第二千二十九話
一日の時間は、どんなことがあろうと変わらない。
なんだっけー。社会科の授業だっけ?
一日の時間は国によって、その国の時代によって変わる。
江戸時代は一日を昼夜に分けて、、さらに六つずつの長さに分割したという。十二支を使った呼び方もあったそうだ。「子の刻にうんちゃらー」ってノリの台詞、時代劇でたまーに見かけません? そもそも時代劇みない? 面白いよー。どれもおすすめ。
わりとざっくり。いまみたいな時計のない時代は、時計の変わりになるものを利用していたり、だいたいこれくらいという見なし時間を利用していたり。日本の夏と冬だと日暮れ、明け方の時間が異なるけど、そういうときにも「まあまあ、だいたいでいいんじゃね」という場所もあったり? いやいや、ちゃんと決めてる人たち、守っていた人たちもいたんじゃね? という話になったり。
さすがにそこまで覚えてない!
覚えているのは、そうだなあ。日時計! 薄くて長くて削った板を盤面の上に立てて、日が差してできる影を見て「いまなんじ? だいたいこれくらい!」と示していた。
時計メーカーが美術館を銀座でやっているそうだ。そこのホームページなんかに時計の歴史がある。古くてごつくてめかめかしい、歯車などを用いた時計なんかは、見たくてもなかなかお目にかかれるものじゃない。
いろんな段階を経て時計は姿形を変えて私たちの生活に概念として密着している。
スマホを見ればわかるし? 街中でもわかる。駅や空港、船着き場にもあるんじゃないかな。コンビニにもわりと壁掛け時計が設置してあるよね。
だけど、たとえば犬やネコにとっては「時間? 二十四時間? グリニッジ? なにそれ」だろう。クジラもイルカもシャチもそう。アリたちや木々にとっても一緒。
なんか人間が言ってんなあ! みたいな感じじゃない?
いや、そもそも気にも留めないかな。
私たちの先人が時間という概念をあれこれ組み立てて、現在では「一日は二十四時間。一時間は六十分。一分は六十秒」と学ぶ。義務教育過程で、あるいはそれより前におうちで。なので、学ぶ前は? そんなん知ったこっちゃなくて、おとながなにか気にしてるくらいのもの。
日本暮らししか知らないと「日中は太陽が出ていて、やがて日が暮れて夜になり、朝になる頃に日が昇る」のが当たり前だけど、白夜がある地域も地球にはある。朝起きて、夜になっても? ずーっと明るい。白夜の地方で生まれてからずっと過ごすと? 白夜があるものとして過ごすし、大概の日本人はそういう地域に出ていって過ごさないから、ちがう。
すごく雑に分けたら、両者の一日の感覚ってどうちがうだろう。どう同じなんだろう。
自分たちの経験から「こんなものだろう」と作り出す当たり前概念から「白夜なんてないさ。白夜なんて嘘さ」というのだろうか。ネットはおろか、テレビもラジオもない時代だったら、どうかな?
いまはラジオもテレビも、もちろんネットもある。
スマホやガラケーを持って、あるいは自宅やネカフェのパソコンから、通信回線に接続して検索すれば見える、はず。ガラケー持ってないから、どういう感じかわからないけどさ。
当たり前概念を越えられるだろうか。
いじれるかな? 編集できる? あるいはするべき? やめとくべき? その分かれ目となる条件は具体的にどんなものがある?
ややこしい話になる前に話を戻すと、当たり前概念は変えにくい。
自分の考え方や価値観の影響をもろに受ける。
、だから私にとって一日の時間は、どんなことがあろうと変わらない。
でも自分の考え方や価値観の影響をもろに受けるからこそ、簡単に変わる。
楽しいこと、忙しさのただ中にあると体感としての一日はあっという間に過ぎ去る。
このふたつの文の間に、なにを読み取るのか。そもそも読み取ろうとするのか、しないのか。そのあたりも言いだしたらきりがなくて、ややこしい話になっていく。具体的にいうと要素の数だけ話題が増えちゃう。増えた要素のぶんだけ組み合わせが複雑になるから、ますます話題が増えてしまう。きりがなくてたいへんなのだ。ああ、ややこしい!
そんなことを考えなくても生きていける。
もちろんそう。
それでよしかって?
そうはいかない人もいる。
だからいろんな学問が発展していって観測や分析に利用したりする。
どうでもよくて、考えなくていいのなら? いまもまだ、原子石器時代よりもうちょい前、石も火もなにも使わずに過ごしていただろう。
極端?
だね。
そうもいかないんだよね。
なにも考えないわけにも、かといって考えすぎて「もうだめ」となるわけにも、なかなかいかない。どっちにしたって参っちゃう。日本でもなにも考えずにいたら、かなり際どい状況に追い込まれる。これが裏通りを歩くと殺されかねないなんて地域なら? もっとずっと悲惨な結果に繋がる。
「ううん! 焦げついてる」
晩ご飯の炒め物で使ったフライパンを洗うべく、カナタが金属たわしを持とうとしたから「はい、これ」とスポンジを渡す。それからフライパンを「いい手があるの。貸して?」と受け取り、お湯を張る。次に洗剤を多めに投入して、よく混ぜて、置いておく。
「え、と?」
「ステンレスでもなんでも、そういうたわしだと傷がついちゃうからさ? テフロン痛むし。鉄製でも、そこから焦げつきやすくなるよ」
「そうなの!?」
この人ほんとに刀鍛冶絡みのお勉強をしているんだろうか。
そう思うくらい、抜けてるところがある。
でも知るタイミングって、案外ないのかも。私も去年まで、お母さんにあれこれ言われるから頭に残っていただけで、まともに調べたこともなかったよ。
「そうなの。こうやってつけこんでおくといいよー」
「お湯だしたのは?」
「油が浮きやすいから。あとは、なんとなく? 冷えるとこびりつくイメージがあるの」
「おお」
おの形で口を開けて、しみじみとフライパンを眺めている。
「これ、いつまで?」
「んー。調理する、すぐ洗う、とか。そもそも調理で焦げつかせるようなやり方をしない、とかじゃなくて、こうなっちゃったら。そうだなあ。食べる時間分はあけとくと、洗う頃にはすっと落ちるよ?」
むしろ食事前に焦げついたまま放っておくと地獄が待っている。
面倒なら? やっぱり焦げつくような調理はしないのが吉。
カロリー気にして油をけちる。テフロン加工じゃないもので炒め物をする。
このあたりかな。
「こういう調理器具ひとつひとつに使い方、お手入れの仕方、洗い方があるの。なんかかっこいいからとか、なにかで見たからとか、そういう理由で選んで雑に使うとひどいことになる。あるいは、買い換えを渋っても? 焦げつきやすくなるよ」
「お、おお。そっか。勉強になります」
青澄家のキッチンで滅多な発言はしないぞ、とばかりに唇を結んだ。
警戒しすぎだと思うのだけど、今日もお母さんに「ところでカナタくん、家には帰ってる?」と問われてた。気にしてるなあ。どっちも。
まあ、親の立場からしたらもの申すよね。娘の恋人が家にずーっと泊まってるんだもの。追い出される家もあるんじゃないかな。お母さん、何度かカナタに言ってるし。そのわりにカナタさん、うちに居続けてるし。気になるよ。
あとは、ほら。
親の世代からして痛感してるんじゃない?
性教育のせの字もなかったって。
それは人の権利に始まって合意や過ごし方に繋がり、いろいろ段階を経てようやく「それで人と人とがふれあいたいときはどうするの?」となり、幼稚園とか小学校とかであり得る内容から順を追って、やっと「好きな人ともっと触れあいたいときは?」「セックスしたいときは?」になっていくし? 思春期になれば「自分で自分のこと触るのは?」とかいう話も含まれていく。
でもやっぱり土台に「わたしはいい、だけどあいてはいや。どうしたら?」とか「あいてがしてくる、けどわたしはいや。どうしたら?」とかの話がある。親がやなこといったら? 先生がやなことしたら? こどもはどうしたらいいの? とかね? いやだと思ったときのNOの伝え方とか、ちゃんと伝える。
そういうの、ないもんね。
ないからさ?
親と子の関係性も。子と学校の、とか。親は親と社会との、とか。きりないくらいの繋がりに不安がある。実際に被害もあるし? となれば当然、加害もある。
思春期の恋人となると、どうしたって性加害と性被害の話は心身に大きな傷を負いかねないから。やっぱり、気になる。
当人はろくに意識せずにのほほんとしてたら?
それでもやることやってたら?
なにか起きたらどうしよう、とか。起きてからじゃ遅いんじゃないか、とか。自分は親としてどうしたらいいだろう、とか。きりなく浮かぶかもしれないし、それどころじゃないくらい、自分の体験から生じる痛みに苛まれるかもしれない。
考えずにはいられない。
考えないわけにいかない。
だけど、なんについても考えていられるわけではない。
そのさじ加減はなかなかむずかしい。
あのね?
付き合う条件の中に「ひとり暮らしして、自分でしっかり生活できること」と入れているケースがあるんだって。
だけど、この手の相手のなにが問題だって「一緒に過ごすとダメ出しをしてうるさい」「自分のやり方以外認めない」「ふたりになった途端に自発的にやらない」などなど、あり得る残念な可能性も残っているところ。
なんなら私もカナタに「ちょっと待って」をした。
行動や実践が手間だと考えるほど「考えずに済む」ように口出しをしたり、結論を押しつけたりする。
たとえば「ひとり暮らしして、自分でしっかり生活できること」。これに「あなたはふたりになっても私がなにもしなくてもしっかり生活できること」を紐づけるケースもあるし? 自分はしっかりしても、相手がそうかもしれない。でしょ? それにさ。風邪ひいても、ルナさまきても「それ、きみはいままでしっかりしてきたんでしょ? だったら変わらずやってよ」と言ってくる可能性も、ぜんぜんあるわけで。
一日の時間は、どんなことがあろうと変わらない。
それって言うほど重要かな?
それだけですべてが済むのかな?
そんなわけないじゃん。
指標は指標に過ぎない。ひとつの結論はすべての結果を保証しない。強いて言うなら担保の取れたことについて、こうであると結論づけているもの。学問なら、みんなで査読したり検証したり引用したりしながら「どうじゃどうじゃ」とこするイメージ。
心理学の有名な一部の実験は、いままさに「だめじゃん」ブーム到来みたいだ。
監獄実験なんかはいい例かもしれない。選出された人たち、実験中、いくつかの要素で「それ実験でやっちゃいけないよね」という行為が認められたとか。再現性が見つけられなかったとかね。
それでも私は変わらず心理学は大事な学問だと思うけど、かといって再現性なんかどうでもいいとは思わない。むしろ、よーく調べて積み重ねていくうえで、課題が明らかになったら? これまでの他の学問へのイメージと同じく、丁寧に積み重ねていく他ないんじゃない? と考えるなあ。
そうした丁寧さで組み立てていくには、いまの自分はあまりにも曖昧で粗雑な部分が多い。
むしろ、人はその残念さと共に生きていく他ないとさえ思える。
やれること日に日に増えるもの。やれないこと、期待を許さない環境もまた多いもの。
アマテラスさまのお屋敷で「娘は戦場で生まれた」というシリアのドキュメンタリー映画を観た。いまも紛争地域は存在している。移民は増え続ける。南米からアメリカへの移民の話題も大きい。国に戻されるとマフィアに狙われるという。地域ごとに抗争を繰り返す危険な地域があったり、そうでなくても産業が麻薬ビジネス以外に期待するにはあまりに弱く、貧困から先が見えない地域だってある。
教育があれば、と言いたくなる。けれど先進国が明らかにしているのは教育は格差を可視化しているに過ぎず、貧困層から富裕層へのスライドを助けるにはあまりに足りない、という話も聞くので、済まない。それでもテストの点数で計られているだけマシで、これが自主的体験や経験によるものとしてしまうと? ますます格差は拡大するという指摘も強い。だって、ほら。資産家のほうがこどもにいろんな経験をさせられる。お金があれば。
如何せん、社会の一面ひとつどころか、ひとりの一面ひとつとっても、要素があまりにも多すぎて、到底語れない。その語れなさと共に生きていく他ないのだけど。
わかりやすくて、済ませられるほうが、いい。
すくなくとも、受ける。
なぜか。
解決したという報酬の感覚と刺激を得やすいから、かな。
留まれないんだよね。
問いがある、という状態に。
まるで深めにスクワットしたまま「はい、そのままー」と言われたような感じ。
早く立ちたい。あるいは座りたい。楽な姿勢になりたい。
そこに固執するほどね?
一日の時間は、どんなことがあろうと変わらない。
これだけでいいのだ。これだけがいいのだ。
目先のよかった感や、目先のしんどさ解決できた感が大事になる。
そこに遠大な目的はない。入り込む余地? そんなのぜんぶ、振り払う。
かくして自分史に根づいた偏見の維持が達成される。
おこげはこすらなきゃだめ。
ほんとに?
達成されるはずなのにストレスを感じることなんて、よくある!
偏見だめ絶対とか、それを抱えるお前だめー! とか、そんな話、してないんだよ?
私はそういうところがある! っていってんの。
そのうえで、こう続けたいんだ。
ストレスはこのままはやばい! という知らせ。
逃げるべし! という知らせでもあるし?
私の気持ちが叫んでるから、よく耳を傾けてという知らせでもある。
そういうのぜんぶ加味して、たとえば「趣味で挑戦中に感じたストレス」や「目標に挑んでいるときのわくわく中のストレス」なら?
工夫して楽しめる遊びがあるという知らせの可能性もある。
カナタの質問になんとなくで答えたところを掘り下げてもいい。
意見に固執することはない。
それは自分を守ることとはちがう。
依存するものが少なすぎて圧力が高まってつらいよ、という知らせだと読み取っていい。
「ねー」
「まだー?」
暇を持てあました子たちがキッチンに入ってきて、背伸びをしてシンクを覗こうとする。
カナタが洗剤の残った手で輪を作って、シャボン玉を出せないか試みた。ひとつだけ小さなのができて、ふわふわと落ちてすぐに割れる。
「わ! な、なに?」
「あれ? やったことなかったか? シャボン玉」
「なんかとんだー」
「カナタだめー」
弾けた雫が顔にかかったのか。驚いた子に急いでカナタが謝る。
その合間に残った洗い物を済ませてしまおう。
手荒れひどい勢は洗い物でビニール手袋をするのがおすすめ? そもそも食洗機があればよくね? とか、いろいろあるけど、手で洗うのがなんとなく落ちつくときもある。
フライパンも妥協して気合いで洗っちゃおう。ひととおり済ませて生ゴミ類をまとめたあと、三角コーナーや排水口を綺麗に洗う。この時間だけ、いつもよく宇宙に吸いこまれているような不思議な気分になる。
百均で買った新しいクロスで水気を拭いとり、食器も調理器具も元の場所へ。調理場所からシンク、コンロまで綺麗に拭って、やっとおしまい。
週に二度ほどハッカ油のスプレーをする。
いつもぴかぴかを維持するのは、地味にたいへん。
「これならどうだ」
キッチン用のタライにお湯と洗剤を垂らして即席シャボン液を作り、親指と人差し指とで丸を作って、再び挑戦。さっきよりも大きなシャボン玉が浮かんで「おお」と反応するぷちたち。さっき雫を浴びちゃった子は私の後ろに回り込んで、警戒していた。気持ちはわかる。目に染みちゃうもんね。
おめめ痛くないか尋ねて、おでこに当たったというので確認して濡れた布でそっと拭いとる。
もし目がしみたら? 水でよく洗うというよね。洗面器に水をためて、顔を入れて目を開け閉めするとかさ。痛くてずっと気にしているようなら、迷わず眼科に相談だ。私は行ったことない、は理由にならない。お大事に。
カナタが出すシャボン玉遊びに乗っかる子もいれば、ゲームーと引っ張る子もいる。顔にかかっちゃったのが気になっている子には「シャボン玉だしてみる?」と問いかけて誘ってみるよ。夜にキッチンでやるよりも「お庭でる?」と誘って。
そういうところに気が回りませんねえ!? とカナタを睨む気持ちの日もある。今日はちがうよ? 今日じゃないけど、前にそういう気持ちになったときって、気持ちと行動までの間に段階がないの。
感情が湧いたら、言動に移さずにはいられないんだ。
今回の敵は、それじゃだめなタイプだ。
いままでの人たちもそうだけど、今回はもっと危ない。
なので?
いかにして、化かすのか。
相手は策を練って行動している。常に先手だ。
いまのところすべて相手の思惑通り。
トモだけじゃなく、マドカやシロくんたちみんなにも伝えた。
警察が安心して仕事をできるように、お膳立て。
相手のルール、相手のやり方に巻き込まれるな。リードさせるな。
同じゲームはしない。
お腹が目立つお母さんも、すこし仕事が残っちゃったと嘆いていたお父さんも誘って、みんなでお庭でシャボン玉遊び。そこから転じて、気持ち早めの花火セットを出す。
音が出る派手なものはなし。ご近所さんは長いお付き合いばかりなので、そうそう怒られないけど、だからってなにしてもいいわけじゃない。
線香花火くらいにしとこう。
大騒ぎできるときのために取っておけばいい。
お母さんやカナタが線香花火の火花やシャボン玉に働きかけてデフォルメのきいた動物にしてみせる。見てる子たちの中で「やってみたい!」という子が出てくると、ふたりはそれぞれに教えにかかる。私は私で化かしてみせようか。けど、楽しんでくれたらいいなと願うところで止めておこう。
したいことへと向かうけど、それはあくまで自分の進む先。
信じて任せられる形を模索する。
好き放題して、なにか恐ろしいことをしようとしている男が相手なら?
彼の調子がますますあがり、油断するほうへと演出してみせよう。
『また、祭りか?』
十兵衞、今回はね?
祭りは手段なんだ。
私はね?
男が企む舞台すべてを乗っ取ってやると決めているんだよ。
つづく!




