第二千九百九十二話
マドカと協力して、洞穴のうえを金色雲で移動しながら金色を散布することになった。
だけど、それだけじゃ足りない。
足りないから洞穴中の坂道に刀鍛冶メンバー、そして彼らを守る侍たちを配備。状況の変化を逐次報告してもらう警戒態勢のなかで、状況を監視してもらうことにする。
マドカは狛火野くんと、私はルルコ先輩とふたりで協力して雨と雪に金色を混ぜて散布することにした。雨と雪、ふたりの力を借りて、より広範囲にアプローチしようというのだ。その企ては少しの練習でうまくできるようになったから可能になった。
「雲を大きく展開して、そこから金色の雨と雪を降らせるねえ。ハルちゃん、どんどん器用になるね?」
「あはは」
ルルコ先輩に褒めてもらっているんだけど、あんまり本気で笑えない。
雲の上にはキラリやお姉ちゃんたちもいて、なにかあったときに備えて準備している。
足下の人々の抵抗がなければ、お姉ちゃんたちも、刀鍛冶メンバーや護衛メンバーも仕事なしでいける。
キラリは別だ。
なにか願いがあるなら聞けないかとみんなに相談したら、キラリが役割を買って出てくれた。でもってキラリひとりに任せるなんて無茶だ。相手の人数が数万、数十万はいそうだからね。マドカが協力するにしたって、分母が大きすぎるんだから焼け石に水でさえない。
だから、キラリはできる範囲でやってみると言った。
あんたとちがって、自分を犠牲にするほど無茶するタイプじゃないってさ。
現状では他に術がない。なにが足りない? みんなが伝えられる手段も、そのための状態も、回復できるようにするための方法も、なにもかも足りない。
じゃあ、足りないものを具体化して、足していけばいい。
それはなんだ。
結局、みんながすこしでも落ち着くことだ。
それだって彼らの現状を見ると、やはり焼け石に水どころではない。
それでも、できるかぎりのことを。どれだけ足しても足りないだろうけど、それでもどうか。
祈りを込めながら理華ちゃんの指輪、姫ちゃんの鍵を使いながら金色に働きかける。金色雲の上でひざまずき、鍵を握る両手を合わせて祈りつづける。
どれだけの時間が流れたろう、というくらいの時間を期待した。
一分も経たないうちに雲に乗り合わせたシャルが私のそばにやってくる。
「残念な知らせになる」
そう前置きを挟んでから、シャルが教えてくれた。
雨と雪を浴びた端から、人々が溶けていると。ひとつひとつの細胞の中にたまっている血肉や骨のように、ぐずぐずになっている。膜も崩れて、境目を失っているのだと。
思わずやめようとする私の手にシャルがすぐに「つづけてくれ」と訴えてくる。
「天使が願いを確かめるまでもない。彼らは死人。それなら私の領分だ」
頼む。
「眠らせてやってくれ」
そうシャルは願う。私に。
いろんな問いが浮かぶ。こうなるってわかっていたの? どうしていまそれを言うの? 死人が領分なら、事前になにかわからなかったの?
責めたい気持ちさえ芽生えるくらい、現状を受け止めきれない。
「なにがあっても、片づくまで止めるな」
そう言うと、シャルは駆け出していく。金色雲の薄い箇所へ。跳躍して、薄い箇所を貫いて落ちていく。
ためらう。けど追いかけたい気持ちがわずかに上回る。
「こっちは任せて!」
マドカが買って出てくれた。
「行け」
キラリが背中を叩いてくる。
ふたりに押されるようにして、シャルを追いかける。
迷わず足下の雲を消して落ちる。自由落下しながら、天井近くの太陽の明かりを背に、シャルを探す。
金色雲から降り注ぐ雨と雪の下、数え切れない細胞たちが溶けて、境界線を失い、赤く染まっていく。青い核が赤い海の中でいくつも漂っている。
落下するなかでシャルを見つけるのは、そうむずかしくなかった。赤い海から触手が伸びている。赤黒い肉と骨を組み合わせた触手が数え切れないくらい伸びて、彼女を捉えようとしていた。
彼女は身を翻し、分厚い本を手に空中で軽やかに触手をかわす。そして空いた手で触手に触れる。落下しながら伸ばした手は弾かれて然るべきだと思われるのに、彼女の小さな手はむしろ触手の中に潜り込んでいく。
金色雲を出して飛んでいくんじゃ間に合わない。手元に出して雲の力で減速してから、足を地面に向ける。今度は足場を出して、飛ぶようにして駆けていく。
足下が気になって仕方がない。触手は私をも狙うはずだ、そう思ったのに、眼中にない。雨と雪を降らせる雲にさえ向かっていかない。シャルしか狙わない。なんで? シャルの力が誘因?
「なんで! なにも相談せずに!」
怒鳴りながらも顔を歪める。
私もよくやる。しょっちゅう相談せずに無茶をする。それがどんなに心配する人たちを振り回しているのか。いま、たぶん人生史上最大級に骨身に染みてる。
「シャル!」
叫ぶけど、届かない。
近づく間にシャルは落下速度を変えずに触手の中に潜り込んでいく。
死者たちの赤い海の中へ。いや、海というより厳密には湖なのかもしれないけど。それも地中のね。感覚的には、もう海だ。そんな海から伸びる触手ってなに。
だれが? 死者たちが望んであれを? まさか。
だれかが操っているのではないのか。だれが? どこで。どうやって?
わからない。なにもわからないから、とにかくシャルを助けたい。金色を蹴りながら、シャルを飲み込んだ触手に向かう。
多くの触手がシャルを取り込んだ触手に群がり、絡みついていく。なぜか。雨と雪だ。触れるたびに表面がぐずぐずに溶けていく。崩れていく。雨と雪が触手を破壊するんだ。
シャルを使ってなにかをしたいのか。それともシャルがおびき寄せているのか。なにかをするために。わからないから、近づく。直接聞かなきゃ始まらないなら、私は彼女のそばに行く。
分厚い触手が融合していき、まるで大樹のように変わっていく。構わない。金色をめいっぱい両手に集めて、突き進んでやる。そう意気込んで、幹へと突き進む。あと一キロ、五百メートル、百メートルを切っていよいよという、まさにその瞬間、
『引け!』
十兵衛が怒鳴り、反射的に目の前に金色の壁を出した。壁を弾けさせて、小さな金色雲をやまほど発射させる。雲で押し出すようにして、私を後ろに吹き飛ばす。直後、私が近づこうとした箇所を赤い飛沫が何筋も通り抜けていく。鋭く打ち出された液体だと、飛沫から滴が散っていくのを見て取り気づく。
足下から飛んできた。だれかがいるのか。やっぱり触手が私を狙っているのか。わからないまま、金色雲を出してしがみつき、旋回しながら眼下を睨む。
遅れて聞こえてくる。地鳴りのような音がする。地の底から。いや、それだけじゃない。肉の樹と化していくものからも。触手同士がこすれ合って鳴る轟音をかき消す勢いで響き渡る。
思わず狐耳を伏せるくらい、暴力的な刺激に頭が割れそうになる。だが、まだ終わりじゃなかった。
「あ、あああ、ああ」
地の底から女性の声がした。ひどく老いてしわがれた声が、うめきながらも声量を増していく。これまでと比じゃない、巨大な洞穴全体に響き渡らんばかりのボリュームに、樹から聞こえる音がかき消されてしまうほど。ほとんど痛みに達する刺激だった。
突然、背中に衝撃を感じる。ふわ、と砂糖菓子のような匂いがした。
「ぼさっとしない!」
キラリだ。空飛ぶ星に乗っかって、私を抱いている。なぜ?
振り返った。空に漂う私の金色雲が黒い点、それもおびただしい数のなにかに飲み込まれてしまっていた。黒い点の集まりが通り抜けたところにはもう、なにも残っていない。食われたのか。あの黒いなにかに。
「う、く」
キラリの顔を見上げる。青ざめている。すごく気持ち悪そうだ。
「だ、だいじょうぶ!?」
「交代して」
私を抱く腕の力がみるみる弱まって、そのまま落とされそうに。あわててキラリの身体を抱きしめる。だけど、今度は星がふっと消えてしまった。落ちる。
急いで金色雲を出し直して、キラリを押し倒すような格好でへたり込む。
構わず飛んだ。黒いなにかの群れを気にしながら。
なんでトモじゃなくて、キラリ? そう思って、全速力で飛び回りながら周囲を見渡して、やっと気づく。空に浮かべた巨大太陽や巨大金色雲の周辺に黒いなにかの群れが殺到している。ばちばちと雷光が光り輝いていた。既になにかの撃退のために動いていて、余裕がなさそうだ。
「キラリ!」
返事がない。なにがあったのか聞きたいのに。
顔を見たら白目を剥いて泡を吹いていた。やばい。
『よからぬものに当てられたな』
タマちゃん?
『起き上がれまい』
無茶して助けてくれたのか。身体と金色雲で挟むようにして、キラリが落ちないようにしながら周囲を気にする。見渡すかぎり、地底から飛び上がって空を目指している。
それを避けるとなると、かなり荒っぽくならざるを得ない。あらためてキラリをぎゅっと抱き直した。目に宿る力が黒い群れの軌道をちゃんと捉えている。ぼうっとしていたらわからなくなるくらい、圧倒的な物量で迫ってくる。
正体が気になって仕方がない。
眼下を見ていて気づく。青い核が割れて、黒い群れが出てきている。それらがすべて、空に向かってくるわけじゃない。空に向かってくる群れも、そのすべてが無事じゃない。雨と雪に当たるたびに、すこしずつ数を減らしている。
逆に地底に残っている黒い群れが蠢きながら、なにかを象っていく。
最初、それは平面に見えた。この巨大な洞穴の床を覆う黒い絨毯の繊維のようにも見えた。もちろん、それは十分な目測ではなかった。平面は波打つ。雨と雪に打たれて苦しみもがくように。波打ちながら洞穴の真ん中をおへそにして、黒い絨毯越しに人の輪郭が浮き上がってきた。目と鼻、口。乳房、股。
世の中には様々な彫刻がある。布をまとった裸婦像なんていうのも。箱根で出会った彫刻から、興味本位であれこれ調べていて見つけた。薄布越しに女体を彫るというコンセプトで、それはもうエロスの極致、フェティシズムの極北のような作品があることを知った。布の薄さ、女性の肉体の起伏、性的魅力や性器の生々しさ、そのすべてを大理石にて再現するという、ありとあらゆる意味で変態の、それも女体が好きでたまらないであろう彫刻家たちの作品を。
最初はそれを想起した。私の太陽に照らされてできあがる陰影が、黒に差す影を作り、黒い皮膜越しに浮き出てくるのだと。でも、違った。雨と雪を防ぐ黒いものの群れで自分を覆っているだけだ。事実、黒い皮膜のようになった群れが雨と雪に溶かされて、輪郭の主を晒していく。
赤い。赤黒い。あの細胞たちに残された血肉を粘土細工のように集めてこねてできあがった素肌が露わになっていく。
思い浮かべた実に見事な数多の彫刻、それを彫った人たちに申し訳なくなるくらい、露わになった素肌はぼこぼこと凹凸があった。皮膚病を患っているかのような荒れ具合だ。窪みに雨と雪、あるいは溶けた雪の水がたまっていく。それがひたすら染みるのか、痛むのだろうか。
「あああああ! ああああ、ああああああああああ!」
彼女は悲鳴をあげながら身もだえた。巨大な洞穴の地面いっぱいになるくらい巨大な人体が暴れるたびに崩れていく。腕や足が折れ、指が割れる。首がもげて、乳房がどろりと溶けていく。割れた先、胸から離れた箇所が黒い群れに化けていく。そうして、目をこらしてやっと見えるかどうかくらい小さな、恐らくは普通サイズの人が露わになる。
洞窟の地面サイズの巨人分の血肉が黒い群れになるのだ。必然、おびただしい数の黒いなにかの群れが飛び始める。とてもさばききれる量じゃない。
いろいろと覚悟を決めなきゃならない。すぐ決まるものじゃなくて、思わず触手の樹を見た。まだ動きはない。シャルはなにをしているんだ。大丈夫なのか。
雨と雪の勢いは変わらず、もう既にルルコ先輩、マドカと狛火野くんたちは精いっぱいやってくれている。
腹を決めるにしても、キラリを抱きしめた状態で無理はできない。やるなら防戦。なにをどこまでできるのか。考えるだけで気が滅入りそうになる。
だから覚悟といっても、これは、死ぬかもしれないという覚悟だ。
そんなの覚悟なんかじゃない。
心が定まらない私なんか気にせず、眼下の女性が起き上がる。全裸の、およそ三十代くらいの女性が両手を掲げた。すると、黒いなにかの群れが一斉に彼女の手の内に集まっていく。
背中になにかが当たった。いくつもだ。それが体中を這って、彼女へと向かっていく。キラリの身体にも当たってしまった。動き回り、私の手元にやってきたものを見て、ようやく黒いものの正体がわかった。
ゴキブリだ。黒くて巨大な。
総毛立ち、声にならない声をあげながら、金色雲に金色を山盛りに注ぎ込んで、私とキラリの身体を包み込み、虫を追い出す。私たちを包んだ金色雲に虫の群れが当たり、今度は食らうことなく彼女のもとへ去って行く。
金色雲をうっすら透けている状態にしないと状況が把握できないから意識して半透明の状態にしているけれど、できれば見たくなかった。おぞましいなんて言葉じゃ済まない。
キラリの身体を急いでまさぐり、続いて自分の身体を探る。尻尾ももちろん必死で触って確かめる。一匹たりとも存在しない。してはならない! もう一度、キラリの身体をまさぐり直す。不十分なのはいけない。気絶したままなんだ、キラリは。できればなにも知らずに済むようにしてあげたい。
制服姿だから急いで脱がして、潜り込んでいないかポケットからなにから探していたところで、キラリが「ん、ちょ、え?」と目を開けた。それから半裸の自分と私を交互に見て「うおおおい!」と、聞いたことのない野太い声と共に強烈な尻尾ビンタを食らってしまった。
ちがう。ちがうんだ。ちがうんだけど説明がむずかしい!
「な、ななな、なにしてんの!?」
「やっばいのが潜り込んでるかもしれなくて! でも、だいじょうぶだったから!」
そう言いながらも、こっそりと黒い例の虫たちが飛んでくる上部後方の金色雲部分を不透明な状態に変えておく。逡巡がなかったといえば嘘になる。
「落ち着くまで、ここにいて。私はあいつに会いに行く。キラリはマドカたちと合流して、シャルの願いを突き止めて」
「は!?」
固まるキラリを一回だけ強めにハグ。背中から倒れるように金色雲から身体を通して落下する。
視界いっぱいに数え切れない蟲が見える。ぜんぶクロゴキブリなのか。
雨と雪はやまない。打たれるたび、重なるたびに溶けていく。
見た目が同じなだけの、霊子でできたなにかだ。
そう自分に何度も言い聞かせるけど、無理だ。不快さゆえの害虫としてイメージが浸透して久しい虫の、それもおびただしい数を前にすると体中に突然、氷を不規則かつ大量に当てられるような衝動に突き動かされる。
生理的嫌悪感は、それが広告として、あるいは先入観として築き上げられたものに過ぎないのだとしても、克服するのがむずかしい。サメ映画ばかり見ていると、すべてのサメが人を襲うし、食べるのが大好きだと勘違いしては、海を泳ぐのが恐ろしくなるように。水族館の分厚いガラス越しに見る姿に脅威を抱くように。もしガラス越しなら笑っていられても、同じ水槽に落とされて平気な顔をしていられるかは別なように。
落ちていきながら、遠ざかっていく金色雲を見る。動揺しながらも固まっているキラリが見える。もしも気持ち悪さが変わらないようなら? そう考えて、マドカたちのほうへと飛んでいくよう、金色を一粒飛ばして雲に指示を送っておく。キラリが自分の星で移動するよりは不自由だろうけど、動けないなら、雲が運んでいってくれるように。
身を翻して迫る地上を捉える。
雨と雪と共に落ちながら、露わになった彼女を睨む。
キューブをつかんでスーツとヘルメットを展開。ヘルメットの機能でズーム、女の実態を探る。キューブを用意してくれたシャルをはじめ、ノノカやノンちゃんが調整してくれたスーツとヘルメットの機能のおかげで虫にぶつかられても触感がなくていい。気持ち悪さはすこしも変わらないけど。
バイザーに投影される女性を睨む。合わせて地面までの距離、落下速度、到着予想時間までが表示される。どこまで親切かつ多機能なんだ。このスーツ。もっともアイアンマンとかのスーツとちがって、飛ぶのは自力でやらなきゃだめだけど。
語るべきはスーツの機能でも、落下時間でもない。
「赤い、虫?」
彼女の身体はでこぼこしたもので形作られていた。それだけじゃない。いまなお、そのでこぼこが蠢いている。なぜなら赤く滲んだ液体に濡れて、クロゴキブリよりも大きな虫たちが這い回っているからだ。女性に見えるものさえ、作り物に過ぎなかった。
虫たちが羽ばたくから風でも舞ったのか。そうじゃなくて、ルルコ先輩がサユ先輩を呼んで空気の流れを作ってくれたのか。そもそも本当は空気の流れが生じるように設計されたのか。
いずれにせよ、雨と雪が横殴りに降りつけた。両手を掲げて虫たちを集める彼女の身体を濡らす。赤く濡れた虫たちが身もだえるように身体をくねらせて、逃げていく。まるで芋虫のようだった。ゴキブリじゃなかった。赤黒く濡れた芋虫たちは、まるで精肉店で見る動物の肉と変わらない色に見えた。彼らもまた、ぐずりと溶けながら落ちていく。そこでようやく、わずかに見えた。
腹部、乳房からおへその下、太ももの半ばくらいまで、その内側が露わになる。
そこに、いた。小さく細く、骨と皮だけに見える男がすっぽり収まっていた。
女を着ているのだ。そいつは。
一糸まとわぬ姿で、赤黒い芋虫たちで作った女の中に収まっている。
頭だけが大きい。
ヘルメットのイヤホンから警告音が鳴る。地面までの距離が迫っている。金色雲を出して落下速度を減速しながら、そいつの前に降り立った。
さぞ恐ろしい呼び声を予測したが、男は両手を掲げたままで「ひい」と情けなく悲鳴を上げた。
「く、くそ! リンタロウのやつめ! どれだけ俺たちの邪魔をしたら気が済むんだ!」
リンタロウ。
それは私たちを大いに悩ませた魔術師の名前であり、マドカの兄の名前でもあった。
つづく!
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