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鬼道の女王

夕暮れ。

潮騒の音が遠く響く、灘に面した静かな浜。

老漁師のサクは、今日最後の漁を終えて舟を浜へ引き上げようとしていた。ふと、額の汗を拭いながら海風の吹く空を見上げる。


「……何だ、あれは」


赤く染まる西の空。その茜色のグラデーションの中に、異様に大きな白い影が揺れていた。

鳥にしては大きすぎ、雲にしては形が定まっている。海風に流されながら、巨大な影はゆっくりと、着実に浜の松林へと近づいてくる。

やがて――。

ばさりっ!

重い響きとともに、巨大な影は浜辺にそびえる老松の大枝へ引っ掛かった。太い枝がギシギシと大きくしなり、その下に何かが吊り下がって揺れている。


「人……か!?」


サクは手にした縄を放り出し、思わず砂を蹴って駆け出した。

松の下。

編み籠は半ば砕け散り、焦げた絹布が蜘蛛の巣のように大枝へ複雑に絡みついていた。その半壊した籠の中に、一人の男が横たわっている。

肌着一枚。全身は煤と灰で真っ黒に染まり、紫に腫れ上がった唇は固く結ばれていた。


「おい! しっかりしろ!」


サクが叫ぶが、返事はない。


「生きとるか!」


胸元に手を当てると、かすかなぬくもりとともに、胸が小さく上下していた。

サクは急いで松の幹へ取り付いた。


「こんな高い所から……一体どっから降りてきやがった」


枝を渡り、慎重に男を肩へ担ぎ上げると、半壊した籠から引き抜いて地面へと降ろした。


「おーい! ユキ! ユキはおらんか!」


サクの呼び声に応え、浜の小高い場所にある小屋から若い娘が慌ただしく駆け下りてくる。


「父ちゃん! どうしたの!」


「湯を沸かせ! 一番強いむしろも持ってこい!」


「この人は……? まっくろじゃない」


「わしにも分からん」


サクはハァハァと息を荒らしながら、薄暗くなり始めた空を仰ぎ見た。


「分からんが……天から落ちてきたんだ」


翌朝。

偉駆朱は、重い瞼をゆっくりと開けた。

見知らぬ天井。藁でできた低い屋根。隙間から差し込む朝光と、煙と木の香り。


『……這裡是哪裡(ここは、どこだ)?』


身体を起こそうと力を込めた瞬間、全身の関節と筋肉に激痛が走った。凍える空調と強風に耐え続けた体は、悲鳴を上げていた。

ばさりと、扉代わりの筵が押し上げられる。

湯気を立てる小さな木椀を抱えた若い娘が入ってきた。


「あっ!」


偉駆朱と目が合うと、娘は目を丸くして足を止めた。


「起きた! 父ちゃん、起きたよ!」


偉駆朱は、今まで聞いたこともない独特の響きを持つ言語に、薄い眉をひそめて首を傾げた。


「……?」


娘は温かな笑顔を浮かべると、ゆっくりと膝をつき、両手で椀を差し出した。中には、熱気とほのかな穀物の香りを立てる粥が盛られている。


「どうぞ。食べられる?」


言葉の意味は分からない。しかし、差し出された手と、慈しみに満ちた瞳を見れば自ずと理解できた。――食べろ、ということだ。

偉駆朱は静かに額を深く下げた。


謝謝ありがとう


娘はきょとんとして頭をかしげる。

互いに言葉は一言も通じない。それでも偉駆朱は匙を取り、温かい粥を口へと運んだ。

出汁の風味と穀物の甘みが、冷え切った身体の奥底へと染み渡っていく。その瞬間、極限の緊張の中で張り詰めていた心の糸がふっとほどけ、偉駆朱の目から一筋の涙が静かに頬を伝い、煤けた顔に白い筋を作った。


昼下がり。

ユキは素朴な壺に温い湯を沸かして戻ってきた。そして指先で外の小池を示す。


「……?」


偉駆朱が首を傾げると、ユキは自分の腕を擦る仕草をして見せた。


「洗う。きれいに、ね」


偉駆朱は短く息を吐き、ようやく納得した。


(ああ)是嗎そうか


案内された小さな湧き水の池の縁に立ち、水面を覗き込む。


「……」


水鏡に映っていたのは、およそ自分とは思えぬ凄惨な男の姿だった。

髪は乱れ飛んで煤と脂で固まり、頬はげっそりと痩せこけ、唇は裂けて血が滲んでいる。まるで冥府から這い上がってきた亡者のようだった。

偉駆朱は服を脱ぎ、静かに池の中へ足を踏み入れた。

お湯を掛けながら肌を擦ると、漆黒の煤と灰が、黒い渦となって澄んだ水へ溶け出していく。

ユキは少し離れた松の根元で、洗いたての新しい麻の貫頭衣――この地の粗末だが乾いた衣を抱えて待っていた。偉駆朱が水から上がり、濡れた体を拭うと、そっとその衣を差し出す。


「……」


言葉はない。

偉駆朱は衣を受け取り、腰を折って深く一礼した。ユキもどこか照れくさそうに、つられて深く頭を下げる。

言葉の意味は、何一つ通じない。

だが、人に感謝し、人に敬意を払う「礼」の形だけは、海を隔てた異国であっても、まったく同じだった。


その頃。

老漁師サクは、浜から数里離れた集落にある豪族の館へと足を運んでいた。


「空から人が降ってきた、だと?」


館の立派な門前に立つ門番が、鼻で笑った。


「サクの親父、夕べの酒がまだ残っとるんじゃないのか」


「違う!」


サクは網で日焼けした顔を歪め、真剣な眼差しで食ってかかった。


「この目で見んだ! 白い巨大な鳥みてぇな布が松の枝へ引っ掛かってな、その籠の中から、見たこともない黒い男が出てきたんだよ!」


あまりの迫力に、門番の嘲笑が消えた。


「……真面目な顔だな。異国人……だというのか」


「ああ。見たこともねぇ服を着て、言葉がまるで通じねぇ。訳のわからん声を出す」


「……これは、わしら門番だけじゃ判断がつかん」


やがて、その異様な報告は門番から館の主へ、そして豪族を経て、さらに北部九州を統べる有力者たちの元へと、波紋のように伝わっていくこととなる。

――「海の浜に、天から降ってきた異国の男がいる」と。



女王の館。

掘立柱に朱が塗られたその建物は、他の竪穴住居とは一線を画す威容を誇っていた。広間の奥には香が焚かれ、青白い煙が静かに漂っている。

老漁師サクに伴われ、洗い清められた簡素な麻の貫頭衣を纏った偉駆朱は、重々しい空気の流れる広間へ通された。


正面の小高くなった座には、一人の老女が座している。老境に達した邪馬台国の女王――壱与いよであった。白髪をきっちりと結い上げ、その瞳には深く静かな光が宿っている。

その傍らには、まだ若き巫女。老女と同じように無地の衣装を身にまとい、物珍しそうに、しかしどこか鋭い眼差しで客人を見つめていた。


広間の左右には、筋骨たくましい豪族や長たちが厳然と平伏し、あるいは居並んでいる。その一人が膝を進め、低く叩頭した。


「女王様。この者が、天より降ってきた異国の男にございます」


壱与は静かに頷いた。


「……近う」


偉駆朱は静かに一歩を踏み出し、西晋の作法に則って深く両手を合わせ、額を擦りつけるように拝礼した。

その洗練された無駄のない所作を見つめ、壱与の細い目がかすかに細められる。


「礼を……知る男か」


若い巫女が小さく息を漏らすように呟いた。

やがて、集落の老人が一人、進み出てひざまずいた。倭人にしては珍しく、大陸風の仕立てた衣服を纏っている。


『私は……幾度か帯方郡たいほうぐんへ渡り、晋の商人とも話をしたことがございます』


流暢とは言い難いが、確かに聞き覚えのある西晋の言葉であった。

偉駆朱は弾かれたように顔を上げた。


『あなたは……晋の言葉がお分かりになるのですか』


『ほんの少しだけだ』


老人は苦笑を浮かべ、自嘲気味に首を振る。


『難しい話はできぬ。簡単な言葉だけだ』


偉駆朱の胸から、重い安堵の息が漏れた。


『十分です……言葉が通じるだけで、十分でございます』


老人が壱与へ向き直り、言葉を通訳する。


「名は」


偉駆朱いかろす


「晋の……異国の言葉を話す男です」


壱与は唇を動かし、何度かその音を口の中で確かめるように繰り返した。


「イ……カ……ロス」


やはり発音が難しいのか、不器用な音になる。傍らの若い巫女も、その音を真似するように小さく呟いた。


「イカルス……」


偉駆朱は自嘲混じりに小さく笑った。


『はい。その名で構いません』


壱与は瞳を動かさず、静かに尋ねた。


「お前は、どこから来たのか」


通訳の老人が伝える。偉駆朱は一瞬目を閉じ、それから一点を指差した。


『晋』


続いて手を横へ動かし、東の沖合を指す。


青州せいしゅう


さらに、両手を大きく広げ、空中で丸を描くように巨大な袋の形を作ってみせた。


『絹』


火を起こし、煽るような手つき。


『火の()


そして、自らの掌をゆっくりと上へ持ち上げていった。


『空』


館の中が一瞬にして静まり返った。

豪族たちが顔を見合わせ、ざわめきが波のように広がる。


「空を……鳥のように飛んだというのか?」


通訳の老人も半信半疑の面持ちで訳す。

偉駆朱は力強く、まっすぐに頷いた。


『はい。鳥のように、天を渡ってまいりました』


壱与はしばらく無言のまま、偉駆朱を見つめていた。やがて、静かに立ち上がる。


「見せよ」


ゆっくりとした足取りで、壱与は館の外へと向かった。

そこには、浜の松林から引き剥がされ、数人がかりで運ばれてきた巨大な絹の塊が横たわっていた。破れ、黒い煤と灰にまみれながらも、その桁外れの大きさは、見る者すべてに圧倒的な異物感を抱かせる。

壱与は静かに歩み寄り、煤けた絹の表面へとしなやかな指先で触れた。


「……布だ」


『はい』


「鳥の羽でも、龍の鱗でもない」


『はい』


「鬼道やあやかしの術によるものか」


偉駆朱は頭を振った。


『違います。これは……人の知恵と、技にございます』


壱与は手を離し、長く、長く秋の空を見上げた。


「それでも……」


一陣の風が吹き抜け、老松の枝にかけられていた絹が悲鳴のようにかすかに揺れる。


「人は、天へ届いたのだな」


その一言に込められた神聖な重みに、豪族たちは一斉に地へ平伏した。若い巫女もまた、息を呑んだまま、青く澄み渡る空を茫然と仰ぎ見ていた。

壱与はゆっくりと振り返り、巨大な絹の残骸を指差した。


「この舟に名はあるのか……?」


通訳の老人に返答を促され、偉駆朱は首を振る。


「鳥のように天空を渡る船か」


『……』


「今日より……これを『天の鳥船あめのとりふね』と呼ぶ」


館の周りに集まった者たちが、一斉にその名を称えるように唱え始めた。


「天の鳥船!」

「天の鳥船!」


太く重い声が、浜の空へと響き渡る。

壱与は最後に、偉駆朱の目をじっと見つめた。


「お前は……」


しばらく思考を巡らせるように間を置くと、やがてその厳格な顔に静かな笑みを浮かべた。


「天より遣わされた、吏(官吏)であるか」


通訳は少し困り顔をしながら訳した。


『女王は……お前を、天の役人ではないか、と問うておられる』


偉駆朱は苦笑し、静かに首を横に振った。


『違います。私はただの、土と木を扱う職人にすぎません』


少しの間を置き、偉駆朱はかつて見上げた洛陽の天、そして海の上で見た太陽を思い浮かべた。


『ですが……長い歴史のなかで、天に最も近づいた者では……あったのかもしれません』


その言葉の意味を、老人が通訳しても、壱与が完全に理解することはできなかった。

それでも、目の前の男が浮かべた穏やかで悲しげな笑みに偽りがないことを悟り、女王は深く、静かに頷いたのだった。



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