05
ふと顔を上げた女性は、自らの建つ場所が先程までいた筈の図書館とはまったく違う風景であることに気付き、肩を竦める。
確かに持っていた筈の本は、今はその手には無く、辺りを見渡してみるも視界に入ってくるのは闇一色。そんな中に一人取り残された女性は、まるで闇それ自体が意思を持って自分を飲み込んでしまうような気がしてふるり、と身体を震わせた。そんな自分の想像を笑う事も出来ず、恐ろしげに身体を抱き締めながら、所在投げに辺りを見回す。
「館長、さん?」
どうしようもなく震える唇を何とか動かし出した声はか細く、そしてやはりそれに返ってくる反応は無い。
女性は込み上げてくる何かを唇を噛み締め遣り過ごすと、恐怖で動かない足を叱咤し、歩き出した。
どんなに行けども、視界に入ってくる風景に変化は見られず、相変わらずの闇が広がっている。そんな中で一筋の光明を見出す事など出来る筈もなくて。
女性は気力だけで足を進めていたが、それももう限界に来ていた。
青褪め、その場にへたり込んでしまった女性。自分はここで誰にもまみえる事無く、ずっと独りでこの空間を彷徨わなくてはならないのだろうか。急激に襲ってくる孤独感と恐怖に、もう立つ気力も沸いてこない。
「誰か、助けて」
嗚咽のように漏れる声。涙こそ流すまいと我慢しているものの、ただでさえ疲弊している精神は限界だった。そんな女性の脳裏に、優しい両親の顔が浮かんでくる。
これは罰なのだろうか。自分を慈しみ、大事に守り育ててくれた両親への恩も忘れ、ただ彼と離れたくないが為に自分の我侭を押し通してしまった事に対しての。
彼だって、きっと後悔しているに違いない。血が繋がらなくても、両親が彼を実の息子のように慈しんでいた事を知っている。いつだって人を思い遣る心を忘れなかった彼を誇りに思っていた事も。そして、彼もまた、そんな二人を敬愛している事を。そんな彼が、自分が押し通した我侭の所為でどんなに心を痛めているか。そう思うと、申し訳なくて仕方が無かった。
彼がそこまで自分を想っていてくれたと嬉しかったのは最初だけ。時間が経つにつれ、彼を巻き込んでしまったことへの罪悪感が頭を擡げてくる。
優しい彼の事、そんな事はないのだと言ってくれるのは目に見えていたが、彼の心はきっと血を流し続けるだろう。それでも、
「私は、貴方と一緒にいたい」
あの本の男女のように、苦難だらけの末幸せとは程遠い日常を生き、いずれは別れる日が来るのかも知れない。それでも彼が傍にいてくれなくては生きていけない。そう、思う。
「…し……せ……」
その時、どこからか不明瞭な声が聞こえてきた。
女性は俯いていた顔を上げ、目を凝らして必死に辺りを見回した。
数瞬前まで確かに何も無かった筈なのに、気付けばすぐ側に誰かが倒れているのが見える。
独りきりの恐怖に押し潰されそうになっていた女性は、その姿を見とめると慌てて立ち上がり、こけつまろびつその人の元へと急ぐ。
「もしっ」
唯一見つけた自分以外の存在に逸る気持ちを抑えて声をかけようとしたが、その人物が誰であるのか気が付いた途端、その声は喉の途中で凍り付いてしまう。それは、
「申し訳ありません。私が、私がお嬢様を誑かしたばかりに、旦那様と奥様に多大なる御心労をおかけしてしまいました」
苦悶の表情を浮かべ、何度も繰り返される謝罪の言葉。それは目の前の人物、つまりは女性が手を取り合って共に生きようと誓った男性のものだった。
女性は頭を殴られたような衝撃を受けた。この空間が何なのかとか、男性が何故ここにいるかなどという疑問は一瞬にして霧散し、ただ男性の言葉が悲しかった。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。完全に疲れが取れていなかった所為で、久しぶりに本と触れた事で、急速な睡魔に襲われてしまった可能性はゼロではない。唯の夢、そう思ってしまえればどんなに楽だろうか。
そうして目の前の情景を打ち消そうとしても、ひたすら謝罪を繰り返す男性の姿は一向に薄れる様子はなく。そんな男性の言葉に傷付いた女性は、ただ呆然とその様子を眺める事しかできない。だが、己のみが悪と言い続ける男性に、自らを傷付け続けるその姿に、これ以上なく心が痛んだ。
女性は崩れ落ちるように膝を着くと、男性の肩に縋り付いた。そして、何故そんな悲しい事を言うのかと。男性に非は無く、誑かしたと言うのならそれは寧ろ自分の方だと訴えようとした。だがふと視界の隅に映ったものに視線を向け、息を呑んだ。
「っ!」
そこにいたのは、
「お父、さま」
見間違う筈がない。己が生まれてからの長い歳月守り愛しんでくれた父親が、男性に冷ややかな眼差しを向け立っていた。
男性が向ける謝罪の言葉などまるで耳に入っていないかのように、僅かにもその表情は揺らがない。それどころかまるで知らない人のように思え、女性の表情が歪む。
いつだって穏やかな眼差しを向けてくれていたのに、今の父親からその片鱗すら覗う事は出来ない。己の所業が父親を傷つけ、それ故にこんな顔をさせてしまったのかと思うと、己の罪深さに押し寄せる後悔の念が女性の心に痛みとなって去来する。
誰にでも優しく、それ以上に自分や彼にこの上ない愛情を注いでくれた父親。こんな冷徹と言う表現が相応しい表情など、生まれてこのかた見た事がない。だが、自分の軽はずみな行動が父親をここまで追い詰めてしまったのだったら、自分は何と罪深い事をしてしまったのか。きっと己は地獄に堕ちるのだ。それが、父親の心に消えない傷を刻み、彼の心を壊した報いなのだから。
女性は、未だ謝り続ける男性とそんな男性を見下ろす父親を前に何も言えずにいた。この場所がどこか現実と思えぬ雰囲気を醸し出している事にも気付けないほど、意識はひたすらに目の前の光景へと集中していて。
だから女性は気付かない。その場にいないもう一人の当事者とも言うべき者の存在に。
続きます。




