繋がれし天の眼
数か月後。
未だ籠へ人は乗らない。
代わりに、重さの異なる砂袋が一つ、二つと積まれていた。
「先生、どなたかを乗せないので?」
「人の命より砂の方が安い」
工人たちが思わず苦笑する。冷徹に見えて、それは偉駆朱なりの職人としての責任感だった。
火が入り、巨大な絹袋は生き物のようにゆっくりと膨らんだ。砂袋を載せた籠が、きしりと音を立てて地面を離れる。
半尺。
一尺。
二尺。
作業場に歓声が上がった。係留索を固く握りしめた工人が叫ぶ。
「浮いた! 浮きましたぞ、先生!」
だが、偉駆朱の顔に笑みはない。
「まだだ」
「先生?」
「砂袋は文句を言わぬ」
彼は腕を組み、静かに青空を見上げた。
「人は恐怖で暴れ、身をよじる。風に揺れれば叫び、火の熱さに怯える。人は……砂袋とは違うのだ」
さらに数ヶ月が過ぎ、初夏の爽やかな気配が漂う試験場。
朝日を浴びてそびえ立つ巨大な絹袋は、まるで神話の巨獣のように白く輝いていた。偉駆朱は職人たちの作業を鋭い目で見守り、隙間なく綺麗に縫われた固い縫い目を、一つひとつ手でなぞって確かめる。
「明礬液は十分に染み込ませたな」
「はい。指示通り三度浸し、三度乾かしました。これなら火の粉が触れても燃え広がることはございません」
工人が誇らしげに答える。偉駆朱は火皿の縁を指で軽く叩いた。
「焦げ跡は」
「ございません。前回の実験でも、布地はビクともいたしませんでした」
続いて、籠と地面を繋ぐ麻索を強く握り直す。左右二本。子供の腕ほどもある太さに撚り合わされた、質実剛健な縄だ。
「一本切れても、もう一本で支えられます」
「よいな」
さらに籠の後方には、滑車に繋がれた細い索がもう一本伸びていた。その先には小さな竹籠が結ばれている。
「補給籠です」
「地上から燃料を送ります。これならば、乗組員が燃えやすい燃料を大量に抱え込まずに済みます」
偉駆朱は深く頷いた。
「火を絶やさぬことが肝要だ。空中で火が消えれば、たちどころに地に叩きつけられよう」
「承知」
火皿へ上質な木炭が置かれた。やがて炭火が赤々と熾る。その上へ、乾燥した藁と松脂を絶妙な割合で混ぜ合わせた束が静かに載せられた。激しい炎が勢いよく立ち上がることはなく、安定した圧倒的な熱気だけが、絹袋の奥深くへと送り込まれていく。
工人が弾んだ声を上げた。
「膨らみます!」
巨大な絹袋は、ゆっくりと、しかし力強く起き上がった。籠が地を離れ、ふわりと浮かび上がる。
「係留索、緩めよ!」
左右の索が、ギシギシと音を立てながら少しずつ送り出されていく。
一丈。
二丈。
三丈。
地上で見上げる工人たちが息を呑んだ。
「城壁ほどの高さ……本当に人が、空に浮いている……」
籠の中に立つ偉駆朱は、髪を撫でる風を感じながら、静かに下を見下ろした。眼下には、見慣れたはずの試験場の全貌と、遠く霞む洛陽の街並みが広がっている。
「……洛陽は、こう見えるのか」
地上でひしめく人間たちの権力争いが、まるで蟻の営みのように小さく思えた。その時だった。
「先生!」
後方の補給索が滑車を鳴らして揺れた。地上から小さな補給籠がすするすると引き上げられてくる。
「燃料です!」
偉駆朱は落ち着いた手つきで燃料束を受け取ると、足元の炭火へ静かに加えた。火勢は乱れることなく安定したまま、絹袋はさらにゆっくりと高度を上げていく。
地上から地鳴りのような歓声が上がった。
「成功だ! 偉駆朱先生、大成功だ!」
しかし、偉駆朱は静かに首を横に振った。
「いや」
彼はさらに高い空、雲が流れる天の先を見つめた。
「まだだ。……もっと遠くを、世界の果てまでも見通せねば、兵器とも治世の道具とも呼べぬ」
初夏の風は、まだ静かに彼を包み込んでいた。
青州・東萊郡。
晩秋の空は、吸い込まれそうなほど雲ひとつない蒼穹だった。
沖には白い波頭が立ち、海から陸へと心地よい穏やかな潮風が吹き抜けている。
砂浜には、何十人もの工人に支えられた巨大な絹袋が、まるで眠る巨龍のように横たわっていた。その周りを近衛兵が重々しく取り囲み、陣幕の中央には、天子・恵帝の姿があった。
偉駆朱は杖を置き、冷たい砂の上に膝をついて拝礼した。
「陛下。本日は遠路お越しいただき、恐悦至極にございます」
恵帝は静かに海を見つめていた。波の音を背景に、ふと問いかける。
「海辺を選んだ理由を聞こう。洛陽の平野でもよかったはずだ」
「はい」
偉駆朱は砂浜へ視線を落とし、職人としての率直な懸念を口にした。
「これほど大きな孔明灯は、前例がございません。何が起こるか、誰にも分からぬのです」
「……」
「万一、索が切れましても、密集した城郭や民家へ落ちるより、海や浜へ流れた方が助かる見込みがございます。そして何より、地上に燃え残った炭火や藁が落ちようとも、民の家屋を焼き尽くす恐れがございません」
皇帝は静かに頷いた。その瞳には、かつて洛陽の宮殿で見せた深い疲労ではなく、一人の人間としての温もりが宿っていた。
「そなたらしいな」
偉駆朱は自嘲気味に苦笑した。
「建物も兵器も、元は人を生かすために作るものにございます」
やがて、額に汗を浮かべた工人が駆け寄ってきた。
「先生、準備が整いました!」
火皿へ赤々と熾った炭火が置かれる。そこへ、乾燥した藁と松脂を揉み込んだ燃料が静かにくべられた。激しく燃えさかる赤い炎ではない。立ち上る陽炎のような圧倒的な熱気だけが、ゆっくりと巨大な絹袋を満たしてゆく。
くう、と絹が鳴り、巨大な袋が砂を払って起き上がった。見守る兵士や工人たちから、一斉にどよめきが上がる。
「係留索、張れ!」
左右二本の太い麻索がピンと張り詰め、補給索も滑車へ慎重に通された。偉駆朱は深呼吸をし、籠の縁へ足を掛けた。
その瞬間。
「待て」
制止したのは、皇帝の声だった。一瞬で周囲の雑音が消え去り、静寂が訪れる。
「……本当に、自ら乗るのか」
偉駆朱はゆっくりと振り返り、皇帝の直視を受け止めた。
「はい」
「他の工人に任せてもよいのだぞ。そなたは指示を出すだけでいい」
「初めて作った橋は、自ら渡りました」
恵帝は黙って偉駆朱の言葉に耳を傾ける。
「初めて築いた楼も、自ら登りました」
偉駆朱は使い込まれた籠の縁に優しく手を通した。
「己が信用できぬものに、他人の命を乗せることはできませぬ。まして、この空へは」
恵帝は自嘲するように小さく笑った。
「朕なら……とても乗れぬな」
「それが普通の感覚でございます」
「どこまで昇る」
「まずは城壁を越えます」
偉駆朱は地上と繋がる太い係留索を見やった。
「更には地上二十五丈ほど。八十歩……いや、それ以上でしょうか。そこまで昇れば、この東萊郡一帯の地形と、海の彼方までが一目で見渡せるはずです」
「それ以上は昇らぬのか」
偉駆朱は穏やかに首を振った。
「今日の目的ではございません。人が、無事に生きて地に足を戻すこと。それが本日の勝利にございます」
恵帝は力強く、深く頷いた。
「戻ってこい、偉駆朱」
偉駆朱は深く、最後になるかもしれない礼をした。
「必ず」
その言葉を合図に、工人たちが一斉に係留索を送り始めた。
ギシギシと麻索が擦れ合う音とともに、巨大な天の鳥は、ゆっくりと砂浜を離れた。潮の香りを残したまま、澄み切った青い空へと吸い込まれるように昇っていく。
地上に残された誰もが、その雄大で美しい姿に見とれていた。
だから、誰も気づかなかった。
海のはるか沖合、遥か上空では、薄い白雲がすさまじい速度で筋を引いていた。地上を包む穏やかな風とはまるで異なる、凶暴な「上空の風」が、静かに天の鳥を待ち構えていることに。




