる。この祠のある窪地は、そのうち水が溜まって池になるのかもしれないな、とリーフィアスは思った。──リーフィアスにとっても全ての出来事に現実感がなく、頭の中がふわふわとしているようだった。痛みも、怒りも、何もかもがすべて遠い夢のように曖昧で……。


「……」


きれいな水に手をひたし、赤黒くなった血の汚れがさらさらと洗い流されていくのを、トイヴォは無言で眺めている。リーフィアスも黙ってぱしゃぱしゃと手拭いを濡らし、身体のあちこちを拭いた。すぐに赤く汚れて、自分は本当に怪我をしていたのだな、と不思議な気持ちになってしまう。


「──トイヴォ。私たちの上に、何か普通でない、不可思議なことが起こったのは確かだ。私にも、まだ消化しきれていない」


リーフィアスは少年に話しかける。


「それでも、私たちが無事生き延び、ここに緑の弥栄が戻ったのは確かだ。今考えてわからないことも、いつかはわかることがあるかもしれない。だから──」


今は、それでいいじゃないか、と続けた。自分自身にも、そう言い聞かせている。考えても詮無いことは、考えても意味が無いのだから止めておけ、と師にもよく言われたものだ。──頭の上のおっさん草も、きっとそういうたぐいのことなのだろう、考えても意味が……。


リーフィアスは気を取り直すように頭を振った。髪の毛以外のものが、一緒になって揺れている感覚がある──。


「さあ! アプルの実を食べてごらん、トイヴォ。ずっと聞かされてきたお祖父さんの話が本当だったかどうか、確かめてみるいい機会だ」


妙なものにくっつかれて、本当は気味が悪い。問題を先送りするように、わざと明るくそう言って、さっきもいだ赤くて大きな実を軽く洗い、もう一度差し出す。


恐る恐る、そっと手を出して受け取った少年は、ひと口齧ると大きく目を見開き、祖父さんの言ったとおりだ、と泣きながら笑った。










トイヴォが祖父と数少ない隣人たちと共に暮らしていたという場所は、アプルの森になっていた。たわわに実った赤い実や、良い匂いのする花を求めて、生き物たちが戻ってきている。仲間を呼ぶように囀る小鳥たちや、ぶんぶん飛びまわる花蜂、複雑な模様を持つ翅をひらめかせ、花から花へとふらふら移ろう蝶々たち。


「まるで違う場所みたいだ。でも、あそこに俺たちが暮らしてた家があるから……」


驚きにだろう、しばらく口を開けたまま突っ立っていたトイヴォが、ようやくそう言った。


「再生の儀式を行うと、そこに暮らした人が強く心に思っていた緑が生えてくることがある。──おまえのお祖父さんは、きっと最期までアプルの実を思っていたのだろう。お祖父さんにとって、アプルは緑の弥栄の象徴だったのだ」


「しょうちょう、って何?」


「わかりやすいしるし、ということだよ。アプルは豊かな土地でしか育たないだろう? だから、アプルの木があるところは豊かな土地、ということだ」


「豊かな、土地……」


あの、痩せて何もなかった土地が、とトイヴォは呟いた。


「そっか。良かったなぁ、祖父さん……」


「──墓を参るんだろう? どこに作ったのだね」


花と実の、甘い香りに満ちた森を、遠い目で眺めるばかりの少年に、リーフィアスはそっとうながす。


「あ、ああ、俺、もう力がなかったから、立ち枯れて倒れた木の、根っこのあった穴に埋めて──」


生い茂る草木の絨毯の中から、元の姿を想像するのは難しい。それでもトイヴォは迷いながら、小屋のような家のある位置から、それらしき場所を割り出したようだった。


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