空に吹くは龍の風
砂浜からは、波音を吹き飛ばすほどの歓声が上がっていた。
「十八丈!」
「まだ安定しております! 傾きもございません!」
左右から伸びる二本の太い係留索は鋼のようにぴんと張り詰め、巨大な絹袋は穏やかな海風を優しく受け止めながら、静かに空へと佇んでいた。
補給係の工人が叫ぶ。
「燃料、上げます!」
後方の細い補給索へ、手際よく小さな編み籠が結び付けられた。中には乾燥した藁の束、固形化した松脂、そして極限まで熱量を上げるために少量の石脂油を染み込ませた燃料が整然と並べられている。
「引き上げろ! 手を止めるな!」
工人たちが息を合わせ、滑車を介した索を送り出していく。
上空、籠の中。
偉駆朱は手袋越しに縄の振動を感じ取り、慎重に補給籠を手繰り寄せた。
「よし……」
火皿を覗き込む。炭火は赤々と熾り、激しい煙を立てることなく均一な熱を放ち続けていた。そこへ、引き上げたばかりの新しい燃料を静かにくべる。
火皿から一瞬だけ赤橙色の炎が立ち上がり、すぐさま安定した重厚な熱気へと姿を変えた。
「火勢、良し」
膨らみきった絹の内部へ、さらに熱気が満ちていく。浮力を増した籠は、きしりと小さく鳴動しながら、さらにゆっくりと上昇を始めた。
眼下の海岸線はみるみるうちに縮んでいき、砂浜に並んでいた近衛兵も皇帝も、いまや豆粒ほどの黒い点に過ぎない。
「これほど高い所から見る海とは……」
潮騒の音すら遠のき、世界から音が消えていく。
湾曲する美しい浜の曲線。沖合へ白く伸びる砂州の影。海面を滑る小さな漁船が残す、糸のような航跡。果ては遠く霞む隣郡の街道や漁村までが、掌の上にあるかのように鮮明に見渡せた。
偉駆朱は思わず息を呑み、言葉を漏らした。
「まるで、神仙の描いた地図を眺めているようだ……」
己の手で築いてきたどの高楼からの景色とも違う。大地から完全に解き放たれた者だけが与えられる、絶対的な俯瞰の視界だった。
地上。
皇帝の傍らに控える側近の一人が、感嘆のあまり息を吐き出した。
「陛下……」
恵帝は眩しそうに目を細め、雲ひとつない青空を仰いだまま答えない。
「もはや城郭どころか、山の高さを越えようとしております」
「……ああ」
「この高さから見下ろせば、敵陣の配置どころか、いかなる伏兵や抜け道すら隠しようもございません」
別の武官が身を乗り出すように口を開く。
「城壁など意味をなしませぬな。敵城の裏手や兵糧庫の位置まで、一目瞭然でございます」
「いや」
重臣である年老いた文官が、静かに首を振った。
「戦のためだけではあるまい。あの高みならば……」
「氾濫しそうな河川の兆候も」
「都へと続く街道の混雑も」
「海を渡ってくる異国の船の影も……」
恵帝は静かに、しかしたしかな重みを持って呟いた。
「朕は今、ただの人が……鳥の目を得る歴史の瞬間を見ているのだ」
静まり返った砂浜で、その言葉に返答できる者は誰一人としていなかった。誰もが天を仰ぎ、ただただ偉業の成功を確信していた。
さらに上空。
すするすると滑車が鳴り、再び補給籠が上がってくる。
偉駆朱は索を引き寄せながら、ふっと手を止め、小さく眉をひそめた。
「……」
冷たい。
先ほどまで頬を撫でていた風とは、明らかに性質が異なっていた。刃物のように鋭く、乾いた冷気が皮膚を刺す。
「これほど日が照りつけているというのに……」
思わず腕をさすった。吐く息が心なしか白くなり、指先も少しずつかじかみ始めている。
「高い場所というのは……これほどまでに寒いものなのか」
地上で図面を描いていた時には、思い至りもしなかった事実だった。地上は晩秋とはいえ、日差しが暖かく春のような気候だったのだ。しかし、ここでは薄い空気が容赦なく肌から体温を奪っていく。
偉駆朱は襟元をかき合わせ、身をすくめた。
「帰ったら、手記に書き残しておかねばな」
――『空は、地より遥かに寒し』――
城や宮殿を築く建築家としても、この世の誰も知らぬ至高の知見だった。
呼吸を整え、再び補給籠を引き上げる。その時、ピンと張っていたはずの索が、ぬうっと横へ大きく撓んだ。
「……風か?」
偉駆朱は籠の外へ身を乗り出し、下を見やった。
遙か遠くの砂浜に立つ皇帝の旗じるしや軍旗は、垂直に垂れ下がったままほとんど動いていない。地上は無風に近い状態のはずだった。
「妙だな……」
地上は静寂に包まれているというのに、この上空では、補給籠がゆっくりと海側へと引っ張られている。目に見えぬ巨大な手が、空中でのみ蠢いているかのようだった。
偉駆朱はその胸を突くような違和感をそっと押し殺し、新たな燃料を火皿へと加えた。
熱気を孕んだ巨大な鳥は、何も知らぬ地上からの熱い視線を浴びながら、なおも深く、青い太陽の至高へと近づいていった。
偉駆朱は手袋越しに補給索をたぐっていた。
「もう一籠頼む!」
叫び声を上げながら下を見下ろすと、砂粒のように小さな工人たちが手を振っているのが見えた。だが、その光景にどこか違和感を覚える。
左右の係留索が、先ほどまで真っ直ぐ地面へと伸びていたはずなのに、今はぐにゃりと海側へ大きく傾いていた。
「……?」
偉駆朱は顔を上げた。頭上の巨大な絹袋は静かに膨らみ続けている。足元の火皿も、理想的な熱気を吐き出し続けている。どこにも異常はない。
――なのに。
上空へ手繰り寄せるはずの補給籠が、真下ではなく、斜め後ろの海へ向かってだらりと流れていた。
「風向きが……地上と違うのか?」
地上の旗じるしは、相変わらず無風に近い状態で力なく垂れ下がっている。
「なぜだ……地表と上空で、風が交差しているというのか……?」
その疑問が脳裏をよぎった、次の瞬間だった。
ごうっ!
今まで耳にしたこともないような、刃物のように鋭い暴風が、絹袋の側面を容赦なく叩きつけた。
「うおっ!」
籠が悲鳴を上げて大きく傾き、偉駆朱は慌てて縁にしがみついた。足元の炭火が跳ね、火の粉が舞う。
地上へ繋がる左右の太い係留索が、一瞬で弓のようにピンと張り詰めた。
ぎり、ぎりぎりぎり……!
子供の腕ほどもある麻索が引きちぎられんばかりに軋む重苦しい音が、何もない大空に虚しく響き渡る。
地上。
「索を押さえろ! 杭を持て!」
棟梁の叫び声とともに、何十人もの工人たちが一斉に麻索へ飛びついた。
だが、地上の人間の力など、上空の巨大な風圧の前には無力だった。巨大な絹袋は、まるで目に見えぬ嵐の巨人に引きずり倒されるように、ぐいぐいと沖合へ向かって引っ張られていく。
武官が青ざめた顔で叫んだ。
「だめです、杭が抜けます!」
「もっと人を集めろ! 近衛も縄を持て!」
混乱の中、恵帝も思わず数歩前へ踏み出していた。風に衣をなびかせ、はるか上空の籠を見上げる。
「偉駆朱……!」
地上にも、上空からの煽り風が吹き降りてきた。一陣の強風が砂浜の砂を爆風のように巻き上げる。
深々と打ち込まれていた巨大な係留杭が、ぎしり、と不吉な音を立てて傾いた。
「耐えろ! 踏ん張れ!」
次の瞬間。
バキンッ!
破断音が轟き、一本目の太い杭が根元からへし折れて弾け飛んだ。
「うわあぁっ!」
「まだ一本ある! 引け、引くんだ!」
だが、二本で分散していた狂暴な荷重のすべてが、残る一本の索へと一気に集中する。
ピンと突っ張った麻索の表面から、細かな繊維がパチパチと音を立てて弾け、一本、また一本と引きちぎられていく。
「駄目だ、持たん!」
工人が絶望の悲鳴を上げた。
恵帝は空へ向け、思わず手を伸ばした。
「離れるな! 戻ってこい、偉駆朱!」
空中。
ドスンと、おぞましい衝撃が全身を貫いた。
「何だ!?」
偉駆朱が籠の外へ身を乗り出して下を見る。
一本の係留索が、首を跳ね飛ばされた蛇のように、空中で虚しくのたうち回っていた。
「切れた……!?」
それを理解した、まさにその瞬間。
最後の希望だったもう一本の索が、限界を迎えた。
ぶつんっ!
乾いた途絶の音が響き、張り詰めていたすべての張力が一気に解放された。
繋ぎとめられていた鎖をちぎられた巨大な袋は、前方へ大きく跳ね上がった。偉駆朱は足元をすくわれ、籠の床へ激しく叩きつけられる。
「しまっ……!」
体勢を立て直す間もない。
地上との繋がりを断たれた熱気球は、目に見えぬ巨大な大河の奔流に呑み込まれたかのように、一瞬で向きを変えた。
海。
いや、海のさらに向こう――北東の果てへ。
つい先ほどまで、誇らしげに静かに空へと昇っていた天の籠は、突如として激流に落ちた木の葉のように、凄まじい速度で吹き流され始めた。
偉駆朱はがたがたと震える手で籠の縁をがっしりと掴み、かろうじて上体を起こす。
「このような風など……誰も……知るはずがない……」
地上には存在しない、天の上だけに吹き荒れる目に見えぬ大風。
その瞬間、偉駆朱は冷徹なまでの絶望とともに悟った。
これはもう、「飛行」などという生ぬるいものではない。
己はただ、天の気まぐれに身を投げ出され、世界の果てへと運ばれているだけなのだと。




