第三千二話
男の影はひとつではなかった。
同じ男の影が改札のあった位置や鉄柵、あるいは駅員が待機するであろう屋内を含めて、あちこちにいた。
目につくのは手を合わせる姿。方々で目を伏せて合掌している。
犠牲にされた人々を傷つけて苦しめた人の所業のようには見えない。いや、これだけではなにも判断ができないけれど。それにしてもだ。
合掌する姿ばかりだから、その中に混じって木材を手にする姿が目立つ。ちょうど手のひらに収まるくらいの細長い木材は、仏像や墓石を彫るためのものだろうか。彫刻刀はない。代わりに彼は鉛筆を持っている。木材になにかを記しているのだ。完成予想図か。死者の名前か。それとも、別のなにかか。
木材を手にした男は、足下にビニール袋を置いている。近づいて覗いてみると、ホームセンターの店名が印字されたビニール袋で、たくさんの木材が入れられていた。
霊子たちにお願いして見せてもらえた光景、最初がこれ。
下手人を真っ先に見れるかと思いきや、ちがった。
被害や犠牲に遭った人たちが最初に思い浮かべたのが、彼なのか。
『世話人か?』
『下々の者にやらせて済むのであれば必然よな』
十兵衛はまだオブラートに包んでいたよ?
タマちゃん! あんまり直球すぎるよ!
死者を弔い、彼なりに記録を残そうとしているように見える。男はいまのところ、まだ、ここで人々や死者を相手に研究する者たちの仲間には見えない。無関係とも思えないが。
ああ、でも考え直せ。
製造開発者たちが組織だって動いているとして、いちいち、この通路を通るのか?
通らない。
そもそもここに来るかどうかも怪しい。
別に彼らに限った話じゃない。
製造部門を抱える企業ばかりじゃないんだ。そもそもが。子会社化して抱える企業もあれば、販売管理はするが製造まわりはすべて下請けや外注任せなんて企業もある。やまほどある。有名な企業さえそういうところは多い。
製造にしたって、部品ひとつひとつの加工をやるか。その材料の調達をどうするか。まるごと全部管理しているというわけじゃない。
工業製品なら組み立てが必須。服飾にしたって縫製が必須。
日本国内だと労働基準法をはじめとする様々な縛りがあって、効率化や合理化は頭打ち。なら? 法律がちがう海外に拠点を移せばいい。それだって、販売元大手企業がいちいち世話するのか。しない。
仮に本社から実質クビげふんげふん、現地の統括管理を委ねられて島流しげふんげふん、期限がいつまでかまったくわからない出張をして、その国の法律に則って働きまくらなきゃならなくなることも。日本よりも労働者を守る法律のある国で、それを管理・監視する機関が誠実に働いていて、企業はしゃあねえ遵守するかという状態になっていたらいいけどね。そんなことは、まあ、なかなかないわけで。過労死するか、そうなる前に疾患などで動けなくなり一生その疾患とお付き合いするほど傷つけられるかになる、と。
小学校の段階で、授業についていけていない子のフォローアップが貧弱ひんじゃくぅなクラスが全国的に多数あるように、基本的には、それが、社会人になっても続く。
学校ではグループに分かれる。そのなかでの扱いは種々様々。それこそ、学校やクラス、担任、クラスメイトとの関係性、その均衡が複雑で、実態は種々様々なように。
幸運にも自分にとって居心地がいい場所、関係性に巡り会える人もいれば、そうじゃない人もたくさんいる。そして、そのたくさんの恵まれなかった人たちがぼちぼちやっていけるよう余力のある企業やグループもあれば、そんなのにいちいち手間も時間もお金も割きたくないし、だれも関わりたくない企業やグループももちろんある。
そのどれに自分たちが行き着くか。
就活段階では、わからない。
そんな理不尽で混沌としていてむちゃくちゃで雑然としているのが当たり前の世の中で、いちいち、自分の管理監督範囲から外れたところを見に来るか。来ない。
私たちは目を背け、また、目を背けられる体験を繰り返して学習しながら育つ。
幸運にも、フォローアップが充実してたり、気持ちを許せて一緒にやっていける人と出会えて縁が続いたら、それはもう、とてつもない幸運だ。少なくとも、当たり前じゃない。残念ながら。
現代社会は明確に階層が作られ、隔てられている。
気にしない人にとってはない階級が、気にする人にとっては明確に存在する。
私たちは隔たっている。そもそも人と人とは溶け合うことなく、分かたれているのだから、当然と言えば当然だ。そういう状態の話ではなくて、隔たりがあることを認識したまま、放っておくという選択と行動の話をしている。
だから現場を知らない、なのに成果物を販売することで儲けを得る企業は一定数存在する。当たり前にたくさんある。
分業する、という意味合いもあるが、それだけですべてが説明しきれるほど、雑な話じゃない。
不均衡で歪な仕組みや制度がごまんとある。けれど、それとて軽々に批判して終わりにしていい話でもない。
私たちは小中と学校で学んで薄々感じる理不尽が、本当は社会全体に蔓延していて、ことによっては学校のそれよりもよほど醜怪で、冷徹かつ冷酷で、残虐で、虐待と放棄が調和を保っているという、地獄のような現実に繋がっていることを、いやいやながらに実感していく。
悪いことばかりじゃないけど。でも、その悪いことには、ただ悪いだけじゃなく、悪意や無関心、差別や偏見、階級意識だの優生思想だの、実にろくでもないものの捨て場所、あるいは下流として流れ込んできたにすぎないことを、そこはかとなく理解していく。
残念ながら、どうやら、この場においてさえ、そうした実態の一部に過ぎないようだった。
人が壊れるなどと表現する人がいる。
ちがう。
差別や無関心にさらされたり、過剰な負荷や激務に置かれたり、孤立無援にさらされたり、ありとあらゆる手で”深刻に傷つけられ、疾患にかかるまで虐待されたり、放棄されたりした”のだ。
ものではない。生命であり、尊厳が踏みにじられた。
それらの過酷な体験は記録され、私たちは生き物として、とても健康でいられなくなった。そこまで徹底して虐待されたのだ。
壊れたのではない。
この場所にいたっては、まさに、拷問を受けて殺された人が大勢いる。
壊れたものがあるのではない。
人がいる。死者がいる。具体化したら、きっと、正気でいられなくなるであろう目に遭った人が大勢いる。
そんな人たちを相手に手を合わせているように見えるかぎり、違和感が拭えない。
「あれはいったい、どういう、あれ?」
「見て考えるしかないって」
キラリが男を指さすが、私にもわからない。みんな、わからない。
マドカがやんわりと思案と調査を促す。
そしてみんなで分かれて調べ始める。その間も、私は腕を組んでいた。
お母さんがかつて、仕事から帰ってきてもなお、ずっと怒っていたことがあった。珍しいことだ。愚痴やうんざりを持ち帰ることはあっても、憤怒や憎悪を持ち帰ることはなかった。少なくとも私やトウヤの前で露骨に見せることはね。
だから、いまでもよく覚えている。
「ねえ、お父さん。お母さん怒りの焼き肉ウィークを覚えてる?」
「え? ああ、毎晩焼き肉だったときかい? あったねえ! いちいち銀座のデパートでスイーツを買ってきて、お肉もいいものだらけで、すさまじい出費だったから覚えてるよ」
トウヤは覚えているかぎりぎりの年齢だ。
お姉ちゃんはまだ地獄で暮らしている最中だから、知らないとして。
「あのとき、お母さんがなにに怒ってるか聞いた?」
「ああ。仕事で、まあ、いやなことがあったんだ。それが?」
「あとになって私も教えてもらったんだけどさ」
お仕事で作品製作をしている。大ヒットとまではいかなくても、中堅くらいの立ち位置。とはいえ下から数えたほうがよっぽど早いとはお母さんの弁。
漫画にせよ小説にせよ、専業でやっていけるのはほんとのほんとに一握り。文芸にいたってさえ、兼業の人がほとんど。それくらい、大半の人が「儲からない」。
だからかな。お母さんは契約周りに敏感で、お金周りにも警戒する。その経験に私はずいぶん助けてもらっている。
お母さんの稼ぎは隔離世業界の依頼をこなすほうがよっぽど大きいようだ。いま暮らしているおうちだって、依頼の報酬で得たのだし、怒りの焼き肉ウィークもそうだけど、私たちの養育費、ふたりの大学の費用をはじめ、もろもろまかなえて貯金ができているのは、すべて、依頼ありき。
それくらい、お母さんの作品の売り上げはスズメの涙。本人いわく。
その世知辛さは私もいま、自分の仕事で実感しているのだけど、さておき。
そういうお仕事だけに、まああ、舐められること、侮られること、バカにされることや、マウントを取られることが多い。
お仕事で会う人みんながそうじゃない。
それに、同業者なり同業他社なりがみんなまともか、自分もちゃんとしているかっていうと、また別の話になる。
とはいえ、だ。
なんだこいつって人はまあまあいる。
運が悪いと「なんだこいつ」「しばくぞこいつ」「訴えるぞこいつ」「あかんこいつ」という出会いが続いて、仕事がいやになって消えていく、なんてこともざらにある。
それくらいには、まあまあいるのが実情だ。
たぶん、逆もまたしかりなのだろうけどね。
女性というだけで、大御所なのに飲食店で頭から酒をかぶせられる人がいたり。原稿を抱えすぎてとにかく逃げに逃げて逃げまくる人がいたり。「おまえら俺たちの仕事で食わせてやっているんだから」と酒の席で会社側から言われたり。
はちゃめちゃな面がある。
いまの仕事と重なる面もあって顔が引きつっちゃう。私は高城さんや事務所がフォローしてくれているから、距離を置けたり、身を守れている。でも、逆にいえば、高城さんや事務所が気にしない立場だったら? どれだけ”食らわせられる”か、わかったものではない。
お母さんは、食らわせられたのだ。
もの扱い。そんなの、いくらでも横行している。私たちさえ、そう見なす。残念ながら。
でも、だからこそ気をつけてやめようとしたり、大事にしようとしたりもする。無意識に大事にしてることもあるし。
かといって、じゃあ、もの扱いをされたり、あげく「使えない」だのなんだの好き放題いわれたり、すべての責任を押しつけられたり、正当化・責任転嫁・免罪の理不尽な弁をぶつけられることからは?
残念。
逃げられない。
生きるかぎりは。
つまり、お母さんはとうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。
程度の差、具体的行動の違いこそあれ、実は地続きだ。分かたれていない。境界線があり、ちがうんだとしたほうが、よっぽど私たちは安心できるのかもしれないけど、事実は揺らがない。地続きだ。
いくらでも私たちはもの扱いできるし、その酷薄さや残酷さが免れているのは、たまたま直接的に出会っていないだけだったり、白状していないだけだったりする。それだって、裾野を広げれば「放置する」「ほったらかす」ことで、いまなおもの扱いに加担していたり、もの扱いしつづけている、なんてことがごまんとある。
基本的に、根本的に、絵本や物語が示すほどには、私たち人間も、人間が構成する社会も文化も、そこまで倫理的じゃないし、まともじゃないし、ろくでもなければ、理不尽まみれでもある。
それだけじゃない。もちろん、それだけじゃないんだけど。
まともであろうとか、がんばろうとか、尊重と配慮をとか、実害を防ぐためにも人に優しくあろうとか、具体的に選択・行動している人だって、いるのだけど。
悲しいかな。そうした理念で他者を踏みにじることができるのもまた、私たちだ。
たいへんなんだよね。
生きるのは。
だから怒りが爆発することだって、ある。
理不尽にとうとう”心身が疾患に陥る”ほど、ストレスやダメージがごまかせなくなることさえ、ある。
それくらい、人を傷つけ、怒らせ、憎ませるようなことをする。なんてなことをなくせない。なくならない。いつかは出会う。そういう機会に。避けられたらいいけど、祈って地球から雨をなくすか、海の塩分を願うだけでなくすくらい、不可能なことだ。
底が抜けたら?
いくらでも残酷な振る舞いに発展する。
一万人を集めたとき、全員がそうなるなんて思わない。そこまで悲観はしない。だけど、何割か、何パーセントかは、選び行うだろう。それくらいは予測する。そして、全体の一部であれ、そういう選択と行動に移る人がいるだけで、致命的なことになる。いくらでも。
彼らだけに閉じない。少数の行動は多数に影響を及ぼす。
学校でいじめと称される、様々な暴行や窃盗、恐喝などの犯罪行為が見て見ぬ振りをされるように。
戦争を国民はむしろ歓迎してみせたように。たとえプロパガンダなどの影響があったとして、なおだ。個別に調べず、学ばず、リテラシーを高めて事実を探求すれば見抜ける程度の虚偽や欺瞞さえ、面倒さを嫌い、コスパやタイパを優先するだけで、”乗っかったほうがマシ”になる。現代に始まったことじゃない。近代だけの話でもないだろう。
そんなもんだ。
自分事でありつづけるけど、そんなことにさえ耐えられないのが私たちだ。
自分はちがうなどと思いたいときほど、私たちは過信を捨てられずにいる。それじゃ足りないんだ。
足りないまみれだけど、簡単に足せることじゃないんだ。
だから、残酷な振る舞いは起きる。防げないばかりか、対処できないことさえある。いくらでも。
そんな社会に生きている。古代から、現代まで、ずっと、ずっと。
具体例を見たらマシになってきているとして、それはいま、理不尽に傷ついたり、傷つけられてきた人の慰めになんて、なりはしない。それが事実であっても。
高熱を出したときに必要なのは統計の数字じゃない。看病であり、治療ではないか。
困窮しているときに必要なものだって同じだ。
いったいどこまで、自分に見えているのか。
事実のなにを、どこまで、いまの自分は真に受けられるのか。
いまの自分が合致するかどうか、なんて問いは立ててない。そこは問題じゃない。
どんな立場の、だれなら、あり得るのか。
お母さんの場合は、担当している編集者さんとのすれ違いからはじまり、その先で会ったいろんな人たちがやばかったそう。要職にいるなら大丈夫、なんてことは残念ながらない。まるでない。とどのつまり、その人がどうか次第だ。逆もまたしかり。
私も仕事でだれかにとって、すげえやべえやつである可能性が常に付きまとう。
人と関わるって、それだけ怖いことだ。
だけど、人と関わることでしか得られないことが膨大にあって、そのために私たちは関わりを手放せない。現代社会に生きる以上はまず、直接かかわらずとも他者の営みに依存しないと生きていけない。
そういう意味でも、もの扱いなんてしてる場合じゃない。
バカにしている場合でもないのだ。
ないのだが、まあ、いなくならないよね! いなくなるはずもないよね。残念だけど。
そうなるだけの依存資源・支援がある。要素がある。膨大にありすぎる。それらをどうにかできるほど、簡単で単純な社会じゃない。
なので、個別に地道にこつこつやってくしかないし、そのこつこつがぎりぎり今日を保っているし、それって完璧でも万能でもない。手が届かない、あえて届けないことさえある。
フィクションのヒーローほどには振り切れない。私たちは。
振り切ったら振り切ったで、今度は振り切らない、振り切れない人を叩きかねない。一万人がいたら、百人くらいはいるかもしれない。そんなとき、その百人によって千人以上が傷つけられるかもしれないとして、じゃあみんなで百人のせいにすれば解決?
するわけないじゃん。ね。
そこでついつい「だれが割を食えばいいのか」調整を正当化・責任転嫁・免罪しはじめると、あとは地獄。かといって、現実にいままさに「だれかがより割を食う」状態であることは間違いない。実際問題、そこで私たちは不感症になりたがるし、真に受けていたらどうにかなってしまうくらいには世界は理不尽で不公平で不平等でめちゃくちゃで、加害もてんこ盛りだ。それをご飯に転化して、世界中の大食いする人たちを集めても、まあ完食は不可能だろうっていうくらいにはてんこ盛り。
家、学校、仕事の理不尽ひとつで私たちは調子を崩す。
心身に具体的な負荷がかかり、やがては疾患に至る。
ここにいる人たちが浴びせられた具体的な暴力は、より深刻で、より長期的なものだ。
だとしたら?
私が敵なら、絶対に、直視しないと思う。
そばにさえ、来ないと思う。
私やみんなが言葉にしないように。言及しないように。目を向けないように。
敵はいちいち足を運ばないと思う。
見ない。聞かない。触れない。
言葉にさえしない。
そのことを正当化して、責任転嫁して、免罪して、素知らぬふりをしていると思う。
つまるところ、ここに敵の事実も、答えに繋がる可能性のある事実もないのだ。
あるのは敵が利用したもの、利用されたものだけ。
現場に足を運ぶ責任者がするような所業だったら、それはそれで恐ろしい。
けど、私はちがうと思う。
直視するには度が外れてる。
そんな精神性を持った人物が主犯格として事態を牽引しているようなら、ここまでだんまりでいるとは思えない。私には。
『すべてが憶測だ』
だからこそね、十兵衛。
私はこの先入観をもって調べてみようと思う。この穴に秘されたものがなにか、霊子に尋ねていこうと思う。もっとも、それじゃあ黒幕はほったらかしになっちゃうじゃない?
それはさすがに許せない。
推測をしかるべき仲間に委ねて、調査を依頼するとしよう。
すべてを抱え込まない。
私は私のできることをする。頼るべきを頼り。支援と資源に依存し、支えられ、支えながら。
調査を完遂する。
『少しは覇気が戻ってきたようじゃな』
まだ燃料不足だけど、そこは怒りで前借りする形で補っていくよ。
そんでもって、今日の終わりはおなかいっぱい、お肉を食べてやるんだ。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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