第千七百二十六話
金色をばらまく。
とある世界的に有名なねずみさんが魔法を使う前。
彼はとびきりのやる気にあふれた、いたずらっ子だった。
指先をくるくる回す。
お父さんとお母さんや、美希さんたちの世代にヒットした楽曲の数々が燦然と輝く音楽クリエイターさんがいてさ? その人が「世界に流通している一社のスマホの起動音や呼び出し音を作曲したいなあ」と語ったそうだ。
世界中の人が聞いてくれるから。
すごっ。そういう発想があるんだーって、当時は驚いたものだった。
ねずみさんはどうだったろう。彼の産みの親は?
わからないけど、彼の名前も、ねずみさんも、あの会社の映画の入りの音楽も、ティンカー・ベルの妖精の粉のエフェクトも、世界的に有名だ。
ピーター・パン。永遠のこどもと、永遠のこどもたちの世界。妖精のティンカー・ベルがいて、ワニにお尻をかじられちゃうけど怖いフック船長と海賊たちがいる。
あまりに有名で、ある症例の名前に利用されてるよね。ピーターパンシンドローム。ただし症例といま言ったけどさ? ぺでぃあ先生の記述いわく、心理学および精神医学の正式な用語じゃないし、アメリカ精神医学会出版の精神疾患診断統計マニュアルには記載されていないという。
じゃあ精神疾患診断統計マニュアルとは? 米国精神医学会、通称APAの精神疾患の診断分類をまとめたもの。診断する際の基準と分類の内訳がずらーっと書いてあるものみたい? がっちがちの専門書で、二万円を超えるもの! わお! もうちょっとお手軽値段で、精神疾患の分類と診断の手引なんていう本もある。けどたぶん、お医者さんないし、志望する人が買う類いの本なのかも? だとしたら、本を読む前に学んでおかなきゃって本がやまほどありそう!
わお……。
専門的な知識って、修得するの、すごいね?
そりゃテストもするなあ。自分がどれほど理解しているのかを確かめるために。
だって、そうした知識でなにをするかってさ? 患者さんを相手にするんでしょ?
とびきり繊細な対応が求められるし、知識もしっかりとバージョンアップしてなきゃだし、知識だけじゃなくて経験値も欲しそうなところで。なやましい!
育つのに必要な過程って、なんなのかな?
すくなくとも、その百分の一も私は知らないからさ?
知りたいし、勉強してみたさがあるよ?
そんでもって、いまの私にはとてもじゃないけど、あの人ってこうじゃない? だなんて言えない。まだ、なにをどう勉強したらいいかもわからないのに! 経験だって積んでないのに? ねえ!
わからないよ。
たださ?
専門家のみなさんも指標を持っているんだね。しかも、それは共通化して広く普及しているもので、改訂していくもの。
当たり前っちゃあ、当たり前。
お仕事に就きました、じゃあお勉強終わりにはならないのよ? 進展する研究と集合知は、ちゃんと学んでいかないと修得できないのよ?
で、ピーターパンシンドロームは、書籍に収録されるものではないものみたい。ぺでぃあ先生には「だれでも持っている問題の一種」として記載されている。
わりと「あいつはああいうところ、たぶんこういう名前の問題があるのでは」という話を聞くことがある。しかもそのとき、病名や属性が口にされがち。だけど、それが研究されまくって集合知に強度と精度を確認されたものだとは限らない。それを言う人がみんな、しっかり学び、しっかりバージョンアップし、研究を探り、知識を得ようと貪欲でいるかっていったら?
そんなこと、ないよねえ。
その程度の雑さ、ふんわりさで済むなら、魔女狩りの時代に、あれは魔女だと示され、ときに拷問されて心が折れて、ありもしない自白を強要された人たちみんなが魔女だということになる。もちろん、そんなことはない。
現代で同じ構図でいくと?
ホームランドでも似たシーンがあったけどね?
たとえば組織が疑いのある人物を捕獲し、拷問を加えながら、自分たちの求める物語を語らせようとする。
現代では、そうした行いによって得られる情報の信ぴょう性には疑問の余地が非常に多く残されるとして、人道的な面だけでなく、合理性の面からみても否定されているっていうよね。
痛みから逃げたくて人は嘘を吐く。痛みは過剰になるだけだ。操ろうと多種多様な痛みを与えようとするが、嘘でもなんでも痛みから一瞬でも離れられるならと「なんでもしゃべる」し、いっそ死んだほうがましだという状況になり得るし、果てはないし、求める情報と、その精度の高さのすべてを一切保障しない。そのため、手法として否定されている――……だったかな。
構図としては、似たものって現代でもありがち。
もっと抽象化して述べるなら?
強い立場から、弱い立場の人に暴力を振るい、強い立場の者にとって都合のいい振る舞いを行なわせる。
こう読み解くのなら? もうね。それこそ、そこらじゅうである。
線引きを行ない、線の向こう側の人物ないし、特定の属性の持ち主が、線の手前側にいる自分たちにとって都合のいいように振る舞うことを求めるのなら?
外食している最中に、ぷちたちが賑やかでさ? 露骨に舌打ちしたり、聞こえよがしにうるせえとか、私が黙らせるべきー! って吐き捨てていく人、いたよ?
そういう人たちにも、見て取れるもの。
だれでも持っている問題の一種だ。まさにね。
だけどね? これがどれほど精度の高い見込みなんて、わからない。
さっきの二冊、タイトルを並べたけど、実際に手に取ったわけじゃない。なのでもちろん、中身もわからない。出版社さんの試し詠みはちらっと見たけどね? そこに書いてある基準を見て、それで診断ができるって? そういうものじゃあ、ないでしょ。こわいよ?
本の内容は、読まなきゃわからない。
車の構造について、知識として知っていても、実際に整備ができるかっていったら別問題。作れるかどうかも、やっぱりもちろん当たり前だけど別の話。
七つの会議じゃ、ネジが大事。なんなら主役かも?
そのネジの剛性、製造難易度、そして求める品質と、その管理。車にだって、ネジは使うでしょ? 他にもたくさんの部品を使うよね? それって、どうするの?
車の構造について知ってる博士たちも「――……それって密林で注文できる?」って間抜けに聞いちゃうかも。
ポストアポカリプスもので近代製品を製造できない理由のひとつに、部品の調達がまず困難ってのがあるよね。
材料調達。加工。物流。部品加工。物流。製造工場。
ありとあらゆる場面に、人と物の流れが存在する。技術と知識と経験値も。機械化できても、その機械化にまず、たくさんの人と物の流れが関わるし? そこにだってやっぱり、知識! 技術! 経験値! ほしいよね。
衣食住。そこに関わる花の数々。文明の利器。至るところに人と物の流れがある。言い換えれば、そこには人の仕事があり、お金の発生源がある。
その流れが断ち切られたり、押さえつけられたりすると? たちまち社会は回らなくなる――……なんてね。
そこまではわかんないけどねー! 経済とか、社会とか、そういうののお勉強、まだまだちっともできていないもの。経済学の本、分厚すぎません? ねえ。
なのでね?
ねずみさんを描くことの大変さも、あの妖精の粉の魔法の描き方も、私は知らない。
スタジオではきっと、ノウハウとして、学べる状態に仕上げられていると思うのだ。見て盗めとか、自分でなんとかしろじゃなくて、教えるからきちんと学んでね? になってると思うの。
手引きやマニュアルって、そう考えると知識だし、技術だなあ。
知識にせよ、技術にせよ、その伝達もね? やっぱり知識だし、技術だなあ。
えんどれすになりそう。
始まらないから、そろそろ話を進めると、ねずみさんが出てきて「やあ、はるひ! 魔法の使い方を教えるよ!」って言ってくれないかなあ、なんてわりと真剣に思い始めている。
なぜって?
短歌が思いつかないから!
「まずさあ。場所だよね。場所」
本まみれ。圧を感じる本棚。
ときめかないぞ?
ときめかないものとして詠むの?
えええ? それはどうなのお?
ノノカのくれた百人一首のお札を出して、床に並べて眺める。
なにかいい案でないかなーって思って。人、それを無駄な足掻きという。
小野小町先輩の一首に、かろうじて引っかかりという手応えを感じるかな。
あのおじさんがやまほどの本を憂いながら作っている間に、どれほどの月日が流れたか。
本たちもそうだ。
現世で生きる、ありとあらゆる人々の悲喜こもごも、場合によるだろうけどさ? 鮮やかに輝くときもあれば、分厚い雲に月明かりさえ遮られた夜中のように見通しの悪いときもあるだろうに。いまじゃ、他と変わりなんてわからない本になり果てている。
もちろん、本は人じゃない。人の霊子から、その歴史を書いたものみたい。
で? やっぱり、ねえ? 人と異なる刺激で描かれた時間のすべて、読まなきゃわからない本になってしまっているところはさ?
引っかかる。
札を手にして、読んでみる。
「花の色はうつりにけりな、いたづらに。我が身世にふる、ながめせし間に」
そうは言っても、変わらない。
心がときめかない。
現世の霊子を採取して、おじさんが本にした。
ここはおじさんが作った世界だ。現世を参考にして。
言ってしまえばおじさんの霊子だけがある場所。
カゲくんの影世界みたいなもの。領域。空間。世界。あるいは、部屋。
単調なんだ。ここの色は。
おじさんのこと言えないけどね。私の色も、まだまだ単調だもの。
これが絵の具で、キャンバスを利用するのなら? 湿らせた筆を使って、異なる色の絵の具を足して、混ぜ合わせる。れっつらまぜまぜ。色を足していく。二色に留まらない。
アニメ映画だったかな。なんの作品の、なんて人だったか覚えてない。ただ、キャンバスに、その人が作ろうとした色と、素材として選んだ色が見て取れる情景を覚えている。
あれに無性に惹かれた。
色を組み合わせるのはむずかしい。小学生の頃、絵の具を混ぜては思ったものとどんどん離れて汚い色になっていくのが、いやだった。つらかった。逆に、綺麗になったときはさ? そりゃあもう! すごく嬉しかったっけ。
綺麗なもの。私が好ましいと感じる色。
出そうとした挑戦は、当時の幼い私にしてみたら無難なものばかり。
なのに当時の私にしてみたら、すごくどきどきの挑戦だった。
綺麗になるかな。
見たら思わず「わあ」って言いたくなる色になってくれるかな?
私、うまくやれるかな?
わくわくしたし、怖くもあったっけ。
だけど、一色しかなかったら? 試すことさえできないんだ。
ノンちゃんが教えてくれた。学ぶとき、他のことを学ぶの、すごくありなアプローチだって。
青の特性を学ぶとき、黄色と混ぜてみる。赤と混ぜたり、緑と混ぜたり。混ぜる色が濃いものでもいいし、薄い、淡いものでもいい。変化をつける。変化は青だけに制限していると、与えられない。与えにくい。
他の色があればいい?
たとえば、青と茶色。混ぜても鮮やかな色にはならないのでは?
色の感性はそれぞれだしさ。
なにに例えられるか、知識や技術次第じゃないのかな?
せっかく化かせる私なら、茶色と青をそれぞれに化かして、組み合わせて飾ることだってできるはず。それはどちらか一色だけじゃできない遊び。ちがうことが増えるからこそ、やれることが増える。
歌も、そうかも。
一首を置いて、重なるかどうかじゃない。
同じじゃないんだ。そもそも、最初からちがうものだ。
本を魚に例えるように。化かしてみない? って思いついたように。
この状況についても、同じじゃないかな。
札をアゴに当てる。ぴた、ぴた。前後に振りながら、思い返す。
宝島で四校で暴れたときのこと。
星蘭から吹き荒れた、それは見事な花畑。あれも化け術に似てたし、転化のようでもあった。
葛葉さんちのこどもがふたり、星蘭にいる。ひとりは、花を鮮やかに扱うのだと美希さんに教えてもらった。
花。
ここにないもの。
一色だけの世界は、引き算の先にある領域にある。
そこに足すのなら? なにを足して、なにを組み合わせ、どんな色を描くのかな?
そういう魔法だ。そういう歌を探してるんだ。
なんだろね?
そばにある本に金色を飛ばして、触れた先から化かして魚にしてみせる。けれど、本が拒むのか、ぐにゃりと形を変えたのに、すぐに本に戻っちゃうのだ。
まさに、おじさんの世界。おじさんの領域。
ときめく変化が示せなきゃあ、霊子はその気になってくれない。
映画館を思い描く。
おっきなおっきなスクリーン。おうちじゃ真似できない音響設備。そして、あの空間。
映画。観客たち。
観客と観客。
ちがうもの。その組み合わせ。
どんな色を作り、描くか。
映画は変わらない。観客も変わらない。
ただ、観客はその後の自由がある。映画はどんなに不評でも、納品したあとで手直しはできない。間に合わない。追いつかない。上映中にお客さんが立ち上がって「ちょっとさあ、それどうなの!?」って言っても、映画は当然、答えない。本もそう。生ものの舞台で仮にそんなことやろうものなら、つまみ出される。なので、独特な緊張感がある。オーケストラの演奏を聞いているときに、もしもマナー違反でスマホの音が鳴ったら? お笑いで、大事な間が着信で刺激されたら? たまらない。対応できる演者さんすげえ、という話はあっても、対応できないとして責めるのは酷だ。それくらい、観客の自由度ってでかい。
マナーも踏まえたうえでいうと、ぜいたくな遊びなのだと思うんだ。
どんな色を作り、どのように自分の世界を描くか。
あらゆる作品は、自分の色を探し、世界を知る対話の相手になるのだから。
なんてぜいたく!
しかもね? その先がある。
作品を通じて、その先を思い描く。
足し合わせるときに組み合わせた自分じゃない、自分の中にない色を知る。そういう、段階が。
それは本の題名を見て、本の中身をすべて知っているとうそぶいてしまえば終わるくらい、ごまかしやすいもの。なかったことにしやすいもの。知らずに済ませられること。
だから、花。
文字も、絵も。音も、歌も。旋律も、鼓動も、花。
パンだけでも、寝る場所だけでもない、花。
心地よく刺激できる花を飾るとき、心がときめいて、なにかやる気になれちゃうなら?
ミューズ。意欲が生まれる。神の祝福のようであり、自分を強く縛りつける呪縛のようであり。表裏一体。
本はおじさんを生かしている。けれど、同時に殺してもいる。
祝福と呪縛。どちらも与える本は、おじさんにとっての色。おじさんを浮き上がらせる色。
トモとシロくんに、神に成る雷を。ギンにあらゆる欲望を断ち切る刃を。狛火野くんに現世に残された物語の一振りと、涙の雨を。
マドカに光を。キラリに星を。
私に金色を。
だけど、その外に、他に、別の色を。
私たちに、私たちの手にある花とは異なる花を。
相手の花を変えるのではなく、私たちの手元にある花を変えるのでもなく、別の花を新たに飾るとするのなら、なにを飾ろう。
なんだろうなあ。
まどろみ悩み考えているだけだと、それこそいたづらに時が過ぎてしまいそう。
その間にきっと、花の色はうつりにけりな! 変わるんだろうなあ。
同じ花を抱えていながら、私たちは花に同じ感情を抱き続けられるわけじゃない。
ミューズたりえる人を見つけても、その人に入れあげて終わる芸術家ばかりじゃない。推し活にしたって、ねえ? 推しひとり、常に一筋! って人だけじゃないでしょ?
なので、もしかすると経験するごとに、意欲も変化していくかもしれないね?
だからか、ぷちたちの全力さが眩しいし、そばでぷちたちの意欲を浴びていると、自分の色褪せ具合にダメージを受けちゃうのかもしれない。
さてさて。
花だ。花。どんな花を飾ろうか。
交渉って、お互いの花を踏まえて、間に飾る花の話のような気がしてる。
自分の花は、自分で。相手の花は、相手で。尊重するし、傷ついたとき癒やせる術がやまほどあるといいし、集合知は日々、改訂されていくのだろう。膨大な土台の集積によって。そこには人と物と、時間と資源と、祝福と呪縛の流れがやまほどあるのだろう。
そんなことは知らないし、わからないまま生きているとしてさ?
済ませられるし、済ませられなくなったときに困るし、その先がないかもしれないけれど。
それでも世界が続いていくとして。
新世紀のラブソングだと、ぼくたちのしんせいきーって歌詞が続いていくとして。
なにがいいかな?
自然がないよね。ここには。
あの花畑は素敵だったけど、花だけじゃなあ。
本を魚に例えた。それを活用するのなら、ここを居心地のいい海にするという花の飾り方はどうかな?
夏の海にするの。
魚たちが泳ぎ出したくてたまらない海に変えるんだ。
魅力的にして、泳ぎたい海にして、誘う。
「いや」
海はだめだ。
たぶん本棚もまだ、乗ってくれない。すぐに元通りになってしまうはず。
ならば金色を水に化かすまでだ。
「まず、川だ」
遡上するのか。
生まれて海を目指すのか。いま咲かせたい花は。
この本たちの世界の量子に乗ってもらえたら? やっと、私は魚たちの色を学べる。そうして得られた感情が、色と色を組み合わせて得られる色じゃない?
札をまとめる。
奇しくも一番上に見た札がさ?
「――……わが袖は、潮干に見えぬ沖の石の、人こそ知らぬ、かわく間もなし」
二条院讃岐の一首。
和泉式部の「わが袖は、水の下なる石なれや、人に知られで、かわく間もなし」というのが本歌なのだとか。いわば本来の歌。もとの歌。
海の波に人知れず石は濡れている。秘する恋に涙して拭う袖もまた、濡れている。秘密の恋をする自分の象徴なのだという。お母さんの持っている百人一首解剖図鑑によれば。
袖と石を重ねて詠んだ歌。この一首で讃岐さんは沖の石の讃岐と呼ばれたそう。
出たな、和泉式部さん! って感じだし。
恋の歌だなあ、讃岐さん! って感じだ。
ふと思う。
手に取って読まれるわけでなく、ただ増えていくばかりの本って、まるで水の下なる石なれや。なら、わが袖はどこに? おじさんかな。
他にも、いろんななにかをおじさんの位置における。
いくらでも例えようがある。
やっと、幅が増えてきた。世界が広がってきた。
泳ぎたい世界はないのだろうか。
ここにある本たちには、恋をしたい水の世界はないのだろうか。
あのおじさんはどうだろう?
三人が教えてくれた、悲しい末路を辿った妖狐たちには、どうだろう。
それはたとえばね?
真ん中にはないの。
わかるかな?
世界のいたるところにあるものなんだよ。
あったほうがいいものなんだよ。
広げていったほうが、いいものだ。
「そうはいっても、袖なら洗うし干すじゃんね?」
さあて、テーマが決まったぞ?
見えてきたぞ?
出すなら金色。化かすぜ水に。
「こがねみずっ――……いや、だめだ!」
それじゃおしっこみたいじゃん!
くうっ! 圧倒的センス不足っ!
つづく!




