第三千一話
みんなに情報共有をする間に朝倉先輩から妙な依頼を受ける。
海綿たちを相手に、改めて死者を記録し直してみろというのだ。死者の書の名前を頼りに形にしたのが海綿なら、両者は等分でなければならないのでは? そう思うけどな。
ただ確かめておいて損はないと言われると、特に抗う理由もなし。算数でさえ確認はするもの。
形になった海綿たちに金色を浸透させたのち、海綿たちを出した死者の書五冊に金色を注ぐと、どうだ。新たな死者の書が出てきて、続きが記載され始めた。
等分じゃない。記帳する速度を増していく。どんどん冊数が増えていく。
「ど、どうして?」
「海綿っていうのは多細胞生物だ。単細胞じゃない。多数の細胞が集まってできている。形状、色は様々だが、器官の分化はないというところまでは話したな?」
「は、はい」
「実際、数多の細胞が集まっている生物だ。細切れにしても時間を置けば再び集結していく。もちろん、適切な環境下でなければ死んでしまうが」
酸素不足、水の状態が悪いなどがあると、集結する途中で死んでしまう。
「ハープのような形をした海綿もあれば、鳥かごめいた海綿も。色も相模湾の砂浜のような鉄分由来の濃くて深い色に近いものから、鮮やかな青や紫、黄色まで、実に様々だ。それらをひとつの水槽のなかで、ばらばらにして再集結したら、どんな海綿になるのか実験するのも楽しいぞ?」
色別に分かれるのか。
元の形状に戻っていくのか。
混ざり合うのか。
新たな形状になるのか。
その法則性はあるのだろうか。あるのなら、どんなものか。
「だが問いの趣旨はもちろんそこではない。単純に、細胞の数だよ」
「細胞の、数?」
「足りないんだ。五冊に埋まる程度の人数じゃ、海綿ひとつまともに構成できるはずがない」
先輩の言うとおり、みるみるうちに冊数が増えていく。
「細胞ひとつが人ひとりでなければならない理由はない。実際、欠片とはいえ海綿の一部を構成した人もいたわけだろう?」
名前が記録できている人のことだ。
彼らはひとりでわずかな欠片になった。あの欠片が細胞いくつでできているか、ぱっと見てわかるほどの知識が私にはない。ただ、どんなに少なく見積もっても、本一冊じゃあ足りないくらいの予想はつく。
でも先輩の言うとおり、細胞ひとつが人ひとりなんていう、それもまた妙な話だ。
人だって多細胞生物なんだから。
「人って、どれくらいの細胞でできてるんですかね」
「いくつか説がある。体重七十キロほどの成人男性ひとりあたり、ざっくり三十兆越えと見なす向きがあるな」
「ちょ、兆!?」
「ああ。三十七兆だったか。何年か前に発表された。いまも研究が進んでいるだろうから、今後はより具体的な数が出るだろう。たとえば臓器や細胞ごとに、より細かな数値が」
兆。万、億、兆の、兆。
「脳においては、その細胞数が千数百億と言われる」
「お、おおぅ」
「細胞の密集具合にちがいこそあれ、海綿だって、細胞の数でいえば負けちゃあいない。もちろん形状とサイズにもよるがね」
海綿、具体的には海綿動物門は大まかに四種類。六放、石灰、普通、硬質のもの。
そのほか、骨針と呼ばれる骨格にて、まず二種類に分かれる。石灰か、非石灰か。そのうえ、さらに骨針の分類が四種類に分かれる。
おまけに海綿は小さなものから大きなものまで種々様々。いろんなものがある。
だから一概に細胞の数を示すことはできない。
だとしても、だ。
両手で抱えても手に余る、たとえば二リットルのペットボトルが詰まったダンボール箱サイズや、あるいはお米十キロを入れた袋サイズのものとなれば?
細胞数は、まず間違いなく、数百万じゃ足りないだろう。
納得!
「人ひとりが、このヒトカイメンもどきの細胞いくつぶんなのか、その法則があるのかどうかってことを確認したかったんです?」
「それには調査方法も、調査回数も圧倒的に足りていないがな」
「おぅ」
朝倉先輩の言うとおりだ。
ほったらかしているけど、いまもまだ、記帳が続き、冊数が際限なく増えつづけている。
いいんだろうか。ほったらかして。
このままだと、ほんとのほんとに数百万、数千万人の記録がされてしまうのでは。
でもさ。待って?
「さ、さすがに、海綿ひとつでそれだけの人数が記録されるってなったら、現世じゃ偉い騒ぎになりません?」
「こっちで繁殖すればいい」
「ぶ、部長。繁殖ってそんな」
「海綿なら繁殖でいいだろう。それとも人と見なしてセックス、妊娠、出産と言い換えるか?」
朝倉先輩、ぶれないなあ。副部長さんは顔を真っ赤にしているけど、生物部のみなさんの反応はばらばら。副部長さんのように動揺している面々もいれば、先輩ほどじゃないにせよ気にしてない人も。
「現世に限定する必要なんてないんだ。ここの規模を見てみろ。ここに完結できるなら、それに超したことはない。栄養補給からなにから、すべて循環できるなら、そのほうがいい」
そもそもの話と先輩は冷めた顔でつぶやく。
「現世の人間を調達してくるなんてリスク、取らずに済むなら、そのほうがいい。だからこそ、名無しが多いんじゃないか?」
ぞわっと寒気がした。
ひどく冷めた評価に誘われるように、増え続ける死者の書のなかで、既に記帳が終わったものを手に取ってみる。めくれどめくれど、露わになるのは「名無し」の山ばかり。
「私ならもう記録を止めるね。海中に漂うプランクトンをすべて突き止めて、一体ごとに名前を改め、つけて、記録していくことに意義があるとは思えない」
まるで興味が失せたと言わんばかりに先輩は背を向けて、洞穴へと続く道を歩いていく。
「ぷ、プランクトン扱いって、え?」
「すみません。うちの部長はちょっと、いろいろと、変わっているので」
ドン引きのキラリに副部長さんが急いでフォローする。
色即是空。空即是色。
霊子に頼んで世界の見え方を教えてもらおうという、そういう試みをしようとしていたけど、試すまでもない。
部長さんに見えている世界と、私に見えている世界は明確に異なる。
もっといえば、空を前に、どんな色を見ているかが異なる。見ようとしているのかも。
あえて、私たちそれぞれの見方をこそ具体化するために、すべてを空とするのなら?
私が見たいもの、考えること、感じるなにか。それは先輩のそれとはまるでちがう。重なるものもある。だけど、砂粒を集めて、その形状の一部が似ていたり、きらめきの度合いが似ていたりしているからって、それがなんだ。その重なりに、私たちはそれぞれ個別に、いったいどんな意味を求めるのか。それに実際の意味など、どれほどあるというのか。
ポルノを見て、それを信じてる人は、相手の演技や内心の倦怠、その可能性があることさえわからない。実感を持てない。どう疑えばいいのかがわからない。
数字がすべてだなどと全能感を感じている人と、そんなものを扱うまでもなく富める人とでは、当たり前の内訳がまるで異なる。
理系と文系という分け方があまりに当たり前、自明のものだった人たちと、それがあくまで教育課程上の区分けに過ぎないことを心得ている人、そもそもそんな区分けを利用していない国や地域の人たちとでは、それぞれに学問の捉え方がてんでちがうだろう。
まだまだいくらでもあるけどさ。
真なるものが唯一あり、それを心得るかどうか、という世界観がある。
他方で、私たちそれぞれ個別に体験し学習して蓄積しているものがあって、そこに真なる唯一なんてものがあるわけないと心得る、という世界観がある。
前者であれば。
たとえば「日本人は麺をすする」という真なるものがあると信じるかぎり、彼らはすする。それが当たり前だと信じて譲らない。すすらない人、その音がいやだ、生理的に無理だと感じる人を、どこかで「真なるものに迎合できず、適応できない者」と見なす。
後者であれば。
麺をすするのは「すすりたいから」であり、「日本人は麺をすする、ということを信じたい人がいる」に過ぎないことを心得る。それとは別にすする音がどうかを分けて考え、それが不快ならやめる。不快に感じる人がいるとして、彼らを「迎合できない」「適応できない」者などと見なさない。その必要がない。
なにに対しても前者あるいは後者でありたい、だけど、すべてにおいて前者だけ、あるいは後者だけではいられない。
わかりやすくするためにふたつに分けただけで、実際はもうちょっといろんな幅がある。方針が複数ある。
それに「どうしたいか」と「どうあるか」はまた別の話だ。
こんな前提を認識したら?
ひとまず「どうしたいのか」、そして「どうしているのか」を探るほかない。
それさえ、わかりきることがないのだから。
あえていえば、空は捉えられない。
空。それはないと規定する必要性があるのだろう。
だけど、私はなんだろな。あろうがなかろうが、そもそも私たちには捉えきれるものではない、だからない、というほうが、いまの実感に近い。それは仏陀ひいては釈迦の捉え方にぜんぜん届かないものだろうけど。
でも、やっぱり、そう思う。
ぶっちゃけ麺をすすろうがすするまいが、それとナショナリズムを紐づけようが紐づけまいが、それがあろうがなかろうが、捉えきれまいが、だからなんだと思うように。
イタリアをはじめとするパスタ文化圏で。中国や韓国、あるいはフィリピンやタイの麺文化圏で。すすったりすすらなかったりするのだって、結局、捉えきれたとして、果てがないように。
海綿ひとつ、それをどこまでいっても捉えきれず、その果てしなさに圧倒されるばかりなように。
「意義かあ」
朝倉先輩は、そこで止めた。
別に私は先輩と同じじゃないのだ。同じように捉えることはない。
ただ先輩の言葉、その刺激から生じる反応に、私という”色”が浮き出てくる。
「せめて、手を合わせて祈る人のことを、できるかぎり知っておきたいかな」
どんなに限界があるとしても。
わかりきれるものではないのだとしても。
書に記されるなら、それは後に繋がる可能性が生じるのだから。
「でも、それはいまの事件を止めるためじゃない、か」
浮かんでくる思考に胸が痛む。
この地の捉え方を霊子に見せてもらうだけじゃ足りなそうだ。
ここにある営みを、生活を、私は知らない。なにが行われていたか。
行為者がいて、それが組織だとして、それだけじゃ足りない。被害に遭って犠牲にされた人たちの営みを足すだけでも、まだ足りない。
そのすべてをありのまま、ぱっとわかりやすく見えるようにするための条件がわからない。
そんな便利な捉え方が存在するのかどうかさえ。
どんな工程を踏まえたら、どれほど迫れるのかがわからない。
『いま重要なこととはなんだ』
十兵衛の問いに、いったん、深呼吸をする。
見失うんだ。私はいくらでも。大事な目的がなにか。初心を捉えられず、見落としたまま見失っていく。
いま重要なこととはなにか。
だれかが引き起こしている第二の関東事変を止めること。
そして、そのだれかを突き止めて、捕まえること。
これを軸にするんだ。
『では、目的を達成するために現状、いかなるものを霊子に望む?』
みんなの色を見せてくれる。
霊子に頼む術がある。
そこまで思い至ることができた。
じゃあ、それを用いて、どうやって突き止めるのか。
軸とする目的と、私がいま探っていることの間には、いろんな工程が抜け落ちている。
『なぜ望まぬ』
タマちゃん?
『霊子に頼ればよいと気づいた。ならば、甘えればよい。すべてを見せよ、と』
え。
そ、そんなのありなの?
『妾ならば迷わず頼む』
すごい説得力あるね!
だいたい、見せよの時点で命令してるし!
そういうところも含めて、あまりにもタマちゃん!
で、でも、それってなんか、すごく乱暴だし、あまりに楽してる感じするし、い、いいのかなあ。
『ならば問う。なにを遠慮しておる』
だって、いままでずっと、うまくいかなかったし。
分を超えて求めて、手痛いしっぺ返しを食らってばかりだった。
生きるってことは我慢するってことで、望んだら、期待したら、つらくなるんだ。
いや。
なに考えてるんだ。
ああでも、朝倉先輩がプランクトンって言っちゃうくらい染みついているなにかがあるみたいに、私にも染みついているものなのかもしれない。
カナタにかっこつけって感じ取れたのは、そんな”色”を重ねてみてきたのはなぜ?
そう思うから。そう思ってきたからじゃないのか。
冷静に考えれば、霊子の力を借りるのだから、霊子が乗ってくれるかぎり、私に負担はない。
見せて? だめ? じゃあしょうがないでおしまいになるだけの話だ。
だったら頼むことになんの損があるというのか。
怯むなら、そこには私の見ていない、見ようとしていない、さらには見えていない”色”があるのだ。
笑えちゃうのは、それさえ”空”なのだ。
まるでないのと等しく、ありすぎる。
そのため、捉えられない。
なぜならないのだから。あるいは、ありすぎるのだから。
おまけにね?
仮にこの情報を記録するというのなら、いまでさえ増え続けている死者の書のように、果てがない。
終わらない。
『最大限の譲歩をもって、重ねて問う。春灯。なにを遠慮することがある』
求めよ。
強要するのでも、押しつけるのでもない。
ただただ、求めよ。
心のままに。願うままに。
「ん」
怖い。力む。緊張する。
求めるほどに、反動を予測してしまう。
駄目なときに備えるだけじゃない。萎縮して、苛まれる。恐怖に。これまで叶わなかった、すべての痛みに備えてしまう。
『いま求めることは、それらと関わりがない』
タマちゃんの断言は力強く響く。
もっともだ。境界線がある。分かれている。同じじゃない。
求めるすべてを同一視しなけりゃいけない? そんなはずがない。
頭ではわかっている。なのに、私は心底びびってる。
びびってるわりには、求めている。望んでいる。私なりに。普通に。
それには境界線がある。分かれている。同じじゃない。
これまでうんぬんかんぬん、萎縮うんぬんかんぬん、みんなとの間に壁がちゃんとある。仕切りがちゃんとあって、地道に行動できている。
なんてことはない。
私、ちゃんとできてる。
なら、この恐れも”色”。怯むのも”色”。それらは”空”。
ない。あるいは、ありすぎる。いずれにしろ、捉えきれないもの。捉えられないもの。
大事なのは、それ?
求めてるのは、それ?
ちがうでしょ。
タマちゃんの言うとおりだ。
いま求めていることは、それらと関わりがない。
『いろとしきはちがうが』
『野暮』
『すまん』
十兵衛のツッコミを軽くいなして、タマちゃんは求める。
『妾は求める。勇気を』
結果がどうなる、だめだったらどうこうとかって話はしないのね!
『わからぬがゆえに勇気』
『幾たび負けようと、敗れようと、改めようと、生あるかぎり命は続く。知恵も技術も万能ではない。ゆえに結果はわからぬ。あとはもはや、なにを求め、選び行うか。それを実行するための勇気、か』
大雑把だと笑ってみせるも、十兵衛は否定しない。
ふたりからしたら赤ちゃんみたいに幼くて、たぶんおばかで足りないにもほどがあるだろう私を、懲りずに見捨てずに、呼びかけてくれる。
それとて、このふたりにとってさえ、賭けになる。
絶対的な結果は得られない。
結局のところ、そうするだけの意欲や勇気ありきだ。
ううん。それだけじゃないね。それだけじゃないんだよね。
それとて、選択肢がありすぎてわからないんだ。
観測しきれないものを前に、どれほど憂鬱になってみせたところで、それ自体に意義ってあるの?
ない。
そういう捉え方をするならさ?
朝倉先輩って「やることがない」から去ったんじゃないかな。
で、私はどうなのさ。
あるんでしょ。
できるかぎり知っておきたいっていう、それだけじゃない。
他にもいろいろと。求めてやまないことが、いっぱいあるんでしょ?
なら、いったいなにをどう遠慮するというのか。
「ん。なんかすっきりした」
勇気、度胸、根性、なんでもいい。
選び、行うための、何度だってうんざりするくらい訪れる最初の一歩を踏み出す力が欲しい。
元気が。気力が。意欲が。
なにかないかと探したって、ないものはなく、ありすぎてわからないからないのと等しく、どうしようもない。
そうじゃない。
なにをしたいのさ。
なにを求めてやまないのさ。
目的は? どうしたいの?
それが決まったら、あとはもう、それをどう表現するかだ。
どんな結果を目指すのか。一度や二度、ううん、百度の失敗という結果が出ようと、なに?
それはそれ!
問いは変わらない。
どうしたい? どうする?
どんな色にする? どうなりたい?
結局、そこなんだ。
百度の失敗を前に、百一回目の失敗に向かえるのかどうかだ。百二回目は、百一回中最悪の失敗よりもつらくて痛くて、再起不能になるかもしれない。だけど、その可能性は、結局やっぱり、観測しきれない。
「あとは勇気で補えばいい」
そう、決めた。
いま、決めた。
数え切れない、ううん。数えられるからこそ圧倒される死者を前に、それでも「手を合わせて祈る人のことを、できるかぎり知っておきたい」と決めて行うのと、なにも変わらない。
足りないから、しくじるかもしれないから、いっそしくじるからやらない?
そんな風には生きられないし、生きたくもない。
ちがう。
私が求めてやまないのは、なに。
愛か。愛なのか。それとも、伝えられることか。受けとめてもらえることなのか。
ひとりじゃないってこと? ひとりにしないってこと?
足りない。
じゃあ、満たされること?
それだって、足りない。
言葉はいつも、足りないにもほどがある。
それを考えることじゃないの? だれかを感じることじゃない? だれかに感じてもらいたいし、考えてもらいたいってことじゃない?
かぎりのない営みを求めてやまないってことで、生きるってことだし、関わるってことだし、それってどんなに足しても足りることがないんだよなあ。
あれれ?
わっかんないね!
わっかんないけど、味わいたいんだよね。
大事にしたことがいっぱいありすぎるしさ。楽しみたいことも、味わいたいことも、かぎりないんだよね。
それって「足りないから、しくじるかもしれないから、いっそしくじるからやらない」方法で叶うの?
無理じゃん。ね?
求めて、やってみるしかないんだよね。
下手でも、しくじっても。百一回のうんざりする手痛い失敗を重ねてでも。
めげても。へこたれても。いやになっても。
そんな自分なりに、ぼちぼちと。
できないときには、できないときなりに。
働き者のアリじゃないキリギリスなら、キリギリスなりに。
ムーミントロールたちや、あるいは人の集まりに定住しないスナフキンなら、スナフキンなりに。
のび太くんやスネ夫、ジャイアンが出木杉くんにならず、なるよう強いられてもなお、それぞれなりに。
いけそ?
おばあちゃんになったのだって、私が自分で求めた結果だ。
これからもいくらでもしくじりまくる。
それでもまだ、いけそ?
改められるかぎり改めて、そんなの三歩進んで百歩下がるくらいの効果でしかないとしても。
いけそ?
求めることを諦められずにいられそう?
やだな。
諦めたくはないな。
じゃあ、求めてみようかな!
「春灯、準備できたって!」
カナタの声がした。
考えてみたら、私はカナタにどれほどお願いしてきたっけ。
最近、なんかいいお願いやりとり、したっけ?
やばい。
すこしも思い出せない。
これは真面目にふたりの危機まであるよ?
でもって、なにかと忙しい日々だけど、ぷちたちのことも、学校生活のことも、求めてやまないことが盛りだくさんだ。
こんな騒動、起こされてなるものか! だし。とっとと捕まえて、すこしでもまともな社会にしたり、なってもらったりしないと困る。
そうだ。
求めてやまないことが、私にはいっぱいあるのだ。思い出せ!
「どんなに足りなくても、やらなきゃはじまらないもんね」
言葉はあまりに足りないからって、言葉にしないとはじまらない。
しくじるかもしれないからって、やってみないとはじまらない。
だから萎縮して、選べない、行えない、怖い、痛い、つらいときって、もう地獄だ。
だけど、残念でした!
私は元気を取り戻してきている。
やってみたいことが待っている。
「よし、やるかあ! 数え切れないくらいの失敗だってどんとこい!」
求めてやまないことは、そんなのでどうにかなるような、しょうもないことじゃないんだ。
見つけられてよかった。気づけてよかった。したいと思えてよかった。
そういうところに行き着くまで、やってみたくてしょうがないことばかりなんだ。
会えてよかった、と。
そう実感できるようになるまで、生きてみたくてしょうがないんだ。
おまけに対象は数え切れないわけでさ?
冒険待ちの世界みたいなものなんだよね。読まれることを待っている小説、聴かれることを待ちわびる楽曲。あらゆる趣味みたいなもの。出会いと関わりはもっと複雑な旅路。
自分に何度だって言い聞かせよう。
やらかしながら生きてんだ。こちとら!
こういうとき、うちの親の漫画だと「とほほ」がつく。
天国修行で聴いた楽曲なら? お約束の演出と共に、こう締めくくりたいね?
アイリスアウト!
だけど挑戦は、ここから。
「それで、海作戦でいくんだよね?」
ぎゅっとすぼまる黒枠を押しのけるような気持ちで、マドカの問いかけに笑顔を返す。
「ううん」
霊子は「どう見たいか」「どうしたいか」「どうしたのか」さえ記録する。
タマちゃんの言うとおり、もっと直接的にお願いして霊子に見せてもらえばいい。
そもそも霊子は記録している。
海綿を、あるいは改札を作り上げた人について。
それだけじゃない。
犠牲になった人たち、傷つけられて苦しめられた人たちの願い、求めることも。
なら?
霊子のなかで力を借りる対象は、犠牲になった人たちを、敵がどう傷つけたのかじゃない。どう利用・消費してきたのかでもない。当然、それらの工程のひとつでさえもない。
そういうのは、時間があるときにやる。いまじゃない。
なら、いまするのは?
犠牲になった人たちの願い求めるものの中に、指さしてくれるであろう、敵の願い求めるもの。あるいは、敵そのものだ。
ただ霊子として捉えると、あまりに膨大すぎて、なにを求めればいいのかわからなくなってしまう。
霊子にお願いするにしても、求めてみるにしても、ネットの検索よろしく、ちゃんと具体的に特定できる条件が必要だ。ネットの検索とちがって、私の術にはデータベースにする力とか、瞬時に検索しきる力とかがあるわけじゃない。それらは全部、術で補わなくてはならない。
だったら、その不足さえ、頼ってみればいい。
それが仮に百一回目の失敗になるのだとしても、その失敗で得られるものが、次の挑戦の糧になる、かも? しれない。ならないならならないで、がははと笑って次へ行くよ。知恵を絞り、仲間に相談して、技術を模索しながらね。
それくらいのこと、いまの私なら、ちゃんとできるでしょ?
じゃあ、あとはもう、やってみるだけ。
人差し指を立てて、天を指さす。
「おばあちゃんが言っていた。あんた、思うことがあるなら、ちゃんと声に出して言わなきゃって。じゃなきゃ伝わらないよって」
指先にありったけの全力で輝く金色を出す。
「泥臭くても、できなくても、がんばる先に道があるんだって。声をあげなさいって」
指拳銃にして、道の先へと突きつける。
「だから、私は求めるよ。何度あきらめようと、心が折れようと」
願いを込めて、術を掛ける。
「さあ、声を聞かせて。あなたはだれ? こんなに大勢の人を傷つけ、苦しめて、いったいなにがしたいの? 霊子たちよ、お願い。私に見せて」
放て。漂う霊子たちに届くように、どこまでも煌めいて。
洞穴に浮かべた太陽に負けじと全体を照らす。
みんながまぶしさに目を伏せるなか、改札があった位置にうっすらと人影が浮かびあがった。
それはいつか迷い込んだ先にある不思議な地下鉄にいた男の輪郭に違いなかった。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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