新たなる天命
数日後。
朝もやの残る女王の館の庭。踏み固められた土の上に、朝露を含んだ草の匂いが強く立ち込めていた。
偉駆朱は、庭の端にある木柵に身を寄せ、東の海を眺めていた。
水平線から昇る朝日に照らされ、大洋の波頭が眩いばかりの金色に煌めいている。その果てしない青の広がりは、どこまでも、どこまでも続いていた。
草を踏みしめる足音が近づき、通訳の老人が静かに隣へ立った。
『毎日、海を見ておられるな』
老人の掠れた声に、偉駆朱は海から目を離さずに答えた。
『……晋は、あちらでしょうか』
老人は小さくかぶりを振り、足元の濡れた砂地を指差した。
『もっと西だ。あちらは、ただただ水が続くだけの果てのない海よ』
偉駆朱の肩が、わずかに落ちる。老人は腰をかがめると、落ちていた木の枝を拾い上げ、砂の上へ静かに図を描き始めた。
『ここはお主らに倭と呼ばれる地……その北の端だ』
枝先が砂を刻む。
九州の丸い輪郭。その北にぽつんと浮かぶ対馬と壱岐。さらにその向こうに広がる朝鮮半島の筋。そして、遠く屈曲する遼東半島。
『ここから北へ渡り、半島を伝って陸を行く。それが帯方郡への道だ』
老人は枝を投げ捨て、自嘲気味に苦笑した。
『お前は……ずいぶん遠くまで飛ばされたものだ。天の風というのは、おそろしいものだな』
偉駆朱は砂の上の粗末な地図をじっと見つめていた。頭の中で、かつて洛陽で見た膨大な地図と、自分が風に流された経路を必死に繋ぎ合わせようとする。
『……舟なら』
かすかな震えを帯びた声が漏れる。
『舟なら……何艘乗り継げば、帰れるでしょう』
老人は海を見つめ、深みのある声で応じた。
『運が良ければ一年。風と波が味方し、道中山賊や海賊に巡り合わねばな』
『……悪ければ?』
老人は一瞬言葉を濁し、静かに目を伏せた。
『……海で鮫の餌になるか、異国の浜で名も無く死ぬ』
偉駆朱はゆっくりと顔を上げ、雲ひとつない秋の空を見上げた。
『帰れぬ、か』
風が吹き抜け、庭の朱塗りの柱をかすかに濡らす。二人を包む長い沈黙。波の音だけが、遠く絶え間なく響いていた。
『……私の国では』
偉駆朱はポツリと呟いた。その瞳には、すでに失われた晋の都、そして自分を送り出した皇帝の姿が映っているかのようだった。
『私はもう……死んだ者になっているでしょう』
計画の破棄。記録の抹消。
自分が命を賭して空へと放ったあの巨大な絹の鳥の記録も、きっといま頃は洛陽の灰となって消えている。己が存在すら、闇へと葬られたかもしれない。
老人は何も言わず、ただ偉駆朱の佇む肩へそっと手を置いた。
遠く浜の方から、朝の漁に向かう漁民たちの威勢のいい掛け声と、鳥の羽ばたきのような波音が聞こえていた。
その日の夕刻。
夕闇が迫る女王の館の内部では、炉の火が赤々と燃え、揺らめく光と影が朱塗りの柱を浮き上がらせていた。
壱与が偉駆朱を呼んだ。
その傍らには、いつものように若い巫女が静かに控えている。
通訳の老人が重々しく口を開く。
『女王がお尋ねになる』
『……晋へ、帰りたいか』
偉駆朱の胸に、かつての都・洛陽の風景や職人たちの顔が一瞬で駆け巡った。答えに迷いはなかった。
『帰りたい』
老人の通訳を聞いた壱与は、静かに、深く頷いた。
「そうであろうな……故郷を思う心に、海の境界などはない」
しばらくの間、炉の爆ぜる音だけが響く静寂が流れた。
やがて壱与は立ち上がり、静かな手つきで館の外の広場を指さした。
そこには、松の枝から回収された破れた巨大な絹布が広げられていた。かがり火の明かりの下、何人もの職人や娘たちが集まり、針と麻糸を使って穴を一つひとつ丁寧に繕っている。
通訳が言葉を継ぐ。
『女王は、お前に問う』
『……あれは、直せるか』
偉駆朱は広場へ歩み寄り、ひざまずいて焦げた絹布をそっと撫でた。
職人が縫い合わせた荒い縫い目。引き裂かれた繊維。焦げ付いた穴。指先から伝わる感触に、己の職人としての血が静かに脈打つのを感じた。
『……この地で、これほどの絹を新しく織り上げることは難しいでしょう』
偉駆朱は顔を上げ、女王を見つめた。
『ですが……穴を丁寧に塞ぎ、網で全体を補強すれば、もう一度空へ飛ばすことは可能です』
その言葉を聞いた瞬間、傍らにいた若い巫女の瞳が、夜空の星のように眩しく輝いた。
壱与は穏やかに、しかし威厳に満ちた笑みを浮かべた。
「ならば」
通訳の老人が一息置き、偉駆朱の目をまっすぐに見据えて告げた。
『この国に仕えぬか。――あの“天の鳥船”を造る者として』
偉駆朱はすぐには返事をしなかった。ただ深く頭を下げ、静かに退室した。
その夜。
偉駆朱は一人、静まり返った浜辺へと足を進めた。
空には澄み渡った月が昇り、青白い月光が果てしない海面を銀色に照らし出している。
『父上……』
罪を着せられ、暗い牢獄の底で息を引き取った父の凄惨な顔が、脳裏に浮かんだ。
『私は……もう、国へは帰れません』
波が寄せては返し、冷たい夜風が貫頭衣の裾を揺らす。
『陛下……』
己に全権を与え、空への夢を託してくれた恵帝の姿も浮かんだ。
『私は……与えられた命を果たせませんでした』
一陣の風が海から吹き抜けた。
肌を刺すその冷たさと鋭さは、あの日、自分を地上のあらゆる縛りから解き放ち、大空の彼方へと運んでいったあの「天空の風」と、まったく同じ匂いがした。
静寂の中、偉駆朱は佇んでいた。
やがて、その唇から小さく、晴れやかな笑みが漏れた。
『……いや』
偉駆朱は夜空の月を見上げた。
命を果たせなかったのではない。
己の築いた技術と知恵、そして命そのものが天の風に導かれ、この遥かなる未知の国へ届いたのだ。
空の彼方に消えたはずの「天の鳥船」は、いま、この異国の地で再び翼を広げようとしている。
偉駆朱は波打ち際を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや迷いも郷愁もなく、新たなる空を見据える職人の強い光が宿っていた。
翌朝。
朝露が輝く庭で、偉駆朱は壱与の目の前へ歩み出ると、晋の最敬礼である姿勢で深く拝礼した。
『……帰る道が途絶えた以上、この身、そして我が持てるすべての知恵を、この国へお預けいたします』
通訳の老人がその言葉を伝えると、壱与の厳格な顔に温かな微笑が浮かんだ。
「歓迎する、異国の賢者よ」
傍らに控える若い巫女も、深々と頭を下げる。
「天の鳥船のすべてを、お前に預ける。我らに……天の目を与えておくれ」
数か月後。
潮風が吹き抜ける浜辺には、かつてとは異なる新たな姿の「天の鳥船」が横たわっていた。
大きさは以前の三分の二ほど。この地で手に入る麻の糸で補強された絹袋は、職人たちの手で丹念に穴を塞がれ、見事に蘇っている。竹と藤で組まれた籠は極限まで削ぎ落とされて軽く、火皿も石脂油などを排し、乾燥させた藁と木炭だけを燃やす簡素で安全な構造へと改良されていた。
火が入ると、袋は生き物のように熱気を吸い込み、ふわりと地面を離れる。
「それ以上は上げぬ!」
偉駆朱は地上で太い麻の係留索を握り締める職人たちへ、強い声で告げた。
「今日は十五丈までだ!」
「承知!」
鳥船は静かに、しかし確かな安定感をもって空へ昇っていく。
籠の中に立つ偉駆朱は、身を乗り出して澄み切った海の彼方を見渡した。手元には、この地で作らせた素朴な視線測定用の木枠がある。
「沖合遥か……白波が激しく立ち始めている!」
地上で見守る若い巫女が、手をかざして空を仰ぎ見た。
「何が見えますか、偉駆朱!」
「西の沖合に、低く黒い雲の群れ! 昼過ぎにはこの浜へ到達するぞ!」
その報告を聞いた壱与は、迷うことなく側に控える長たちへ命じた。
「直ちにすべての漁を止めよ。舟を浜の奥深くまで引き上げさせよ」
使者が村々へ疾風のごとく走る。
そして、その日の午後。
偉駆朱の言葉通り、空はにわかにかき曇り、激しい雷雨が海岸を叩きつけた。沖合は白い波飛沫が吹き荒れる地獄絵図と化したが、早めの警告のおかげで、海へ出た舟は一艘もなかった。浜の損害も皆無であった。
避難した村人たちは、感極まった声で口々に語り合った。
「女王様が、またしても天の気配を読み切られた!」
「これぞ、我が国を守る大いなる『鬼道』のお力だ!」
壱与は、人々の敬畏の声を否定も肯定もしなかった。
ただ、激しい雨が上がり、静かに降りてきた鳥船の傍らで、煤と灰で真っ黒に汚れた手を持つ一人の異国の建築家が静かに立っていた。
彼だけは、はっきりと知っていた。
天を読むのは、人智を超えた神秘や鬼道だけではない。
高い場所から世界を俯瞰し、風と雲の動きを冷静に観察する「知恵」と「技術」もまた、等しく人々を災いから救う確かな力なのだということを。
青く澄み渡り始めた邪馬台国の空の下、技術者・偉駆朱の第二の人生が、静かに、そして力強く始まっていた。




