第二千九百八十一話
当たり前だけど、資格もなければ備えもない私たちを鉄道会社の窓口の人が「さあどうぞ」を見送ってくれるはずもない。当然だ。見回る人たちと同伴でっていうわけにもいかない。なんで? いまここにいないから! 地上の線路が氷に覆われた、なにか仕掛けがあったのではなんて話もあり、警察の警告もあり、検査に回ったなんてことではなく、たんに地下鉄も道路もずっと麻痺していていないだけ。
交通インフラが攻撃されると、それだけで脆弱になる。人口過密都市だからとかじゃない。どんな都市でもそうなるものだ。インフラは重要。当たり前だけど。
そう。当たり前なんだ。
足りることはないっていうのも、あんまり当たり前すぎることだ。
それとは別に、足されたものがあるっていうのも当たり前だし、なにがどう足されたか、足したかは、個別に異なる。
警察ならいざ知らず、高校生たちを線路に行かせるのは無理だと論陣を張られると私たちだけじゃなく、佐藤さんたちも強気に出ることができない。お父さんの本棚にあるコナンや金田一なら行けそうだけどね。良くも悪くも芸能人だってバレてるっぽい私を線路に入れて、なにかあったら責任を負えないって言われちゃうと無理だ。
破綻! とはいかない。隔離世に行けばいい。
この手が打てるのが私たちの強みだ。でも、それでいいのか? とも思う。
佐藤さんとあねらぎさんが現世を見て回るということになり、私たちはいったんみんなと合流することに。アリスちゃんは快諾してくれた。お姉ちゃんたちもだ。キラリチームは行けそう。あとは、私たち線路調査チームだ。
みんなが協力してくれる、というわけにはいかない。だってもう、現状は既に戦闘状態にあり、捉えようによっては感覚的に、もはや内乱や戦争に近い。こんなのに付き合えるか、関わりたくないっていう人もどうしたって出てくる。
それだけじゃない。
「あの、先輩。ちょっといいでしょうか」
ワトソンくんが話しかけてきた。
理華ちゃんたちと同行しなかった一年九組チームだ。シャルもいる。
「一年生の有志からなにかできることはないかって声があがっているんです。御霊との縁がまだ結べていない生徒も、結べている生徒も。私のように一定の修練や鍛錬を積んでいる者からも」
それはただちにマドカたちや、通信を繋いで小楠ちゃん先輩たち、先生たちと協議にあげる内容になるが、一年生、後輩を巻き込めるかよという意見は根強い。一方で、すこしでも人手が欲しいなかで温存していいのかよっていう話もある。
ただね?
「一部の精鋭を除いた希望者には、なるべく危険な現場は避ける形で、なにかをさせてやってもらえないか」
シャルは「参加の意義」を解いた。意欲を育てるべきだ、体験をしてもらう機会を逸するべきじゃないという。なによりも、
「先輩諸氏は自由に積極的に介入し、挑んできた。その背中を見てきた十代のこどもたちだ。放っておいたら、目の届かないところへ自発的に飛び込んでしまいかねない」
監視・管理しないと手に負えないという。
それはそう。私たちが足してきたものが、良くも悪くもっていうか、この場合はかなり悪い方向に作用しかねない。言い返しようもない。いまからまさに鉄火場に挑もうとしている身では。
「自衛隊が対処するような規模になってきている。むしろ、いま出動していないことを疑問に思うレベルではないか。今後もこの状況が続くのかどうか、わからない。そうなるなら、なおさら、なにかをしてもらったほうがいい」
『たしかにね。で、精鋭の当ては?』
「九組に目端の利く生徒がいる。彼が既に目星をつけている。ワトソン、ワン、スチュワートのように隔離世に絡む組織の出身者が中心だ」
いたんだ!? 何人か! 知らなかったというか、知ろうとしてこなかったというべきかな。
トモやギンみたいなケースもあるかもしれないだろうし、読めないなあ。一年生。
「許しが得られるのなら、ワトソンに手配を頼む。彼ならチームの指揮の経験があるそうだ」
『あなたに頼みたいところなのだけど』
「私にはやることがある」
そういってシャルは画像通話先に見せるよう、スマホのカメラに左手を見せた。指輪をはめている。
私と彼女の契約の証だ。そう。カラオケの部屋で歌いあい、いろいろ確認して、腹を割って話した。その結果を彼女は手にしている。
「私の見立てでは、地下鉄に消えた人々の調査にも活きる。恐らくだがね」
シャルを中心に、議論に集まったみんなが彼女を見た。画面の向こうのみんなもそうだろう。
「私にも御霊の縁があった。きみたちに正しく敗れて、この姿になって以来、その縁を失っていた。あるいは、無理してつなぎとめていた縁がとうとう切れた」
理華ちゃんの術で、彼が恐らく最も弱くてくみしやすいと考える姿に変えられた。
彼が傷つけ、汚し、踏みにじってきたものに変えられた。それが少女の姿だった。
お姉ちゃんが彼の罪を放っておくはずもなく、様々な罰を与えられて彼は、いや、シャルはいまを過ごしている。
彼が足してきたものを、シャルとなって償いつづける。足していく。
減らせることはない。私たちの人生において、減らせることはない。あらゆる行いが、結果が、足されていく。
だからこそどんな人生でも、いつでもやり直せると説くし、人生のマニュアルたる性格は変えられると説く。一方で、いまこれからをどんなに選んでも、過去はなくせず、消えない。減らせない。
「その縁を、彼女の秘宝を仲介して、再び結び直すことができた」
だから、あとはもう、いまからなにを足すかだし、これまで足してきたものといかに付き合うかだ。
いまからだけにはならない。死ぬまでずっと、足したものすべてを背負っていくのだ。
「私の御霊なら、死者を、その魂を検知し、干渉できる。地下に消えた人が死しているのなら、その痕跡をたどることもできるだろう」
「「「 おおおお 」」」
東京山林奥地で彼の術と戦ったことのある私たちは知っている。
多くの死人を操る彼の術を。奇跡のような魔法を。けれど、魔法のなかでもおぞましいとされる、その内容を。
「それでも断言しておきたい。精神力は銃弾を止めない。術や魔法は現世の刀を防げない。根性が金を生むことはない」
『自衛隊が出てくる、ないし、自衛隊か、警察の強行手段を想定した相手の反撃になすすべはないということね?』
「ああ。在日米軍もいる。現状が維持されていることのほうが、冷静に考えれば、よほど異常だ」
士道誠心学院高等部、大学部の学生が、都市部を襲う巨大般若たちを退治している。
たしかにそっちのほうが、どうかしている。シャルの言うとおりだ。
関東中を襲う異変はもちろん厚木や横須賀の米軍基地さえ標的にしているだろうから、彼らがなんの対応もしないなんて、そんなはずもないよね。
精神論は現実を左右しない。
当たり前だけど。
銃弾にさらされたら、必要なのは根性だのなんだのじゃない。命を守るあらゆるものだ。その場から無事に逃げられるために必要な、あらゆるものだ。精神論なんかじゃない。
『だとしたら、引き際が大事ってことになる』
「なるべく迅速に周囲の警戒をしつつ、一点に敵を誘導しながら退避を進めたほうがいい。あまりにも動きがみられないことが気になって仕方ない」
『みんなの町を守っているのに、背中から撃たれちゃうってこと?』
「そこまでは、まだ言わないさ。ただ気にしておいてほしい」
シャルはなにかを警戒している。
「いまは、有事だ」
彼女の明言に私たちは怯む。
「漫画やアニメ、映画のヒーローと違って、私たちは撃たれたら死ぬ」
「骨折したり、身体のどこかを傷つけられたら、それだけで身動きが取れなくなるよね」
トモの指摘にいやなことばかり思い出す。
帯刀男子さまに骨を折られたときのことなんかは特別、鮮明に。
「どれだけの時間、治療に必要か。わからない、よね」
心へのダメージも深刻になる。
言い換えると、脳に記録されるから深刻になるのでは。
「あたしらが狙われるのは、どう考えてもおかしくない?」
「有事だと言った。既にあらゆる政治的展開に繋げられる状況になっている。クローンが国会に入り込んでいたくらいなんだ。あらゆることを想定して動くべきだろう」
懸念材料がある、と。
理華ちゃんが博士さんと呼ぶ花泉さん、そして彼女といた政治家の三人とも、一定の懸念を持って私たちに頼ってきた。
その懸念とは具体的になにか。
社長たちとやりあっていたとき、私は自衛隊と思しき集団とやりあったし、理華ちゃんたちはクローン製造にかかわっていたとおぼしき施設の爆破と、それを見に来た警察官を目撃している。
「足のはやい者たちに協力してもらい、生徒がひとりも巻き込まれないよう調整を図るべきだ」
『警察には?』
「体力の限界など理由をつけて休息を取る旨を緋迎伝いに連絡してしまっていい。だが、同時に可能なかぎり迅速に周囲の索敵などを進め、既に狙われていないかどうかを調べておきたい」
『わかった』
シャルの警戒はそのまま、私たちがなににいつどのように狙われるのかわからないことを意味している。
「人が敵みたい」
「人っていうか、政府?」
「雑多に捉えるから、恐ろしくなる。クローン製造にかかわった者、その利権に接続した連中が政府与党、自衛隊、警察から役所や企業に至るまで、あらゆるところに潜り込んでいるという推定だ。それは、決してすべてではない」
みんなが悪党なわけじゃない。
だけど、悪党じゃないから問題ないってわけでもなし。
あらゆるグラデーションがあって、色だけが問題を示すものではない。
漫画や映画じゃ、それくらい明確なほうがわかりやすいけど、現実はもうちょっと複雑だ。
だけど人間は、その複雑さを嫌う。
膨大な情報、見て知った要素の先がある。なんにだって、だれにだって。だけど、その複雑多様な情報よりも、自分の知識や技術、体験によって構築される土台のもとに、自分の知りたいよう、わかりたいよう、感じたいよう、考えたいように処理したがる。理解も認知も認識も、常に限界がある。おまけに恣意的だ。
そんな私たちだから、どんなに勉強しても、技術を得ても磨いても、体験をしても、それを恣意的に咀嚼・消化・利用してしまうことも多い。
別にクローンだ利権だなんて知らずに協力する人もいれば、協力側にいながら不満を持つ人もいて、そういう人たちのなかにも人に加害をすることをためらわない人と、クローンに情を寄せる人もいたりして。とにかくめちゃくちゃいろんな人と立場がある。選択と行動がある。
そういうものを見落とす、というより、想像しない。しようともしない。
悲しいかな、読み取り切れるものでもない。なにせ情報が膨大過ぎるもの。だから、ひとりよりもみんなでやろうよって話になるんだけど。みんなでやろうとするほど、ひとりひとりのてんで違うところが摩擦になったり、負荷になったり、傷つける原因になったりする。
それらは私たちの意欲、選択、行動のブレーキになる。
知ること、考えること、動くことへのブレーキに。
傷つくほど、傷つけられるほど、ブレーキの作用は強くなる。脳と身体は記録して、凍結した情報の影響を常に送り続ける。
それは恣意性をもって、私たちを歪ませる。
だから歪んでいない人はいない。恣意性のない人もいない。
「敵が警察や自衛隊に紛れ込んでいる可能性があるの。どこにどれだけ潜んでいるのかわからないんだから、気をつけて損はないよね」
「気をつけてこ!」と声を張り上げる。
「あんまり雑なまとめは」
「わかってる」
言い募るシャルの唇に指を当てて止めた。
話したほうがいいこと、しなきゃまずくなる話がやまほどてんこ盛りなんだ。本当は。
だけど同じくらい、具体的な脅威をだれもがそのまま受け止められるわけじゃない。
そのまま考えられるわけでも、感じ取れるわけでもない。
ましてや、それがどういう意味を持つのかだって、受け取り方は様々なんだ。
いい悪いじゃない。能力のあるなしという単純さにも落とし込めない。
だけど、みんなが集まって聞いている通信では扱いきれる内容じゃないかもしれない。
みんなすごく不安そうで、あんまり限界に近いように見えるから、この先はもっと閉じた少ない集団から始めて、ちゃんと橋渡しを考えないといけない気がするよ。
シャルはたぶん、製造開発者たちがどれだけ深く根を張っているかわからないと見ている。シュウさんだけじゃなく、刑事課の宇佐美さんたちさえ押さえてしまう立場の人が警察内部にいて、製造開発者たちと繋がっているのではないか、と。警察だけじゃなく、自衛隊内部にも同じように食い込んでいるのでは。だとしたら、多数に紛れるわずかな敵じゃなく、組織だった集団として想定するべきかもしれない。
たとえばソウルの春で見たハナフェ、ハナ会みたいなものがあるかもしれない。ちなみにソウルの春を見たかぎりの理解では、陸軍士官学校卒の一部の人間たちが作った私的組織だ。
その手の組織や集団は、それ自体は別に珍しいものでもなんでもない。日本国内にも政治組織からなにから、様々ある。お茶の間に流せない、明らかにぎょっとするような主張をしている組織もある。原作から映画になった「探偵はBARにいる」だと、けっこうきわきわな組織が出てくるけど、それでも踏み込めないようなのって、日本にも普通にある。
その繋がりまで疑いだすと、きりがない。
ただ、そうした既存の組織との繋がりさえ疑えてしまう。それくらい、製造開発者と、その成果物の広まりは私たちの想定を超えて広まっている。必要とされる資金力だって、並大抵のものじゃない。CSKDだけじゃない、企業が何社か関わっているのなら? 懸念を抱くべき先が数多ある。
シャルはそこまで踏み込みたいのではないか。
全体の脅威の想定ができないと、それに対する備えもできないのだから。
「整理しよう。これからの動きについて」
あえて話の主導権を取って内容をまとめて「以降は込み入った話をするので、いったん解散」とみんなに伝える。マドカがすぐに「十分くらい休憩ね」とみんなに号令をかけてくれた。三々五々に散っていくなかで、シャルに目配せをした。
私の想定よりも、具体的な組織の名前や人間関係などを出しながら、シャルの予測を並べ立てていく。それを横で聞きながら、思う。
たとえば。
もしも私がマフィアの、それもろくでなしの人々の犯罪や、薬物中毒への知識を持ち、それをどうにか伝えようとするなら、殊更のようにマフィアをろくでなしだけで描くだろう。ゴッドファーザーなんて、すこしも描けやしない。彼らの日常がどんなものか。実に偏見に満ち溢れた異常なものとして描くだろう。
その逆で、むしろアウトローのカッコよさとか、強さとか抜け目のなさとか、そういうものを魅力的に描きたいと思うのなら、とにかく素敵にかっこよく、筋のある男たちにして描くだろう。その作劇のなかに、薬欲しさに破滅していく人たちが出るよう、あの手この手で薬を売りさばいて儲けるクソッタレなんかが入り込む余地はない。
ありていに言えば、どちらも私の土台のうちに閉じたものだ。
現実に存在するマフィアの、あらゆる立ち位置の人たちの実態や日常を、加害や抗争を描けやしない。土台にあるものを盛り上げるためのものとしてしか、描かない。しかも、それで十分とさえ思うだろう。
戦争映画もそう。ハリウッド映画はいっぱい見てきた。軍の協力を得て撮影された映画は、軍内部における暴行や差別、加害をとにかく脱色する。透明なものにして、そもそも存在しないか、あるいは被害に遭うやつが悪いかのように描く。それさえ、さらりと流すくらいに済ませるかもしれない。
お父さんのビデオライブラリにある昔の日本のドラマ、九十年代から二千年代の作品をお父さんとお母さんがたまに見ているのを、トウヤとふたりでなんとはなしに眺めてみることもしばしばあった。そこではジェンダーやハラスメントが、あんまり当たり前にさらりと存在していて、だいぶきついものを感じたけど、たぶん、当時は、それが当たり前のものだった。引き算する必要さえ感じられないものだった。
戦争映画は引き算が。昔の日本ドラマは引き算の必要さえ感じない感覚が。
じゃあ、たとえば反戦を訴えるものなら、どうだろうか。
ドイツ版の西部戦線異状なしは戦場をなるべく克明に、しっかりと描いていた。塹壕の不衛生さも。まだまだ足りないと思う人もいるかもしれないけど。ハリウッド版の西部戦線異状なしよりは、まず当時の状況ありきを前提に撮影されていたように思う。逆にいえば、ハリウッド版は明確に、戦争の悲惨さや問題を言ってしまうし、そのためにシーンを構成していく。
この世界の片隅に、野火、硫黄島からの手紙。殊更に反戦を唱えず、そこで起きたことをなるべくありのままに捉えて、映像化したなら? 反戦を訴えずとも、自然とそのように伝わっていくし? これらの映画でさえ「反戦的じゃない」と感じる人も出てくる。まあ、この三作品の、とりわけ野火を見て反戦的じゃないっていう人がいたら、すげえなって思うけど。世界にはいろんな体験による成長・発達があり得るのだから、そう感じ取る人さえいるかもしれない。
この世界の片隅にだと、すずさんは別に殊更、戦争に乗っかるでも反対するでもなし。当時の日本人の少なくない人たちが体制や世情に流されながら、それを内面化して、気づけばすっかり「戦っている」「戦争に参加している」気になっている。
学校でいじめとくくられてしまう暴行や窃盗、いやがらせの数々だって、いじめられる当事者じゃなければ、私たちはその流れに対して自分なりの処理をしてしまう。いじめられるとなると、ますます自分に閉じていく。そうならざるを得ない。
そうやって閉じて、現実をありのままに見ないし、情報を真に受けない。
自分の土台でどうにかするし、完結させたがる。
田舎のおじさんたち、おじいちゃんズの中には男女差別がえげつない人がまあまあいて、家事は女がするものと言ってはばからず、冠婚葬祭で稀に会うと「お茶もってこい」とちびだった私にさえ言ってくる。実にやばい。
いとこのお姉ちゃんがきつめに叱ったり、時代錯誤だって言ったりしたって、彼らの土台に新たな概念が組み込まれることは、まずない!
ちびだった私がお母さんに「宿題しな」「勉強は?」って言われても、のび太くんと同じで絶対にしないのと同じくらい、まずない。
意欲をもって行わないかぎり、私たちは土台で片づける。
そんなの意識低い、成長できない、努力しろ、勝てないって言ったって、そんなのは観客席の野次と同じだ。直接いったらどうにかなるかって? ならん! むしろ関係性が悪化するし、行動にもつながらずに終わる。
田舎じゃ気まずい沈黙が未だに続いているし、のび太くんはずっと宿題やんないし、私も最近までは本を読んだり勉強したりすることさえなかった。
自分の興味と意欲で勉強し始めたからって、必要だから情報を集めたからって、それは結局、自分の土台を強化するだけになっている、なんてこともある。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」で見た赤軍のリンチ事件の過程はすごかった。どんなに勉強しようと、知識を入れようと、体験を積み重ねようと、それが自分の土台のためでしかなければ、おかしなことになっていく。
資本主義も共産主義も、どっちにだって頭のおかしな主張をする人たちがいる。いまの日本は前者が特に目立ってる。でも、主義思想がどんなものであっても、一定数、どうかしてるとしか思えない主張に行きつく人たちが出てくる。フェミニズム、ポリティカルコレクトネスにも、そのアンチ側にも。
基本的に、だれもがみんな、それぞれの偏りを持って生きている。
だから現実や実情を直視するとなると、膨大な情報をいかようにでも恣意的に歪んだ視点で捉えて処理して済ませてしまうから、おかしなことになっていく。それを避けられない面さえある。
フェミニズムも、ポリティカルコレクトネスも、その文脈や歴史を学ぶと、なにが重要であり、どのように実践していくかがわかるのか。
残念ながら、それだけじゃ足りることがない部分が、あらゆるものと同じように存在していて、「実録」のなかで着替えたりアクセサリーをつけたりする女性を標的にリンチ対象に仕向けていく人が、まさに、その足りることがない部分をもって敵視していく。
当時の感覚でいうフェミニズムに「女は男の愛玩道具、精液のゴミ捨て場」みたいな印象への打開があって、だからセクシーな格好や、男の作ったかわいい文化への抵抗や反逆があったみたいだ。それは、女性が肌を見せたり、セックスを楽しんだり、こどもを妊娠して出産したりすることへの敵愾心、怨恨、憎悪、蔑視を併せ持っていた。
いまでもそういう感覚こそが「自分のフェミニズム」になっている人が少なからずいるだろう。
一方で、そうじゃないという向きがあるんだ。
女性性という性別で差別されることがない、あってはならない、私が女性であろうと、社会的に女性らしいと見なされようと、どんな服装でいようと、そんなもので差別される世の中であるべきじゃない。男性と女性が飲食店に入ったとき、最初に声をかけられるのは決まって男性っていうなら、それは間違いだ。女性がどのような服装であろうと、それは女性が着ている服装に過ぎず、それをもって娼婦だなんだ、セックスしたがってるんだなんだと、加害の口実にするな。そう見ているお前の加害性の問題だ。それこそがフェミニズムじゃないか、という思想がある。こっちこそ、私は本筋だと思っている。
男性には男性の性にまつわる差別や抑圧、強迫が、男性社会、父権社会のなかで明確にあるのだから、それは女性の性解放運動であるフェミニズムのように、男性の性解放運動で対処するものじゃないか、ともね。
でも、じゃあ、それが本筋だと思うからって、みんなの価値観を統一していいってことにはならず、できるものでもない。
これをなにかの話にするとき、私の本筋を正しさとして、それ以外を間違いとして描いたら? それはもう、実態とかけ離れていく。現にリンチするような人がいる。フェミニズムを知った頃は男っぽい格好でごまかしていたけど、本当はドレスを着たいとか、メイクを楽しみたいと気づいて、それをしていいのだと思えるまで長い時間がかかった人もいる。
世の中は理不尽だらけで、理不尽との付き合い方や付き合えなさもやまほどあるんだ。
ハリウッドのアジア系といったら、いまでもまだまだ目が細くて、顔の起伏に乏しい役者さんになりがち。日本人役としながら日本人じゃない、日本語がつたない人がやることもある。たまの日本人でこれだ。当然、ありとあらゆるマイノリティが、配役の段階から恣意的に選ばれているし? 描かれ方さえ問題のあることもしばしば。
そうした差別や雑な処理をなくして、現実に添うように、他の要素と同じくらい真摯に。そのための実現と運動が、ポリティカルコレクトネスの一部だ。
エッチなのをやめるのがポリコレじゃない。だけど、そう捉える人も膨大にいる。
そうじゃなくて、現場や配役、撮影時の加害や問題をなくす運動がある。演技指導といえば性的加害ができる、みたいな加害風習さえ、ハリウッドに限らず、日本でも、他の国でもある。
こういうのを問題視すると、今度はどう撮影すればいいのか、面倒だ、みたいになってこじれていく面もある。
世界の実情は、実態は、まだまだこんなものじゃないよね。こんなの全体のわずかな部分の捉え方にしかならないのだ。映画でいうなら、キャスティング、配役、現場の撮影スタッフ、日程、予算、それらの現場の実際の動きからフォローに至るまで。人間関係や環境。なにをどう撮るのかにおける実務上のあれこれ。
まだまだあるぞぉ!
こうした全体を見てかなけりゃ話にならないんだ。
足りることがない。
戦争だって、文字は二文字、読みは四文字。だけど戦争に至る流れから、各戦地の状況、戦地から離れた国側の動きに至るまで、「この世界の片隅に」でいうすずさんのような個人レベルから、軍隊、軍の組織や学校、教育実態、世界情勢、様々な人たちや国々の思惑、経済界の狙いや企みなど、もろもろ合わせると、とにかく全体を見るとなると、途方もない。
まず現実をありのままに。
これがもう、とんでもなく、むずかしい。
それって「悪役にはこんなつらい過去が」みたいな話じゃない。そういう、なにかをどうにか処理するための話じゃない。むしろ処理せずに、とにかく知り、とにかく検証して、とにかく考えるための手段だ。
なんでそんなことをするのかって?
二度と繰り返さないようにしたり、同じか近しい状況になったときにすこしでもマシな対応ができるようにするためだったり、様々な用途があるよ。
だけど自分を補強して正当化・責任転嫁・免罪するためだけの生半可な思想、主義では、これらに耐えられない。よっぽどむずかしい本を何冊読もうと、あるいは「行動ありきだよぉ!」となにも考えずにいようと、成果だの結果だの出そうと、それじゃだめだ。
思想はもっと自然なものだし、万能なものでも完璧なものでもない。主義も同じだ。足りることがない。
だからこそ、その具体性が重要だし、具体性がなにかを正当化・責任転嫁・免罪するほどの力を持つこともない。
だって、優しさだけが金を作らない。病を治さない。苦しみに寄り添うには優しさだけじゃ足りない。
だからこそ、足していく。必要なものを、具体的に。
優しさがいらないんじゃない。必要だ。だけど優しさだけじゃ足りないんだ。
愛も希望も、欲望も願いも、努力も、なんでもそう。
それだけで足りることはない。だけど、それらがあったほうがいい。足されたほうがいい。
そのためにも具体的に、なにが、どういるのかが重要だ。
それは現実の膨大な情報、自分のこと、他者のこと、あらゆる学問さえ含めるし、それさえ完璧たり得ない。いつだって足りないなにかがある。
そんなのひとりじゃわからなから、いくらでも間違えるし、やらかすし、傷つけられるし、傷つけることさえある。
あらゆる映画、あらゆる漫画、あらゆるアニメは、そのすべてでないにせよ、けっこうな作品が描いている。
助けを必要としている面を抱えた人がそこら中にいる。
悪党の中にさえいる。
みんな足りない。おまけに自分の土台で済ませたがる。それじゃ足りない。
そんな現実を足掻いて生きてる。すずさんだって、そうだった。
お父さんはお母さんの田舎でガンダムの話をしない。プラモが好き、戦争談義、ロボット談義が好き。だから反戦だの、えぐい死に方シーンだのはスパイスで、反戦的じゃないというおじじがいるからだ。
ガンダムさえ反戦かどうかの議論が尽きないそうだけど、「安易な反戦思想」だけでは、戦争のむごたらしさ、兵器をかっこよくする人間の心理とか、市民への加害や実態などをそのまま描くことはしないんじゃないかな?
ロボットを含めて兵器がどんどん効率化され、殺害手段がどんどん対象の単位を拡大していき、それと同時に国内外への人間が数値になっていく酷薄さも、その生々しさも描くことはしないんじゃないかな?
むしろ、そうしたがる人を露悪的に描いてしまうんじゃないかな?
現実には、いまのアメリカ大統領みたいな、明らかにやべーやつが存在する。露悪的に描くだけじゃ足りないような人がいる。そういう人に投票した人たちがいる。
露悪的にすると、これだけで終わらせてしまう。だけど、自分の思想に逃げてしまわず、本来的な思想の軸線を頼りに、現実をきちんと描き切ることだってできるはずなんだ。アメリカでいえば、いろんな根深い歴史的背景や経済状況、貧富の格差、人種問題などのうねりがある。これを省くことはできない。
実際は主義や思想さえ、私たちが都合よく使えてしまう土台に堕してしまう。たんなる正当化・責任転嫁・免罪の道具になってしまうのだ。
土台に閉じたら?
見ないんだ。
現実を。
都合のいいようにしか。
自分の見たいようにしか。
それじゃ描けない。
その膨大な実態をわかりやすくする完璧なレンズなんてない。
省略もできない。簡潔にもできない。
圧倒される情報を真に受けるだけのものがいるんだ。
残念ながら、それを可能にするには思想だけじゃ足りない。主義でも足りない。
なのに、ううん。だからこそ、この圧倒されるような情報量に押しつぶされないよう、理不尽に潰されてしまわないようにするためのなにかを求めずにはいられない。
酔えるだけの、酩酊していられるためのなにかを求めずにはいられないんだ。
友情だけでも、勝利だけでも、努力だけでも足りず、血筋や生まれだけでも、裕福さだけでも足りない。
常に、足りることがない。
憲法の記述だって、それだけじゃ足りない。
ちゃんと明記されている。不断の努力が必要だって。
当然だ。
どんなにのび太がジャイアンに憲法の記述を突き付けたって、それで怒れるジャイアンが止まるはずがない。彼の理不尽な暴力がなくなるはずもない。
多くの自殺者や死者を出した不登校児などのフリースクールは立件され社会問題になったけど、同じくらい、殴って蹴って怒鳴り散らして言うことを聞かせるしかないと信じる人たちはいなくならない。かつての東京都知事をはじめとする名だたる支援者が少なくない人数で支援していた。そういう実態だって、簡単には対処しきれない。なくせない。
ついつい「これが答え」「これで解決」、それはコスパやタイパなどがいいほどいいかのように捉えがちだけど、そんなことはない。
足りない。ぜんぜん足りない。
足りないときほど、相手のせいにしたり責めたり逃げたりする。
それじゃいけない。
圧倒されるような情報を真に受けて、しっかり分析・検証して、よく考えなきゃならない。
地道にこつこつしくじりながら、やらかしながら、対処して、足してかなきゃならない。
それでもなお足りないくらいだ。
不断の努力。
言うは易く行うは難し。
ビルの連続爆破から今日までの、あらゆる変事を通じて、私はその圧倒されるような現実の量に押しつぶされては、たびたび、自分の土台でなんとか済ませようとする。
それがひとりの限界なのかもしれない。
みんなで肩を寄せ合って協力しているけど、明らかに、まだまだ、足りない。
お金だけでも足りないし、人手でいったらとことん足りない。いまなんか、関東中に般若ロボットが出かねない状況だ。戦うないし、ロボットをなくす人手が足りない。
足りないものを具体化しようとするほど、私の知らないこと、わかってないことが壁になる。
世界はもっと膨大なもので構成されているのに。
私はろくに知らないのだ。
それでも絶望している暇はない。
できるかぎりをして、すこしでも足していかなければ、押し流されてしまう。
立てろ。波風を。
飛沫を手掛かりに、不足を、未知を、無知を見つけろ。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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