第千七百二十七話
俺の屍を越えていけ。昔のゲームのタイトルね?
歌があるの。花っていう歌が。好きなんだよね、花。
おっかない酒呑童子と、討伐に集まる武士たち。陣頭指揮を執る旦那さん、呆気なく討ち死に。勇ましい奥さんは、鬼が呼び出したふたりのこどもを人質に脅迫。鬼が彼女に薄い本かえっちな漫画バリの屈服宣言をさせて、奥さんをさらい、赤子には短命の呪いをかけて戻す。
その赤子が、酒呑童子討伐せんと願う都と神さまたちの支援を受けて、こどもを成して、討伐に挑む。呪いは短命だけじゃない。早く老いる呪いもかかっている。そこで神さまたちは、この一族と子作り。神さまたちの血を色濃く受け継ぎながら、一族は多くの人の命を越えて、酒呑童子討伐を目指す。
ではなぜ神々は一族に力を貸すのか。一族の呪いが解ける日はくるのか。酒呑童子の呪いを神々はなぜ解けないのか、などなど。
謎がいっぱい。すっごいゲーム。お父さんに当時の宣伝を見せてもらった。
私の世代じゃ、コンシューマーのゲームの宣伝がテレビで当たり前に流れていた時代って新鮮。でも、いろいろとセンス炸裂してる宣伝が多かったみたいだよ? 他に私が好きなのは「佐々木くんっ! かかった!」って、女の子が男の子を罠にかけまくる影牢っていうゲームのCMかな! いつかカナタにやってみたい。ラストの大岩ころころ炸裂シーンが最高なんだよね!
けっこう凝ってたんだ。いろんな役者さんも出ていた。あと、ゲームの映像があんまり出てこないCMもわりとあったみたい。宣伝って、印象に残るかどうかだし? ただ露出の数を増やせばいいかっていったら、そこまで単純じゃあないんじゃないのかなーって思っちゃう。
スマホでネットやなにかのアプリをやるときに見かける広告って、煩わしいだけで買わないし探さないもの。
じゃあ自分が見たい宣伝を作れば受けるし儲かるかっていったら、話は別。
宣伝には意図がある。縛りもある。製作と、縛りを設けたい人は別にあるなら? 納期と予算の関係上、まとまりにくいかも?
お父さんに見せてもらったビデオだと「サービス満点!」っていうフレーズが多かった。他にもクリスマス商戦時期に「お父さんにぴったり!」とかね。わかりやすいフレーズ、わかりやすくて共感性を抱きやすい絵作りによる宣伝。狙いはあくまで「さあ! まずそこでお話してみません!? あ、でも無理ならせめて覚えておいてね!」みたいな感じかな。
どうだろー。
そこにもやっぱり専門家がいるし?
コストが下がっていけばいくほど、そこでがんばれること、がんばれる人が減っていくし? がっかりな状態が待ち受けていそうな気がするね。
専門家にできることが減っていっちゃう。価値はみんなで作り、守るもの。技術は最低限を達成できればいい、という価値を作り、みんなで守っちゃうと? 技術はより高く、より平易に広まり、活用できる幅を増やし、向上させることにこそ大事だという価値を作り、みんなで守るのとだと、結果は大きく異なる。どっちがいーい? って話だし、無い袖はふれないし、お金がない状況はどうやって改善するかは別の話。
たいへん!
で、負けじと大変なのが、俺の屍を越えていけ、略称はおれしかでプレイヤーが操作する一族のみなさん。
都は荒廃。装備はしょぼく、使える術も少ない。お金もなければ、協力してくれる神さまも少ないし、神さまと縁を結ぶ徳もたまっていない。戦闘技術の蓄積もない。
なので冒険に出る。
なにせ短命。健康もすぐに悪くなりがち。無理を通すと、わりとあっさり死んでしまう。
一族の系譜を見ることができる。お父さんのデータにも、お母さんのデータにも、わりと特別な成果を出すことなく亡くなってしまった人がいるそうだ。
人が亡くなるとき、必ず最後の言葉を残す。みんな、ちがうことを言う。
そうして、ご先祖となっていく人たちみんなの屍を越えて、グランドクエストを達成することを目指すゲーム。一族と神さまたちと妖怪たちの物語だもの。はんぱない! ゲームならではって感じだ。
日焼けしたゲーム機でお父さんが私に教えてくれたとき、ついついお父さんはプレイしちゃっていて、気づけば私そっちのけで夢中になっていて、お母さんにたっぷり叱られてたっけ。
便利にしていく。
快適になっていく。
得ることが価値。
いまあるリソースの重要性は軽視しちゃって、ついつい「あれがなきゃ」「それを手に入れて効率的に」となりがち。
だからどうという話でもない。強いて言えば、私にわかるのは好みの領域までかな? なにせゲームのクリエイターじゃないもの。遊んだ所感くらいしかもってない。
ただ、シオリ先輩によれば、そのあたりは人によっても意見が分かれるところなんだって。アクションRPGでも基本的な機能や能力はそのままで、プレイヤーの操作技術の向上でプレイ体験が変わるほうがいいんじゃないかーとか。そうはいっても、なにかしらプレイ体験が拡張される体験は得がたい快感だーとか、なんとか。
ボタンひとつでマップ移動。戦闘中は勝手に戦ってくれる。豊富なスキルも自動で調整。効率化とは名ばかりの、お任せ機能の向上。省略化。それをよしとするのか、しないのか。しないのなら、なんでもない時間をどう演出するのか。そこでの体験を向上させる仕掛けをするのか、しないのか。もろもろ。
映画や漫画、小説とちがって、ゲームはプレイヤーが能動的に干渉する余地があるから、花についての距離感が別にあるのかも。そうは言ってもね? パソコンゲームで利用できる、MODとかいうプログラムの改変ができない限りは、制作者の用意したプログラムは変わらない。
このあたりで、提供されるものと、それを利用するものの立場や行動について、文化の違いがかなり出るとか言ってたっけ。シオリ先輩は。自分好みに改変したくなることがしょっちゅうな先輩は、パソコンゲームでオッケーなゲームで遊んでることが多いみたい。
そんなスキルがあるわけないので、うちのお姉ちゃんは文句を言いながら遊んでる。
負荷を感じることがあるとき、自分でどうにもできなかったら?
どらえも~ん! となる。
なっがいひっろい世界を主人公が行くゲームだと、主人公、つまりはプレイヤーがドラえもんになる。しょうがないなあ、ご褒美よろしくね! と、クエストを受けて、達成して、報酬を得ることが多いみたい。
できないことがあるとき、できる人が出てきて、これを達成する。それが基本形。
たまにクライマックス前とかで、できる見込みがないけどやらなきゃいけない場面があって、操作できない仲間のキャラが死んでしまうことがある。操作できるヒロインが離脱したり、主人公が行動不能になったりする。あまり強い影響を与える展開になると? 話題性は増すかもしれないけど、物語として必然性を感じられる人が少ないほど大炎上するのかな? どうなんだろうね?
お父さんは呪文のように「エアリス、ナナミ……」って唱えるの。お母さんが「サラマンダーよりはやい」って小声で唱えると、お父さんは「うっ」と悲鳴をあげて倒れる。あんまり気になって調べてみたら、サラマンダーの話って寝取られストーリーなのね。主人公のヒロイン、王女さまかと思ったら? 一途なおじいさんでした。おぅ……。
エアリスは、あれでしょ? 目の前で殺されちゃう子。星の命に帰って、みんなの力になってくれるんだ。で、ナナミちゃんは主人公と親友の板挟みにあって、ふたりがふたつの陣営に分かれて戦争になって、どんどん過激になっていっちゃうなか、それでもなんとかふたりが平和に戻れる道を探したり、それが無理でもせめて主人公を守ろうとしたりする子。展開次第じゃ助からないそう。
そういうのもう、心が抉られるなんてものじゃない。
感情移入してるほど、きつい。
最近のゲームだと、そういうのないのかな? どうなんだろ?
主演キャラが目の前で無惨に、なんて。
そんなのやったら大炎上しそうな気がするね? 物議を醸しそうだ。まして、業界で権威のある賞を取っちゃったら? ますます揉めそうな。
だとしても、それは錯覚で、これまでもよくある反応だっただけかな?
みんなの意見が見やすくなった。探しやすくなった。特に発信される意見ほど、アクセスしやすくなった。繋がりやすくなった。クラスで話題になるとき、目立つ声がますます大きくなるような変化なのかな? だから出てくるのかな。サイレントマジョリティ。
だけど黙って流す、従う人たちがどれほど危うい変化を与えるのかっていう話は、けっこう多いよね。結局、サイレントマジョリティがマイノリティの負荷への対処をすることはない。むしろノイジーマイノリティに加わって負荷をかける、暴力を加えることのほうが自然で。
人を分ける属性を見つけたり、それを語るより、仕組み、環境。その改善を。
ふたりの異なる人がいたとき、ふたりの異なる花の間に、ふたりの花が活きる花は? それはどんなものかな? どうやって育てられるものなのかな?
おれしかの一族には余裕がなくて、考えられない。それどころじゃない。神さまたちは求められれば、奉納してくれるのなら、こどもだって作るけれど、そこまで。他の人たちもそう。一族は分断され、多くの人の屍が築かれていく。
みんなまず、できないを抱えるので精いっぱい。精いっぱいな大量のできないの中でもがき喘いで、できそうなことからひとつずつどうにかするので精いっぱい。
そんなわけで、人は集まる。
ひとりじゃできない。太刀打ちできない。
おれしかは露骨にそこに焦点を当ててそう。普通の人と同じ寿命、同じ成長速度なら? 最初の当主、酒呑童子に敗れた両親のこどもが討伐して終わりそうなものだもの。
なので、協力する。集まって、できることを増やす。できないこと、生じる負荷は、経験値があるよという知らせ。断じて、できないと困る人たち、できないものごとをなくしたり、排除するためのサインなんかじゃない。断じて、ないよ? 当たり前すぎて忘れちゃうくらい、とても大事なことなんだよ。
ここにある本は、泳ぎたいかな?
「ん~」
札でアゴをぺしぺし叩く。
なかなか止められない。
お父さんとお母さんの青春時代の作品、なにかと布教されてるものの中に、人型決戦兵器にのせられる中学二年生の男の子が主人公のがあってね? その監督さんが風立ちぬの声優さんやったり、ゴジラを撮影したり、新たな劇場版シリーズを作っていたりする。
序破急、もとい。序破Q!
その作中で、どでかい決戦兵器を戦場に送り出すときにさえ、ほんとにもうびっくりするほどたくさんの人が関わっている。整備班の人たちがちらちらっと映りこんでるの。
パトレイバーでも整備班は大勢。それが設備からして巨大にも程がある場所だからさ? そりゃあ、かかる人と物の流れも膨大になるってもの!
それを、なんだろな。宮大工さんみたいに、技術の習得だけでえらくかかる人たちで揃えるとしたら? もうね。どれだけ時間がかかっちゃうんだろ。
人に求める要件が増えて、負担が増えるほど、進みはにぶるし、できることも減る。制限されまくる。
ついね?
できないことがでてきた! 助けて、できる人! できる人、登場! すげー! できない人、だめー! って、短絡的に捉えがち。
そうじゃなくてさ?
べらぼうにすごい施設、無茶苦茶すごいしお金もかかりまくりな決戦兵器! なんて場所なだけに、きっと建設設備も、機材も、か~な~り! いいの使ってるんじゃないかな?
機械化の利点は、なにより人の負担を減らせること。そして、人に求める技術を減らせることにある。
お寿司のチェーン店のシャリ自動握りマシーンがあると? 具材をのせればいい。なければ握る。昔、シャリはコツを会得しておいしく握れるようになるのに何年もかかるといっていた。
マシンがあっても握れる人がすごいのは変わりない。ただ、シャリを握れない人たちの手になることはできない。ひとりで、大勢の代わりにシャリを握れない。教えるとしても、できるまでに時間がかかる。いますぐ握らなきゃ! なんて場面になったら、マシンがあるほうがさ? 人にできることが増える。でしょ?
土木だと、コンクリをならすのにプレスしてるやつとか。敷き詰めるやつとか? 昔は人力だったんだもの。負担を減らせるのは、おっきい。
昔のローマ帝国の軍って、道の整備がうまくて早くて立派で、それが覇権を握る原動力になったーみたいな話、なかったっけ?
できることを増やす。それはできないとか、できるけど負荷を感じることによって気づけるもの。経験値の知らせ。ひとりでは気づけない、わからない、学べないし、知ることができないもの。気づけても、ひとりで達成できないもの。
集団による生存戦略。共同体として、協働し、社会を育むという接続の増やし方。
「ん~?」
札をまとめてポケットへ。
両手を組み合わせて、伸びをする。
まだ、ぷちたちは出てこない。尻尾の異常におっかなびっくり備えながらトイレの真っ最中かな? それか、久しぶりに戻った尻尾の中で冒険中かな? どっちもありそうだ。
ここの本たちみんな、ひとりぼっちだ。
本棚で隣り合っている。だけど、それだけ。
干渉することはない。
ひとりがたくさん集まっているだけに見える。
ほとけほっとけ、かみかまうな。
そういうわけには、いかないなあ。
右手を前にかざして、金色を出す。集めてなんちゃってなキントウンに。
飛び乗って、胡座を掻く。
魚としたり、川を思い描いたり。
自分の左右から自分に重なってくる本たち。望みもしなければ満たされているともいえない本棚。
「そういうんじゃあ、ないんだ」
私の物差しで勝手にこうだと決めるのも、詠むのも、きっとちがう。ずれてる。
「なんだあ?」
考えても始まらないぞ?
いまは私のターンだ。
ぷちたちを想定してみる。
ううん。ぷちたちよりも無関心で、放っておいてもらいたがっている本たちを眺める。
私が本なら読まれたいのかな?
だれでもいいわけじゃないよね。
本にとって、好ましい読者っていうのはいる気がするぞ?
言い換えると、本にとって負荷となる出会いはある。読者にとっても、もちろんそう。
その負荷は、どのようにすれば鮮やかに咲く花になるだろう。
たとえばさっき私がピーターパンシンドロームについて考えたときにあげた本とか、経済学の分厚い本とか!
もうね。
負荷しかない!
読み口は軽いんだけどね?
たとえばさ。マンキュー経済学のミクロ編。冒頭で経済とはなにかを記している。曰く「経済とは、生活において相互に関わり合っている人々の集団である」そうだ。ただし、その文章の前に、こう書いてある。曰く「資源には限りがあるため、社会が保有する資源を管理することは重要な問題である」なぜなら「社会には限られた資源しかなく、そのため人々が手に入れたいと思う財・サービスのすべてを生産できるわけではない」。これを「希少性という」そうだ。
本によれば「社会を構成するどの個人も自分の望みうる最高の生活水準を実現することはできないのである」ので「経済学とは、社会がその希少な資源をいかに管理するのかを研究する学問である」そうだ。
続けていくね?
『ほとんどの社会では、資源配分は全権を握った1人の独裁者によって決められるのではなく、膨大な数の家計と企業の行動を総合した結果として決定されている。したがって、経済学者は、人々がどのように意志決定するのかを研究する』
他にもいろいろと研究する。その対象を列挙している。人々がどのように投資や購買について意志決定するのかーとか、互いにどう影響しあうのかーとか、平均所得や就労についてとか。
たとえば企業の利益に軸足をおいて論じる経済学者ばかりだったら? 資源の配分とか、今後の利便性にまつわる投資とか、共同体として、協働としての視点はどんどん欠けていくんだろうなあ。学者であり、名乗りながらも、実態は企業に雇われた広告塔になっちゃうーみたいなの。
そういう小説、ありそう!
味方するのは企業とも限らない。記述されているように、独裁者が雇い主になるかも。
じゃあ経済学に社会学の視点はあるのかな? どの程度、影響しあうのがいいのかな?
と、いうわけで? 社会経済学なんていうのもあるみたい。
学問の前につく名前で仕切られているんじゃない。その仕切りはあくまで便宜上のもので、集合知が少なかった時代はなんでも学んで、なんでも研究していたんだってね? いまじゃ、増えすぎて、追いつくの大変すぎて、専門の分化が進んじゃっているのかな?
なぞ!
機械にせよ技術にせよ知識にせよ、経験にせよ「経済とは、生活において相互に関わり合っている人々の集団である」とき、人と人が相互に関わり合っているときの負荷から得られるものを増やすんじゃないかな?
経済学、お金の話にがっぷりのめり込みすぎてないかな?
学んだら、実際どんなものかわかるんだろうなー。
わかるんだろうけど「人のみなさんは、一歩さがってもらえます?」みたいなノリで、人に向けてじゃなくて、そこでの営みによって生じる活動と資源に関心を向けて饒舌に語り出すように思えて、すでにきつい。私には負担!
わからない。
わからないぞ?
鼻から息を吸う。
「本を変えるんじゃない。自在なのは、自分」
本を変えようとする。
いくら作ったのがおじさんでも。おじさんの霊子しかないとしても。
元になった霊子は、数多の人たちのもの。
いずれにせよ、全員が私じゃない、だれか。
だれかは変えられない。私に干渉できるのは、私まで。
なのに過剰な手を選んで、ここを変えようっていうのは? 虫が良すぎる。
「やめるって決めたはずじゃんね?」
いまさらのように、私は刀鍛冶には向かないなあと自覚した。
霊子と語り合い、一緒に形を変えるアプローチ。私は相手を変えよう、支配しようとしないとしちゃうから。他に手が浮かばなくて、向いてない。それこそ過剰な手なんだよね。
対話。
したいのは、できないから。
できない負荷を見つけたから。
できたら得られそうなこと、いっぱい思い浮かぶから。
「やると決めたことをやろう」
立ち上がる。
兄貴なら、シモンを連れていく。兄貴ができない穴掘りを、ドリルを持ってシモンがやる。兄貴の見せた背中、生き様、学んでシモンが繋いでいく。繋げていく。なんて思い描くときにね?
「おいで」
キントウンに集めた金色から、やまほどの魚を。
私のよんだものたちを、魚に変える。泳いでくれる子もいれば、私の背中をしきりにつついてくる子もいる。はよ詠め! って怒っているように。
それは本。それは歌。それはだれかとの思い出、絆、声、言葉。
私の気持ちも上乗せして、やまほど魚に変えて、出していく。
私が化かすまでもなく、ここの本たちは自ら泳ぎ出す気がするの。おじさんのいる場所へと向かうとき、霧に魚を見たから。
あなたたちがなにを求め、なにをしたいのか、私にはわからないからさ。
あなたたちがなにに負荷を感じ、なにを心地よく感じるのか、私にはわからないからさ。
どうか教えて。
代わりにまずは私を伝えるよ。
私がなにを求め、なにをしたいのか。
なにに負荷を感じ、なにを心地よく感じるのか。
星型の魚と、眩く光る魚が私のそばに寄り添う。とびきり早く泳ぐ魚が二尾、行っては戻って、泳ぎたい気持ちをめいっぱい示す。
これだけじゃないな。
私の中にあるもの。
手を組んで、願う。
無垢刀としてではなく、御珠として、私の内から出てきてと。願う。
胸の内から輝きながら出てきた御珠を手にして、私の魚が本棚の間を泳ぐさまを眺めた。
御珠は境界を示すもの。あるいは、境界そのもの。
ある意味、人と人との間に咲く花のようなもの。
個人的にエモさに浸っていて、気分めいっぱい出して御珠を見たらね?
「うっわ、くっろ!」
めっちゃ汚れてた。
なんかやばいもんでも塗られたみたいに。
あわてて拭ったら、べとぉっと油汚れが手についた。
「う、うわあ」
離した手と御珠の間に、ねちょおっと糸を引く。
それを見ていた魚たちが、一斉にキントウンに飛び込んで消えちゃう。
心なしか、本たちに「だから無理なんですよね。あなたの金色に協力するの」って引かれてる気さえする。これはもう確実に私の被害妄想なんだけど。
でも、いや。まさか。こんな。
御珠のこと、ずうっとほっといたよ?
ぷちたちに叱られるくらい、気を回せずにきてたみたいにさ。
ほっといてた!
だけどさあ! たしかにほっといたけどさあ!
「え、えぐいくらいばっちいやんけ!」
漏れなくねちょねちょした真っ黒い粘液で汚れてた。
昔、トウヤが泣きながら「ねえちゃん、おへそばっちいの!」と訴えてきたことがある。お父さんもお母さんも当時は忙しくて、私もおへそを綺麗にする習慣があんまりなくて、気が抜けてたんだ。たしかに垢がたまってた。
おへそをいじるとお腹が痛くなるじゃない?
それに、おへそは実はデリケートで、乱暴にこすって万が一にも傷ついちゃうと厄介だし、たいへん! なので、お風呂に入って綺麗にしようねって約束したし、お風呂上がりに麺棒でキレイキレイした。タオルでやさしくこするといいんだよーって教えておいた。オイルを使うお手入れ方法もあるみたい。なんにせよ、気になる人は素人知識やネットの記事より、皮膚科の先生あたりに相談してみるほうがいいかもね?
おへそじゃなくてもね。
お部屋も放っておくと埃がたまる。
ほっといても、永遠に綺麗で変わらずなんてことはない。
ないんだよなあ。
ないんだってば。
「いやでも、えええ?」
ねちょねちょ黒粘液、取れそうにない。
おまけに、かなりの頑固ちゃんな汚れとみた。
それで思わずふり返って尻尾を確認する。
「尻尾の穴、これが原因だったりして?」
まっさかあ! あはははは!
あり得るわあ……!
ぜんぜん構ってなかったわあ! 大事にしてなかったし、放っておいたわあ!
そもそも御珠ってなんなん!? 状態で止まっていること、多すぎるわあ!
沖の石と袖が涙で濡れる、秘めたる恋する私なら?
御珠の黒いねっちょりはなんなん? ねえ。
引いてる私の目線の先で、尻尾からわらわらーっとぷちたちが顔を出した。
「なんかトイレのばっちいのが、出てった!」
「うわ、それきもっ」
「ママそれなあにー?」
「うんち?」
ちがうからね!?
うんちではない!
御珠にくっついてる黒いネトネトは、断じてうんちではない!
うんちではないけれど! 念のため、聞こう!
「ねえ、みんな。尻尾の中、どうなったの?」
「「「 汚いのだけ出てったよ! 」」」
「「「 でもまだ穴あいてるよー? 」」」
ああ。そう。うん。そうね? なるほどね?
穴は空いていると。でも汚いのがあって、それが出ていったと。私が御珠を出したら。
絶対に私の御珠絡みじゃん!
「うんちのせい?」
「しゅくべん?」
「……げりぎみ?」
だから!
うんちじゃないから!
つづく!




