07
「何か面白い本はありましたか?」
場違いなほど穏やかな声に女性が顔を上げれば、館長の眼差しとぶつかる。不思議に思って辺りを見回すも、目に飛び込んでくるのは先程までの何もない空間ではなく。あれは夢だったのだろうかと、女性は大きく息を吐いた。
完全に現へと戻ってきていないのか、女性の眼差しはどこかぼんやりとしているて。その手には、一冊の本がしっかりと握られていて。その様子から、どうやら無事ことは為されたようだと気付き、館長は常と変わらぬ穏やかな声で、再び口を開いた。
「ああ、お連れの方も目を覚まされたようですね」
その声に促されるように女性が二階へと続く階段の方へと目をやれば、先程まで一緒だった男性の姿が。どうやら完全に目は覚めているようで、しっかりとした足取りで階段を下りてくる。
女性は何と声をかけようかと考えあぐね、結局何も言うべきではないのだと首を振った。先程の夢は自分が見た願望で、男性には関係のないことなのだから、と。
「おはよう」
どこかすっきりとした顔をしている男性に、女性は違和感を感じた。最後に言葉を交わした時にあった、肉体的疲労の所為だけではない暗い影が、綺麗さっぱりなくなっていて。それどころか、逃げ続けている間に消えてしまったあの穏やかな笑みすら浮かんでいる。
言葉もなく立ち尽くす女性の様子を何と取ったのか、男性は階段を下り切ると足を止め、女性の困惑した眼差しを受け何を思ったのか、申し訳なさそうに眉を下げた。
「色々と心配をかけてごめん、でもありがとう」
「あ……」
そう言ってはにかむ男の姿を見止めるなり、唐突に理解する。あの夢の意味を。確かに交わった視線と温もり、その想いは確かに通じていたのだと。
それを認めた瞬間、女性は男性へと駆け寄りその首元に縋りついた。男性はそんな行動に驚くでもなく女性の背中に手を回し、しっかりとその身体を抱きとめる。
するとその温もりに、必死に我慢していたものが溢れ出し、女性の口から僅かに嗚咽が漏れた。男性はそんな女性の様子に、益々回した腕に力を込める。まるで、もう二度と諦めたりしないとでもいうように。
「ありがとうございました。またのご来館を心よりお待ちしております」
入口の扉が閉まりきる音を聞きながら、館長はゆっくりと頭を上げた。そこには先程までいた二人の姿はなく、すぐにいつもの静寂が戻ってくる。
「返却時期は分かりませんが、きっと彼等なら大丈夫でしょう」
状況的に多少は仕方がありませんが、粗雑に扱われる事もないでしょうし。と、いつの間にか傍らにいた黒猫に話しかければ、扉を見つめていた黒猫が不意に館長を見た。感情のないその目は、館長の言葉を肯定しているようにも、逆に否定しているようにも見える。館長は常とは違う微笑みを浮かべながら、黒猫の視線を受け止める。
暫しの沈黙の後、視線を逸らしたのは黒猫の方だった。そのまま大きな欠伸を一つ、途端に興味を無くしたのか、そのまま何も無かったかのように棚の上に一息で飛び乗ると、するりと影の中に身を滑り込ませ、すぐに足音すら聞こえなくなる。
館長はそんな黒猫に何を言うでもなく、寧ろそれが合図であったように、踵を返しカウンターの方へと向かう。後には床を叩くその靴音だけが、静かな館内に響いていた。
次が最後です。




