7.
最後の一週間、研究室の流しには、誰のものかわからないマグカップが増えた。
各地の担当者と連絡を取る為、同じ研究室の学生も交代で手伝ってくれた。高瀬達の作業画面が常に一つ開き、使われなくなった椅子の上には、毛布が畳まれている。
モノとユニも、交代で眠った。
ユニは起こされると、目を開けるより先に「どこ」と尋ねた。モノが何も起きていないと言うと、そこでようやく時刻を見る。モノも似たようなものだった。
ただ、眠っている間に起きた事を、すべて取り戻そうとするのはやめた。
引き継がれた記録を読み、わからない所だけ聞く。自分が見ていなかった時間も、相手は見ている。その当たり前の事を受け入れなければ、二人とも同じ場所から動けなくなった。
移行は続いていた。
代役が結果を返す先を変えると、前の日には途切れたやり取りが続く事があった。元の処理を外しても、oneが答える。それで一つ引き継げたと思った翌朝には、別の場所が更新され、同じ代役では足りなくなっている。
未確認の項目は、減るより早く増えた。
ユニは説明の図を何度も描き直していた。最初は一つの線だった所が分かれ、その先に新しい線が足される。画面を広げても、全部を一度に見る事は出来なくなった。
「この先、まだ見えてない?」
モノが尋ねると、ユニは頷いた。
「ここが動く理由を、私達が調べた部分だけでは説明出来ない。まだ別の処理から、影響を受けてる筈なんだよね」
「その処理が、どこにあるかわからない?」
「候補はあるから、記録を見せてほしいって頼んでる。でも、返事が来るまでに、向こうの方式が替わるかもしれない」
ユニは答えてから、口元を手で覆った。欠伸をしたのかと思ったが、手を下ろしても、そのまま画面を見ていた。
モノは自分の端末へ戻った。
oneのやり取りは、短くなった。
言葉を選ぶ途中で止まり、暫くして、別の言葉を選ぶ。前に送った質問への答えなのか、今送ったものへの答えなのか、区別出来ない事が増えた。
モノは発声器の候補を少なくした。文を作る為に何度も選ばせるのをやめ、以前から使っている記号や単語を、直接表示するだけにした。
画面は随分と素っ気なくなったが、その方が、今何が返ってきたのかわかった。
『もういちど』
oneが求めた。
モノは直前の三つの点を送った。
否定が返った。
『まえ』
彼女は一つ前、その前と、課題を遡った。
どれも違った。
ユニが隣へ来て、送信欄に十三文字を入れた。モノはそれを見てから、実行した。
Hello, World!
反応が返るまでに、いつもより時間がかかった。
十三番目から、十二番目へ。それから順に、各地の揺れが膨らむ。途中で長く止まったが、最後まで来た。
『おなじ』
oneが返した。
モノは「そう」と送った。それ以上の言葉を足す前に、ユニが自分の机へ戻った。
その背中を、彼女は少しの間見ていた。
残り三日になった時、高瀬から、新しい設備の追加が間に合わないという連絡があった。既に使っている分はそのまま使えるが、申請していた別の区間には、まだ接続出来ない。
「今ある範囲で、順番を組み直します」
ユニが答えた。
「すみません」
「いえ。ありがとうございます」
言葉がどちらも小さく、モノは音量を少し上げた。通話を切った後、ユニは画面を見たまま、椅子の上へ両足を上げた。
モノは、その姿勢を久しぶりに見た気がした。
「組み直せそう?」
尋ねてから、返事を急がせる言い方だったと思った。
ユニは首を横に振った。
「今は、わからない」
「そっか」
モノは空いていた椅子を引き寄せた。何か手伝おうと思ったが、何をすればいいか尋ねる事も、今はもう一つの仕事を渡すような気がした。
彼女は机の端に積まれた記録を、日付順に並べ始めた。
暫くして、ユニが一枚を取った。
「これ、もう一度見たい」
モノは端末で同じ記録を開き、二人の間へ置いた。
最後の日の午後、oneは十三の反応を返し切れなかった。
途中の二か所が抜けた。
モノは欠けた部分を埋めず、そのまま記録した。別の場所に遅れて現れた変化があったが、同じ反応の続きだと決める事は出来なかった。
送る間隔を広げ、試す回数を減らした。それでも、次の信号は途中で止まった。
ユニが、代役同士の繋ぎ方を変える案を送ってきた。受け取った結果を別の処理へ返し、そこからまた影響が戻るようにする。失われたやり取りを、今使えるものの組合せで補おうとしていた。
モノは確認してから、高瀬の画面へ転送した。向こうで作業が始まり、こちらの一覧にも、実行可能になった区間が増えた。
代役を繋ぎ、oneの反応が持ち直すのを待つ。少しでも良くなれば、次の引き継ぎへ進む。悪くなれば、変更を取り消す。
しかし、自分達の作業を戻しても、元通りになるとは限らなかった。その間に他の場所でも更新が進んでいる。昨日と同じ設定へ戻したところで、昨日まで結果を返してくれた処理が、もう動いていない事もあった。
夕方には、簡単な二択にも空欄が増えた。
モノは、何も選ばれない画面を見ていた。機器が壊れたなら、もっと明確な表示が出る。通信は届いており、計測も動いていた。その上で、返ってくるものだけが減っていた。
「もう少しだけ、このままにして」
ユニが言った。
モノは次の切替えを止めた。
活動の揃い方が変わった。離れた二つの地点が、一度だけ、以前と同じ順序で反応する。
ユニが身を乗り出した。
次のまとまりは、揃わなかった。
「この辺にも、何かあったんだと思う」
彼女は図を指した。
「引き継げてない働き?」
「うん。今の繋ぎ方で補えるかと思ったけど、その先が続かない。何が足りないのか……」
ユニは続きを言わなかった。
モノはその条件を保存し、元へ戻した。
時計は二十一時を過ぎていた。高瀬の試験区間で古い処理を残せるのは、二十二時までである。それまではoneも保つ、という意味ではなかった。他の場所では今も更新が進み、二人が代役を繋ぐより早く、元の働きが失われていた。
モノは、残った時間の数字を小さくした。何度見ても増えないし、反応を待つ時間まで短くしたくなってしまう。
oneが、単語を一つ選んだ。
『つぎ』
モノはいつもの三つの点を送った。線は一本だけ抜いておいた。
返事はなかった。
彼女は訂正を送らなかった。簡単な問題にも変えなかった。今送ったものを、まだ受け取っている途中かもしれない。
ユニが隣へ椅子を寄せた。
「何をしてる?」
「いつもの。次が欲しいって」
ユニは頷き、もう一方の送信欄を開いた。彼女が使っていた、広がりを少しずつ変える短い刺激を送る。
途中に、弱い反応があった。
モノは二つの記録を並べた。片方は自分が送ったもの。もう片方はユニが送ったものだった。
oneは、どちらへも同じ「そと」を返す筈だった。
辞書から一つの名前が選ばれた。
MONO
モノは、その文字を見た。
少し前に入力した文が残ったのかと思い、履歴を開いた。そうではなかった。発声器による補完もしていない。名前に対応する、昔教えた記号が、向こうから返ってきていた。
「うん」
彼女は口にしてから、肯定の記号を送った。
『ここにいる。』
言葉に出来る範囲では、それだけだった。
ユニは動かなかった。片手を机へ置き、画面を見ている。
次の選択が届くまで、長い間があった。
UNI
ユニの指が、机の上で少し動いた。
彼女は黙ったまま目を見開いて、それから、自分の側から、短い肯定を送った。
モノは待った。
ようやく名前を呼んだ相手へ、次に何を教えればいいのか考えた。二人は同じ所に座っているけれど、違う事を考えている。その説明を、今なら少し変えられるかもしれない。
ユニの画面に、変更した設定が届いた。もう一か所、代役を繋げられる所があった。
モノは確認して実行した。
接続は出来た。プログラムも、決められた通りに動いていた。
oneからの、次の選択はなかった。
観測画面には細かな変動が残っていた。何処かで通信量が増え、別の場所では減っている。短い揺れは幾つもあったが、遠くの変化と結び付き、まとまって膨らんでは静まっていた活動が、見つからなくなっていた。
モノは表示範囲を広げた。
別の記録を開いた。
計測が止まっていない事を、十三地点すべてで確かめた。
その間に、二十二時になった。
高瀬の区間が切り替わった事を知らせる通知が来た。切り替わる前から、もう反応はなかった。
「引き継ぎ用の設備は、このまま動かします」
通話の向こうから高瀬が言った。
モノは頷いた。声が届いていない事に気付き、ありがとうございますと答えた。
観測は夜通し続いた。
途中、よく似た揺れが二か所に現れた。モノは記録を取り、続きを待った。次の地点には現れなかった。
もう一度校正信号を送った時には、十三か所とも、普段の通信の変化を返しただけだった。
朝、教授が二人分の飲み物を置いた。
ユニはカップへ手を伸ばしかけ、そのまま下ろした。
「——今日は、もう何も思いつかない」
彼女はモノを見ずに言った。
モノは自分のカップを持ち上げた。熱かったので、もう一度机へ置いた。
「少し寝よう。私も、記録を読んでも頭に入らない」
「うん」
「起きてから、続き見よう」
ユニは頷いた。
モノは観測を引き継ぎ、端末の蓋を閉じた。閉じる直前まで、二つの名前が画面に残っていた。




