第二千九百九十三話
男は明らかに動揺していた。
赤黒い芋虫で作り上げた女性の身体越しに「んでだよ」「くそが」と悪態をついている。どうも両手を掲げた状態でいなければならないようだ。まだ虫たちが集まりきっていないせいだろうか。
すさまじい羽音と衝突音がする。男の両手の先に黒くて大きな例のアレが集まり、赤く発光する光に変わっていく。しかし変換効率は決してよくなさそうだ。そもそも虫の数が多すぎるから、光に入り込めずに他の虫とぶつかって地面に落ちるものがたくさんいる。
私が来たことに動揺しているのだろうか。
なら、動揺しているうちに詰めておきたい。
そう思って一歩を踏み出した瞬間だった。雷の落ちる轟音がして、私と男の間にトモがやってきたのは。しかもトモはひとりじゃなかった。パンイチマントマッチョマンこと平塚さん、そして、うちのお父さんを連れてきていた。手を繋ぐ格好で。ただ、無茶な速度、無謀な軌道でやってきたからか、ふたりはトモとちがってよろけてしまう。お父さんは尻餅を、平塚さんは前に倒れ込んで右の拳で地面を押さえる。まるでスーパーヒーロー着地みたいになっている。
「な、ななな、なんだよお! てめえらはよお!」
ますます動揺した男を覆う女性の肉体が蠢き、芋虫たちが身をよじる。再び男の身体が露わになった。
ちょうど股間を覆うための特別な芋虫がいて、際どいところは隠れているものの、それがむしろ余計に下品で卑猥に見えてならなかった。あの芋虫はいったいなんだ。なんでできている。この虫たちは? それを思うと、めまいと共に喉奥から焼けつく痛みがせり上がってきた。吐けるだけのものがない。胃液ぐらいだ。
そう。ここにいた人たちが消えた。代わりに虫が出てきた。なら、あの虫は、人か。それとも人が、虫なのか。
「て、てめえは見覚えがあるぞ! パンツ野郎!」
男は自分が入った女性の身体で平塚さんを指さした。
「忘れたくても忘れられんな。仲間たちの亡骸を連れて立ち去った貴様の顔を、どれほど必死に探したことか! 虫使いとは知らなかったが」
一度見たら忘れられそうにないパンツ一丁にマント、覆面スタイルの超マッチョ、平塚さんの筋肉がどんどん盛り上がっていく。マントを羽織った背中越しでもわかるくらい、身体が膨れ上がっていく。びり、びりりり、と。繊維が悲鳴をあげている。マントじゃない。絶対にマントじゃない。すると、残されたのはマントか、あるいはパンツかだ。
絶対にパンツだ。パンツに違いない。
「百発殴っても足りんなあ!」
マントをたなびかせながら平塚さんが駆け出した。人体のどこにどんな筋肉があるのか、それを学びたければ彼を見ればいいというくらい、あらゆる筋肉がぱんぱんに張りつめた状態で自己主張していた。のみならず、初速から短距離走選手に迫るような速度で駆けていく。マントが地面と水平になり、ほとんど布きれというか、いっそ紐と言ったほうがいいような無残な状態になったブリーフが見えた。もはやまわしかなにかだ。
「ひ、く、来るな!」
小物丸出しの甲高い悲鳴混じりの声と共に、男を飲み込む女性の身体が後ずさる。遅れておびただしい虫たちが平塚さんに迫った。
「かっ」
平塚さんが吠える。直後の音がわからなくなるくらいの怒声であり、咆吼だった。
頭がビリビリする。耳が痛い。だけど、そんなのが虫に効くわけないと思った。
勘違いだった。
怒声に押しのけられるように軌道を変えたのだから。
予測していたのだろう彼は、そのまま右手を振り上げた。巨漢に見合わぬ小太刀が一瞬で長い棒へと変わる。先端についた刃は鋭く長く。その槍は投げるためか、それとも突くためか。
いいや、ちがった。
「おおおおおおおおおお!」
穂がみるみる伸びていく。刀身へと姿を変えていくんだ。柄に糸が巻かれていく。
槍が刀になっていく。大太刀か。はたまた野太刀か。いいや。柄が一メートル近く、あるいはそれより長いのに、刀身はそれと同じか、あるいはやや長い。
前に教えてもらった気がする。長い刀身は扱いづらい。そもそも重たい。戦場で、それも乱戦になる合戦のさなかには、身動きが制限される。取り回しが悪い。だから、いちいち選ばない。せいぜいが力比べや、力自慢のための道具に過ぎないのだと。
たとえばトモを相手にして、平塚さんがあの巨大な一振りで応対できるか。絶対に無理だ。雷速のトモを相手にしたら、いいようにやられるのが目に見えている。
だけど、もし、相手が身動きが取れない状況であったなら?
刃がどんどん肉厚になっていく。反りの先に移る波打つ刃紋が鈍く光を浴びる。
「ま、待て、待てぇ! 俺を殺したら」
「おおおおおおおおおおおおお!」
猛る男に弱気な悲鳴が届くはずもない。
一閃。空気を押しのける、大団扇を扇いだような音の後、地面にたたきつけられた刃の轟音が続く。
マントがゆっくりと平塚さんの背中を、お尻を、最後に太ももを隠していく。
「く、そ、お」
後ずさり、尻餅をついた。
女性の身体を作っていた芋虫たちが激しく蠕動し、赤黒い煙になって消えていく。虫たちは制御を失い、方々へと散っていった。男が作り上げようとしていた赤黒い球も煙になって消えていく。
「お、おおお」
声を絞り出しながら、男が片手で地面を押していた。
右肩から左大腿部まで、切り飛ばされていた。流血凄まじく、内臓の一部が漏れ出ている。
「ふううう、ふううううう」
平塚さんが荒く呼吸しながら、再び刀を振り上げ始めた。
何度暴力を振るおうと満たされないだけの恨みや怒り、憎しみがあるのだろうが、それを上回る衝動的な殺意が彼を突き動かしていた。
お父さんが私をちらちら見てくる。止めるつもりで来たけど、あまりの剣幕に気圧されちゃっているみたいだ。もう、情けない! そうなじりたい私もまた、平塚さんの剣幕と一撃にすっかり心身ともに竦んでしまっていた。
空から白いなにかが降ってきた。それはまず、平塚さんに切りつけられた男を捕らえた。直後、切り飛ばされた部分を含めて半身を氷漬けにする。遅れて平塚さんにも白いなにかが当たる。飛び散る白い粉と、彼の肉体からのぼる湯気に気を取られた。
数秒して、ルルコ先輩が下りてきた。金色雲を出したマドカと一緒に。
それで気づいた。どっちもルルコ先輩の力だ。じゃあ、平塚さんにぶつけられたのは、雪玉だろうか。
「はい! もう! 待ってって言ったのに!」
「そ、そうですよぉ?」
ルルコ先輩の迫力に対して百分の一もないお父さんの追従が、恥ずかしい。
「ぬああああああああ!」
雪玉をぶつけられた平塚さんはむしろ、ぐっと踏み込もうとした。
だから迷わずルルコ先輩は片手を伸ばして、手のひらから雪を大量に出して浴びせた。ちょっとしたブリザードだよ。白くて小さな雪を数え切れないくらい出して、それを強風と共に対象にぶつけるなんて。
「ぇえっくしょい!」
思わずくしゃみをした平塚さんが動きを止める。
柄糸が消えていき、刀身はみるみる縮んでいった。槍への形態変化を経て、小太刀になってしまう。
「すまん。止まる。止まるから、それをやめてくれ」
小太刀を鞘にしまい、両手を掲げて後に下がる。
それくらいじゃルルコ先輩は引かない。
「小太刀、しまっていただけます?」
「う、うむ」
渋々の返答と共に、平塚さんは腰回りに小太刀を下ろしていく。
どこにしまっているのか、なんとなくわかっちゃった。そんな自分がいや。
見たことない冷徹な視線を向けていたルルコ先輩は、なにかを見届けてようやく手を下ろした。
「く、くそ、くそが、てめえら、リンタロウの手引きなんだろ? あの野郎、消えたと思ったら、これかよ」
「おまえ。しゃべれと命じるまで口を閉じていろ」
下ろした手を突きつけるルルコ先輩の声の低さときたら。
突きつけた指先から氷の粒が飛んで、男の口に当たった。途端に口周りから咥内までを氷で覆ってしまった。相当冷たくて痛いのか、男が悲鳴をあげるが、ルルコ先輩は一瞥をくれるだけだ。
傷を適切に塞ぐ術じゃない。断ち切られた箇所からの血流が止まり、おまけに冷やされていく。出血を一時的に止めるだけで、延命措置じゃない。むしろ拷問の類いに近い。
かなり冷徹な態度だ。初めて見た。そのショックはある。
けど、たぶんそれどころじゃないのだ。
「知っていることを洗いざらい話せ。端的に。指示に従うなら助けてやる。だが背くなら? ここに置いていく。彼も喜んで、ここに留まることだろう」
ルルコ先輩が容赦なく詰めていく。
徐々に顔色が悪くなっていく男がくぐもった悲鳴をあげながら平塚さんを睨んだ。そのあとすぐに、ルルコ先輩を見る。
私のそばにいるマドカには目もくれない。山吹リンタロウじゃないのか、それとも妹の存在を知らないのか。それなりに年が離れていて、ぱっと見で気づかないだけか。なんであれ、男はルルコ先輩の脅しにすっかり気圧されている。
「リンタロウといったな。名字は」
ルルコ先輩が指を差すと、男の口の氷が蒸発して消えていく。
入れ替わりのように、先輩は刀の切っ先を突きつけた。先端に目を寄せながら、男は恐る恐る口を開いた。そして、舌でしきりに咥内を舐めながら呼吸を繰り返す。
痛いほどの沈黙の後、男は渋々つぶやいた。
「山吹だ」
「なにがあった。十秒以内で簡潔に」
唇の色が徐々に変わっていく。切りつけられて凍らされた箇所から肌も変色していく。
放っておいたら、この男は死ぬんじゃないか。下手人がそばにいて、これって通報しないとアウトなのでは。言ってる場合か? 場合だろう。なんだけど。
「あいつ、裏切りやがった。仲間だったのに」
「「「 へえ? 」」」
思わず相づちを打ってしまった。だけど、反応したのは私だけじゃなかった。
マドカも、遅れてきたキラリたちもだ。そりゃあそう。あいつはいっつも余計なことをする!
「どこへ行った」
「さ、先だ」
「地図情報は」
「そんなもん、この先の部屋のあちこちにあるよ」
ルルコ先輩だけは相づちを打たない。
男の顔色がどんどん悪くなっていくけど、同情のそぶりも見せない。
とてもじゃないけど見ていられない。このままだと死んでしまう。
「仲間は全員で何人いる」
「しらねえくらい大勢だ。ちゅ、中心メンバーは、いつも七人くらいだ」
いつもって言葉が入るところが引っかかる、けど。
「リンタロウもその中のひとりか」
「だった、だ。警察に捕まってから、入れ替わった。な、なあ! 死んじまう! いてえ、いてえよ!」
「なら返事を急げ」
ルルコ先輩、あまりにも容赦がない。
痛いと泣き叫ぶことをせず、救済を要求するくらいには余裕があるのか。
それとも抑えていたのが堪えきれなくなったのか。私には判別がつかない。
「今日の騒動はおまえたちの仕業か」
「う、くうう」
「誠実に、だ。誠実に答えるなら、助けてやる」
ルルコ先輩の刀がみるみる白く染まっていく。刀身が急速に冷えているのだ。
そういう脅しもあるのか。やるのか、そこまで。
「そ、そうだ。そうだよ! だから、なあ! なんでもしゃべるからよう!」
ルルコ先輩が振り返って、私に目配せしてきた。
急いで駆け寄る。だけどルルコ先輩より前に出ようとしたところで、止められた。先輩が伸ばした片腕が、これ以上先に行くなと私を制したのだ。
侮るべからず。なにをするかわからない。どんなに警戒しても足りることはない。
先輩はすぐさま男を睨みつけていた。いつでも一撃を食らわせられるように。あるいは男の攻撃に気づけるように。
「総員、警戒」
ルルコ先輩の呼びかけに応じて、方々から抜刀する音が聞こえてくる。
「治療を」
遅れて命じられて、金色をいっぱい出した。
男の傷口を凍らせる氷に注ぎ込んでいく。
ここには聖歌ちゃんがいない。頼りの先生たちもまだ見当たらない。
身体に記録された情報を頼りに再構成していくしかない。男の霊子の手を借りる。とにかく最低限、傷口が塞がるように。戻せるかぎりを戻していく。
どれだけ定着するかはわからないけど、願いつづけることで、氷は溶けていく。金色と混ざりながら、肌色に変わっていく。男の失われた脚や肉を、内臓を再現していく。ゆっくりと、徐々に。あんまり変化が鈍いから、露出した傷口から血があふれかえることさえあった。
男がとうとう耐えられずに悲鳴をあげる。怒鳴り声や金切り声をあげながら、身もだえする。露出した傷口を再現する霊子が直に刺激するようなものだ。麻酔なしで。そんなの痛くて当然だった。
どれだけ定着するのかわからない。うまくいくのかもわからない。
癒やしの術が使える人が来ないと、たぶん、どうにもならない。
ただ、少なくとも見た目上だけはなんとかなっていく。
脂汗を流して、既に漏れ出た血だまりのうえで男はやがて気を失った。平塚さんがルルコ先輩に断りを入れて、男の様子を確かめる。呼吸は弱いが無事。とはいえ、放っておいたら一時間もしないうちに死んでいた、なんてことにもなりかねない。
マドカが急いで治癒の術が使える人を呼び、トモが雷速で迎えに行く。
その間に、男が自供したことが気になってくる。
彼の語りだけを真に受けて信じるわけにもいかない。
事実を確認しないことには、さすがにね。
「ハルちゃん、お疲れ」
そう言ってねぎらってくれるルルコ先輩は、私のよく知る顔と声だった。
人も、そのすべてを理解することなどできないのだと思い知るような機会だった。
ただ、先輩がきつく責めるだけの事態ではあった。正当化の弁ではなく、ただ、とてもまともでいられる状況ではない。いまもなお。
シャルは無事なのか。
触手たちが群がってできた大樹を見る。変化はまだ、ない。
彼に聞くべきことが、まだまだ山のようにある。
ここにあったものはなんだ。ここに集められた人たちはなんだ。
あなたはここでなにをしていた。
そもそもあなたはどこのだれだ。どういう人生を過ごしてきた。
なんで。どうして。やまほど問いが浮かんでくる。
なのにわからない。答えがなにも、わからない。
せめて語ってもらわなきゃならないっていうのに、それもままならない。
だいたい、私たちにとって、男は劇物だった。気絶してなお。語っていたときは余計に。
放っておける存在じゃないし、まともなやりとりができる状況にない。
ただ、示されたことがあった。
先に行かなければならない。
ウィザードが先行しているのなら、私たちは彼を追わなければならない。
それだけはたしかだった。
「待った。虫、すっかりいなくなってない?」
キラリが猫耳をぴんと立てて、あちこちに向けながらきょろきょろと見渡す。
私も獣憑きになって、狐耳で耳を澄ませてみた。あんなにうるさかった羽音がぴったりやんでいる。おかしい。男が気絶したからか。それとも別の理由があるのか。
どんなにあちこち見てみても、どこにも虫がいない。男のそばから芋虫や虫が湧いてくる、みたいなこともない。もしかしたら、先にいる仲間たちに連絡でもしたのかも、と。そう思わないでもないけどね。ひとまず、ここではなにもわかりそうにない。
足音が近づいてきた。見れば愛生先輩が他の面々と一緒にやってきたところだった。
ルルコ先輩に手短に情報を伝えている。いわく、周辺に、あの大樹以外の異常は見当たらず。先生がたと調べてみたかぎり、大樹にも邪や攻撃的な霊子は検知されず。シャルが中にいるとしても、呼びかけに反応はなかったそうだ。
ひとしきり伝え終わると、残りをそばにいたカナタに押しつけて、駆け寄ってきた。記憶にあるかぎり、愛生先輩が真剣な面持ちで急いで近寄ってきたことなんかなかった。たぶん、一度もなかったはずだ。恐らく。きっと。それくらい珍しいに違いないことが起きているのだ。思わず身構える。
「な、なんですか」
「なにも言わないうちからすごい警戒されてるの、地味にショックなんだけど」
そんなことを言われても。
お叱りビンタ、ふたつうえの先輩で、部活に学院生活に、なにかとお世話になった。怒られたことも一度や二度じゃない。おまけに大学生。さらにおまけに、天国修行じゃ同じアマテラスさまのお世話になりながら、愛生先輩はエリート街道まっしぐら。私は田舎でのんびり過ごしてる感じ。この差よ!
なにかと緊張するよ。
「最近会えてなかったけど、ひとつ言っときたくて」
ぜったいお叱りなのでは!?
怯む私を逃がさないように、先輩が二の腕をがしっと掴んできた。
圧がぁ。
「いい? ぜんぶは受け止められないよ。人には膨大な情報を演算しきれないの。霊子の情報も一緒」
「え、と」
一瞬、なにをどう受け止めればいいのかわからず固まってしまった。
だけど一呼吸おくと、なにを伝えようとしているのかわかった。
「金色で読み取る情報には限界がある、と?」
「駅の氷の壁を溶かそうとしたとき。他にもいろいろやってきたでしょ? そしていま、きみはひとつの事実を知るには膨大な情報を調べ上げ、真に受けて、よく考えなきゃって思ってる。ちがう?」
「う」
よくご存じで!
図星を突かれて視線が逃げる。どんなに逃げても、先輩はまっすぐ私を見つめつづけている。おまけに腕を掴まれていて逃げ場がない。
「でも、それは無理なの。無理なのに、私たちは事実を捉えようとしなきゃならず、考えようとしなきゃならず、そのために調べようとしなきゃならないの。できないけど、うまくいかないけど、やってくしかないをやってるわけ」
だからできないことがあるし、どうしようもないこと、そうした現状がいくらでも生産されるし、再生産されていく。
「赤点だらけの人生なんてごまんとあるし、試験を受けられない人生だって山ほどあるの。社会や歴史の教科書に載ってる過去のろくでもない遺物のようなものが、現代にも姿や形を変えてごまんとある。その膨大な情報を、その相互関係を捉えるには、あまりにも人手と時間と資源が必要すぎるの。いつだってね」
当たり前なんてない。
だから当然なんてこともない。
普通なんてない。
なのに私たちは隙あらば最適最善最高最良であろうとする。それはほとんど強迫観念のように、自分を、そして他者を苛むものになっている。
だけど物事を克服できるとはかぎらない。選択や分岐が生じる以上は、どうにもならないことが重なりに重なって、どうすることもできないどん詰まりに陥ることもある。
私も割とどん詰まり要素を抱えている。幸いにして、ましなこと、救われること、助けになること、いっぱい抱えているから、ぼちぼちやれている。けど、八尾を注ぎ込まれたことをはじめ、いろんな連中に狙われたり、戦闘しなきゃならなかったりと、できれば避けたかったことがてんこ盛りでもある。
私の人生の分岐が運良く、幸いにして、いまのマシさにたどり着けているから救いもある。でも、言い換えれば選択と分岐がとことん裏目に出たり、だれかの選択と分岐で目も当てられないどん詰まりになったりすることだって起こりえる。
いまなんか、まさにそれだ。
どん詰まりの人たちを集めた地下。どん詰まりを思わせる第二の関東事変。
「八十億近くの人も、これまで生まれてきた数え切れない人たちも、ううん。動物や植物、微生物とか、言い出したらきりないくらいの命も、自分が干渉できることの限界が常にある」
自分のあらゆる人生を、苦しみを、死ぬことさえもを、受け止められるか。
それを許し、認められるだろうか。
でも、そこからじゃないと始まらない。
否定しても拒絶しても、し尽くせないことがある。
どんなに学んでも、調べても、考えても、その痛みや苦しみを、許せなさを、受け止めたくないものを変えることはできないし、なかったことにもできないのだ。
幸せにならなきゃ。
勝たなきゃ。
成功しなきゃ。
じゃなきゃ救われないなんて、そんなのもはや、ただの呪いでしかない。
潔癖症のジレンマに陥ってはいけない。
あらゆる穢れを許せず、なにもないこと、ゴミがないことばかりを気にかけ、塵芥でさえ認められなくなっていく。
学ぶにせよ、考えるにせよ、よく選び行うにせよ、そうやって自分を、その人生を生きるにせよ。
不足を、失敗を、不能をなくすことなどできない。だから認められない、認めたくない、あるべきじゃないと思うことさえ、なくしきることなどできやしない。
たしかに公平も公正も平等も、人の営みに支えられて徐々に成り立つものだし、人の絶え間ない運動を求めるものだ。だれかが走るのをやめたら、それだけで崩れ去ってしまう波打ち際にある砂の城。
残念ながら万人を余すことなく包み込むほどのものではない。そこで少しでも手を広げよう、繋がろうとする営みに生きる人たちも出てくる。経済政策の失策などから貧困が蔓延していくなかで、ご飯を満足に食べられない家庭がでてきて、放っておけない人が始めたこども食堂とかね。家出したこどもたちを風俗産業に誘う大人たちから守るよう声がけをする団体とかさ。
ただ、支援現場でこそ起きる加害や虐待がある。政府からの支援金の認定がザルであればあるほど、それを狙ってたかりにくる金の亡者もいる。なにせ、農家の作物で売れば金になるメロンだイチゴだを盗んだり、ハチミツに水飴などの混ぜ物をして売ったりする。亡者は目があれば狙う。彼らの飢えは癒やされることがない。本人たちにその気がなければ、なおさらだ。その割を食うのは、まともに支援や福祉の現場で働いている人や団体であったり、農家さんたちであったりと、その業界で生きている人たちであり、その利用者のみなさんだ。
私たちは負荷に対処しようとする。
そうすることで寒いときには防寒に努め、暑いときには涼や水分を求める。空腹があるから飲食を求め、そのための飲食物を求める。
関係性や環境において、支援や資源において、不足や負荷があればこそ、私たちは対処しようとする。
あらゆることにおける負荷は対処を求める。
だけど私たちはそこまで万能でもなんでもないから、対処できないこと、できなかったことが蓄積していく。それはたぶん、SF小説や映画が創造したどんな未来であろうと克服されることのない課題なのだろう。私たちが人体を、生体機能を代替して、リデザインしてみせたって、結局は生体機能のデザインから抜け出すことなんか選ばないんじゃないかなとさえ思える。
でもね。それじゃ許せないこと、認められないことが消えてくれない。なくならない。
救われない。
ああ、そうだ。
救われないことを、受け入れ、認めないと始まらない。
そんな選択、こんな分岐、選べないし選びたくない人のほうが多い気さえする。
どんな偉人でさえ、どんな成功でさえ、どんな勝利でさえ、乗り越えられない。
そんなものなのだという、その事実を受け入れ、認められるのか。
たぶん、母数を増やせば増やすほど、無理な人を示す人数もまた増えていくことだろう。
ケ・セラセラ。それでも人生は続くのだ。
さあ、なにを願い、どう表現する?
そのためになにを選び、どう行う?
この人生からの問いは、認められない、許せないことがなくなるなんてひとつも言ってない。約束なんかしていない。あり得るという可能性さえ示さない。
ありとあらゆる苦しみ、憎しみ、憎悪、喪失、遺失。虐待も、養育放棄も。我が身に起きた事件も、あらゆる暴行も。そのすべてをもって「どう生きるのか」が問われているのであって、かけらも話していない。それは否定できる。なくせる。なかったことにできる。そんなこと、かけらも話していないのだ。
収容所を生き延びたフランクルは「あらゆる苦しみ、死ぬことさえ含めた生きることの意味」を問われているとした。
そうだ。
私たちのあらゆる苦しみや死ぬことさえ含めた、あらゆる体験は、ただ、問いかけている。
許せなくても、なくせなくても、認めたくなくても。
ただ、ある。
それをまず、真に受ける。
そこから始めるしかないのに、それさえままならないし、一生できない人だってきっと大勢いるにちがいないのだ。そういう体験が、種々様々に存在していて、自分にとってなにが致命的かどうかは人によってまったく異なっていたり重なっていたりする。そのうえで、なにを体験するか、せざるを得ないのかは、もうほんとにとことん、運であると同時に、社会や人のありよう次第なのだとも言える。そのうえで「どうにもならないこと」があまりにも多すぎるのだ。
生きることは、常に、そうなのだ。
わかりきれなきゃ安全に歩めない。なのにわかりきることはない。不安全を生きねばならない。
普通や常識や当たり前や当然は、それを必死に否定する。
そもそも私たちの認識できる情報量、想像できる相互性や作用にはいつだって限界があって、調べるには時間がかかりすぎるし、手間もかかりすぎる。
それじゃ生きていくのが大変すぎるから、私たちはいろんな法則を頼りにするし、単純化するし、むしろ単純で限定された情報から全体像を捉えようとしすぎる。
そのなかでもいま浮かぶのは「摩擦のない平面」だ。物理法則を極めて単純化して推測する、思考実験や法則のモチーフ。実際には「物体を滑らせたとき」や「物体を落下せたとき」などに、その落下速度や運動について検討するときに利用する。現実には「摩擦がある」。坂道からいろんなものを転がして、どれが一番はやく坂の下に届くのかを考えるとき。あるいは斜塔からいろんなものをいろんな落とし方で落として、どれが一番はやく地面に落ちるのかを考えるとき。あえて「摩擦」を考えないものとする。
実際にはちがう。検討するべき要素がいっぱいある。
だけど、検討事項をすべて網羅してから実験するとなったら?
たぶん、なんにも進まない。
そこで意図的に簡略化したり、単純化したりする。
もちろん簡略化や単純化は、結果とずれる。予測がずれていく。
「摩擦のない平面」は誤謬を生む。
当然だ。
でも膨大な情報を読み切って生きていくのは現実的じゃないから、私たちは少ない情報や手がかりから全体像を予測して行動する。そのためにいくらでも間違え、失敗する。効率や合理性に執着した人が、結果的に無駄な準備と調査と行動と失敗の繰り返しをするようにね。
「ハルちゃん。やまほど失敗して、傷ついてきたから、それを避けたくなってるんじゃない? そのために、できるだけ多くのことを観測して捉えたくなっているんじゃない?」
否定できない。
「でも、それは、どう足掻いても常に限界があるの」
残酷だけど。残念だけど。
それゆえに私たちは顔を背けたくなるような失敗をする。
あるいは直視したくないほどの失敗まみれを抱えた他者と出会う。その他者が自分だった、ということも起こりえる。
銃を手にする人がいる。
包丁を突き立てずにいられない人もいる。
老いて病になり弱る親の首を絞めるこどもがいて、生まれた赤子の泣き声に、環境に追いつめられて心中を選ぶ女性がいる。
引きこもる家族がいても放っておくだけになる家族がいて、トイレができなくなった身内をほったらかすだけの家族もいる。
住まいや仕事を失って放浪する人を見て見ぬ振りをする人たちも、傷つけようとする人たちもいるし。
家出したこどもたちを買春や薬物依存に貶めようとする人もいる。
自分が彼らの立場になるような、それほどの体験や不足にまみれる可能性はいつだってゼロじゃない。
例が過激だから、忌避感があって認めがたいかもしれない。
穏当な例からもっと過激な例まで、理不尽や残念なこと、あんまりなことなんてごまんとある。
私で言えば、またしても教授やアダムのようなだれかに脅されたり、誘拐されたりするかもしれない。それを嫌って、平塚さんが男に致命傷を与えてみせたようなことをしかねない。私だって。
そんなの、いやじゃない?
いやなんだよ。
なのにね?
避けられないの。
だから足掻こうとするしさ?
いやでいやでたまらないから、起きたことをなかったことにしたり、直視しなかったり、考えないようにしたりするの。対処は積極的なものもあれば、非常に消極的なものもある。主体的なもの、能動的なものもあれば、とことん受け身の受動的なものもある。
どうにもできないのだから、なにもしない。
悪くなることは予測のとおりだから、それは少なくとも無秩序ではなく、混沌でもない。
だけどあがき、対処することは秩序を乱し、混沌を生む。
だからなにもしない。
クラスでだれかがいじめられていても。それが小学校から中学、中学から高校、高校からその先、あるいは会社や仕事現場で再現されても。
家族のだれかが手に負えない状態になっても。それが何日、何ヶ月、何年も続いても。
未来ちゃんに教えてもらった。
精神疾患の負荷は、日常生活を著しく困難にするものも少なくないそうだ。衣食住が疎かになるし、掃除や片付け、ゴミ捨てさえできなくなっていく。あるいは、それらをがんばると、今度はもうそれ以外の行動がまともに取れなくなるくらい疲労困憊になってしまうと。
あるいは「どうにもできないのだから、なにもしない」とき、もうひたすらに傷つき、疲れ果てているのかもしれない。
そのとき描く「摩擦のない平面」とは、どのようなものだろう?
「どうにもできないのだから、なにもしない」とき、いったいなにがどれほどあったのだろう。あるいは、どれほどつらくてたまらないのだろう。
「不十分でも、選ぶの。協力するのは、ひとりにできること、選べることにはかぎりがあるのだから」
言い換えるなら。
「私も、ルルコも、みんなも、そうやって補いあいたいくらいには信じてるし、信じたいし、そばにいたいんだよ。まあ、日常的にずっととはいかないけどね。なにせほら、大学生と高校生だもの」
ぼうっとしている私を見て、伝わったのか不安になったのかもしれない。
先輩が私の眉間を指先でつついた。いつの間にか、先輩は私の腕を解放していた。
「さみしんぼのハルちゃんをほったらかしてごめん。今日は一緒だからね? あと、さみしんぼは遠慮しないで連絡してくるんだぞ? 甘えていいの。人はみんな、だれだって、助けてって言っていいんだよ」
わかった? と追い打ちのように問われて、なにかがくしゃっと歪んだ。歪んだところからあふれ出てくるものをどうしたらいいのかわからなくて、私は目をぎゅっと閉じた。震える手を握って、精いっぱい絞り出した。
「時間制限ありなのいやすぎぃ! 今日はっていうのがいやぁ!」
「さっそく出たわがままがそれかい」
「おぅっ」
絞り出した途端にチョップを食らった。
納得できそうにない。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




