天の怒りに触れる
洛陽・宮中。
東萊からの急使が、全身の震えを抑えきれぬ声で最後の報告を終えた。
「……以上にございます」
広大な大極殿に、重苦しい静寂が満ちる。誰も言葉を発することができない。
恵帝は玉座に深く座したまま、握りしめた手元の緊急書簡を凝視していた。その指先は白く強張り、かすかに震えている。
「偉駆朱は」
絞り出すような皇帝の問いに、急使は深く額を床に擦りつけた。
「……消息、不明にございます。北東の暴風に煽られ、海の彼方へと姿を消しました」
側近たちが一斉に目を伏せる。
恵帝は天を仰ぎ、ゆっくりと、長く重い息を吐き出した。
「そうか」
痛々しいほどの長い沈黙が落とされる。
「朕は……」
皇帝の声が、かつてないほど繊細に揺れた。
「朕は、あの者に何をさせたのだ」
誰も答えることができない。
偉駆朱は、陰謀によって牢獄の暗闇に繋がれていた男だった。その才能を見抜き、再び光の当たる場所へ呼び戻したのは他ならぬ自分だ。彼ならば、衰退と内乱の兆候を見せるこの晋を救う、新たなる「希望」を生み出してくれると信じた。
だが、その結果がこれだというのか。
「陛下」
一人の侍臣が、事態の重さに耐えかねたように恐る恐る口を開いた。
「これは……天の警告にございます」
恵帝はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、暗い感情が渦巻いている。
「何だと」
「人が天へ近づくなど、理に反する行為。許されることではございませぬ」
言葉を得たかのように、別の側近も重々しく打って出た。
「古より、天は己の分を越えた者へ容赦なく災いを下します。空を飛ぶなど、神仙の領域を不遜にも侵す行い……まさに天罰でございます!」
宮中に不穏なざわめきが広がっていく。
誰もが恐怖していたのだ。これは単なる試作兵器の事故ではない。皇帝が直々に赦免し、全権を与えて推し進めた国家計画の破綻なのだ。
恵帝は黙ってその喧噪を聞いていた。やがて、地を這うような低い声で吐き捨てる。
「……違う」
側近たちはハッと息をのみ、顔を上げた。
「偉駆朱は、朕の命に愚直に従っただけに過ぎぬ」
「陛下……」
「天を怒らせたというなら」
恵帝は膝の上の拳を固く握りしめた。爪が皮膚に食い込む。
「その怒りを一身に受けるべきは、それを命じたこの朕ではないか!」
一瞬、殿内が水を打ったように静まり返る。
しかし、その皇帝の悲痛な独白を、政治の現実に生きる重臣たちが受け止めるわけにはいかなかった。
「陛下」
老臣が静かに進み出で、深く深く頭を下げた。
「この件が民や諸侯に広まれば、国家の根幹を揺るがす大いなる不安となります」
「……」
「天下は未だ安らかではございませぬ。諸王は隙を窺い、外敵は国境を脅かしている。『皇帝が不敬にも天へ挑み、神の罰を受けた』などという噂が流れれば、政敵どもは必ずやこれを大義名分として利用いたしましょう」
恵帝には、その言葉の恐ろしいほどの正しさが分かっていた。
己の弱さが、己の権力の脆弱さが、一人の稀代の才人を闇に葬り去ろうとしているのだと。
永い、永い沈黙の後。
恵帝は力なく目を閉じ、静かに命じた。
「……計画は、本日をもって全面中止とする」
「陛下」
「二度と、人を空へ送るごとき試みを許さぬ」
側近たちの顔に、露骨な安堵の色彩が浮かぶ。しかし、次に紡がれた皇帝の言葉に、全員の表情が凍りついた。
「記録も、すべて消せ」
「……え?」
「設計図、試験の記録、用いた材料の記述、関わった者の名」
恵帝は固く目を閉じたまま、感情を殺した声で続けた。
「何一つとして残すな。灰にせよ」
「陛下、されどそれは……工人たちの血汗の結晶でございます!」
「失敗した兵器の記録など、我が国には不要だ」
一瞬の静寂。
皇帝は小さく、誰にも聞こえぬほどの掠れた声で呟いた。
「……違うな」
重臣たちの困惑をよそに、恵帝は胸の奥で自嘲の笑みを浮かべていた。
(朕が……己の無力と失敗を、歴史に刻むことに耐えられぬだけだ)
翌日。
西晋の正史および宮廷のあらゆる記録から、一つの壮大な計画が影も形も無く消し去られた。
天へ昇った無謀な建築家の名も。
青州の空を舞った巨大な絹の鳥の威容も。
ただ、名もなき民たちの間だけに、尾ひれ尾尾のついた奇妙な怪異譚として、風のようにささやかれ続けることとなる。
――「かつて、天へ近づきすぎた愚かな男がいた」
――「そして天は、決してそれを許さなかったのだ」と。
一方、偉駆朱は流されゆく孔明灯の中、緊張の極致へと居た。
「切れた……」
麻索が首を刎ねられた蛇のように空中で狂おしく踊り、やがて重い杭が遥か下の蒼漠たる海へと吸い込まれていく。
偉駆朱はとっさに身をすくめ、籠の床へと深く伏せた。
直後、目に見えぬ巨大な手が熱気球を掴んで投げ飛ばしたかのような衝撃が襲う。上空を貫く猛烈な北東の風――地上では決して知ることの出来なかった「天空の大河」に捕まったのだ。天の鳥は矢のような凄まじい速さで、何処とも知れぬ北東の彼方へ流され始めた。
下を見渡せば、どこまでも青い海。波頭の白い泡だけが無数に揺れている。
「まだ……高すぎる」
この高さから落ちれば、水面であれ即死だ。
生き延びるための鉄則は一つ。いまはこの「翼」を維持し、下へ落ちぬよう火を絶やさないこと。だが、地上からの補給索はもう存在しない。手に残された僅かな燃料だけが、己の生命線だった。
偉駆朱は必死に体勢を整えると、籠の底に残された最後の特製燃料束――松脂と石脂油を練り込んだ藁を、震える手で火皿へ投じた。
ごうっ
重厚な熱風が唸りを上げ、熱気球は荒れ狂う風のただ中でなお高度を保ち続ける。
「どこへ……どこへ流されている」
海面の眩しさに目を細めると、遥か下にうっすらとした陸の影が見えた。
「遼東……か?」
いや、違う。角度がおかしい。
「高句麗……の沿岸か」
それとも、地図にも載らぬ未知の島なのか。
問いに答える者はなく、ただ耳を裂く風龍の咆哮だけが返ってきた。
どれほどの時間が過ぎたろうか。一刻ほど経った頃、ついに特製燃料が底をついた。
偉駆朱は冷や汗を流しながら、火皿の直下に据えられた灰受け皿を見つめた。舞い落ちる灰を防ぐために取り付けた、青銅の皿だ。青銅は重い。そして、上空の風の中ではもう灰の地上に落ちる心配など無用だった。
「……許せ」
短刀の柄で留め金を叩き外す。重厚な青銅の皿は、夕刻の陽光を煌めかせながらくるくると回転し、遥か下の海へと落ちていった。重量を削ぎ落とされた孔明灯が、ふわりとわずかに浮き直す。
「……まだだ。まだ重い」
続いて工具箱を抱え上げた。
木を削り、竹を割り、骨組みを打ち立ててきた職人の魂。
鉋。鑿。槌。
十数年もの間、牢獄の中でも手放さず、己の半身として使い込んできた道具たち。
それらを一つ、また一つと躊躇いなく海へ投げ捨てる。水面へ小さな白い水波が立ち、消えた。
「道具など……また生き延びて作ればよい」
血が滲むほど唇を噛み締め、自分にそう言い聞かせた。
日が傾き始め、空が茜色に染まっていく。
上空の冷気は日没とともに厳しさを増し、火勢の衰えとともに絹袋が少しずつ萎み始めた。
「まずい……浮力が落ちている」
偉駆朱は視線を巡らせ、籠の外へだらりと垂れ下がっていた残存の麻索を引き寄せた。短刀で素早く短く切り刻むと、それを躊躇無く火皿へ押し込む。
焦げた麻が黒く重い煙を上げた。
臭い。目が焼け付くように痛む。
それでも、くすぶる熱がわずかに復活する。
「もう少しだ……どこでもいい、地面へ届いてくれ……」
しかし、上空の風は容赦なく体温を奪っていく。指先の感覚はすでに失われ、感覚のない手足でしがみつくのが精一杯だった。
偉駆朱は歯をガチガチと鳴らしながら、着ていた上衣を脱ぎ捨てた。
「生きて帰れば、また織れる……!」
丸めて火皿へ投じる。続いて外衣、帯、袴。
上質な布地が炎を吸い込み、一時的に勢いを増した。今や偉駆朱は、薄い肌着一枚の姿だった。刺すような冷気が容赦なく肌を削り、震えが止まらない。
「寒い……くそっ……」
夕陽が海を血のように赤く染め上げていく。
だが、見渡す限り陸地は見えない。
火皿の周りを必死に探す。もう何もない。
残っているのは――己の身体を乗せている、この「籠」そのものだった。
偉駆朱は動かなくなった。職人として自らの作品を破壊する葛藤に、一瞬だけ身を固くする。やがて、自嘲気味に苦く笑った。
「ここまで来て……出し惜しみができるか」
腰の短刀を引き抜いた。
自分の手で設計し、自分の指で編み上げた頑丈な藤の籠。その縁へ刃を叩きつける。
かつん
乾いた高い音が虚空に響く。
「すまぬ……!」
一本、また一本。籠の強度を保つための藤の骨組みを強引に叩き割り、火皿へとへ投げ込んでいく。
煤を吐き出しながらも、炎がみたび蘇る。だがその代償として、籠は不吉な悲鳴を上げ、足元がぐにゃりと沈み込んだ。
「あと少し……頼む、あと少し……!」
どれほどの距離を飛ばされたのか。どれほどの時間を漂ったのか。すでに感覚は麻痺していた。
その時だった。
「……松?」
赤く染まる海の向こう、薄暗い影のの中に黒い輪郭が浮かび上がった。
波打ち際の白い砂浜。
そして、その奥に延々と続く青々とした松林。
「陸だ……! 陸があるぞ!」
偉駆朱は手元に残っていた最後の藤材を、狂ったように火皿へ放り込んだ。
熱気球は最期の力を絞り出すようにわずかに浮き直す。
だが、それが限界だった。
火皿にはもう燃やすべきものが何一つ残っていない。炎が小さく、小さく萎んでいき、浮力が急速に失われていく。
「頼む……届いてくれ……!」
風に押し出された天の鳥は、夕焼けの浜辺へ向かって、滑り落ちるように静かに降下していった。
ばささっ!
激しい衝撃とともに、巨大な絹袋が浜辺に聳え立つ一本の老松の巨木へと引っ掛かった。
籠が大きく揺れ動く。
みしっ、ぎぎぎ……
半壊した骨組みが悲鳴を上げ、いまにも砕け散りそうになる。
だが――落ちなかった。
偉駆朱は壊れかけた籠にしがみついたまま、紫に腫れ上がった唇を震わせ、掠れた声で呟いた。
「……助かっ……た……」
その一言を最後に、張っていた糸がぷつりと切れた。
全身からすべての力が抜け落ち、彼の意識は深い深い暗闇へと沈み込んでいった。




