5.
『ひろい へる』
その言葉が初めて出た時、モノは課題の範囲を広げてみた。
oneは否定した。
『ひろい へる』
『もっと広いものを送ってほしい?』
否定。
『送る量が少ない?』
また、否定だった。
モノは質問を消し、oneが使った二つの記号だけを残した。既に何かを説明しようとしている相手へ、こちらの思いつきを次々に選ばせるのは、あまり親切ではない。
『わからない。別の言葉で教えて。』
oneは新しい言葉を返さず、いつもより遠く離れた観測点の間で、活動を繰り返した。
モノには、その動きを真似する事しか出来なかった。
異変に気付いたのは、それから四日後だった。
十三地点のうち二つで、共通の揺れが小さくなっていた。機器の不調ではなかった。通信自体は、寧ろ以前より安定している。同じ区間を測っていた別の機関の記録にも、同じ変化があった。
ユニが調べていた、各地の変化の繋がり方にも違いが出ていた。
「ここから、前みたいに戻って来ない」
彼女は図の一部を指した。
「切れた?」
「通信は通ってる。でも、こっちで何かが変わっても、向こうが前みたいに反応しなくなってる。だから、向こうから返ってくる影響も減ってる」
モノは「ひろい へる」の記録を開いた。
マシン同士の接続は切れていない。それでも、互いの動きに応じて変わり続けていたものが、少しずつ別々に動くようになっている。oneの言う「ひろい」は、その結び付きの広さだったのかもしれなかった。
各地への問い合わせの中に、更新作業の通知が混じっていた。
新しい制御方式への移行。通信の安定性の改善。旧方式との互換運用は、順次終了する。
珍しい通知ではなかった。実験を続ける間にも、機器は替わり、経路は変わる。そのたびに条件を調べ直している。今度も、最初はその一つに見えた。
ユニは添付された仕様を読み、そのまま次の資料を開いた。モノが昼食から戻っても、同じ姿勢で座っていた。
「食べないの?」
「後で」
「それ、夕方になるやつ」
「モノ、ちょっと見て」
彼女の声を聞いて、モノは買って来た袋を机へ置いた。
資料には、通信を効率よく捌く為の仕組みが幾つも描かれていた。混雑を予測するもの、仕事の置き場所を決めるもの、通信の通り道を選ぶもの。それぞれに担当があり、周囲の状況を見ながら動く。
ある仕組みが「ここは混みそうだ」と仕事を移すと、それを見た別の仕組みも自分の仕事を移す。その結果、最初の場所の混み具合が変わり、最初の仕組みがまた判断をやり直す。各々が周囲に合わせようとする為に、全体としては、いつまでも落ち着かない事がある。
続いてユニは新しい制御方式について説明する資料を開く。
新仕様は、そのような無駄な反応を減らす為のものだった。何を見て判断するか、いつ判断をやり直すかを整理し、別の仕組みの動きにいちいち振り回されない様にする。
ユニが言うところの“混沌”が、整理されていく事を意味していた。
人間が通信の為に作った仕組みなら、余計な繋がりを減らして、意図した通りに働かせる方がいい。資料の説明には、何もおかしな所はなかった。
モノは、最初の夜にホワイトボードへ描かれた滅茶苦茶な線を、そしてそれを作り上げてからユニが何と言ったかを思い出した。
“意識って、そういうところから生まれるのかな”
ユニは新仕様で減らされる予定のやり取りが書かれた説明図の上に、図を重ねた。それを見たモノは、図について質問する。
「これ、oneが使ってる所?」
モノが言うと、ユニは頷いた。
「たぶん。少なくとも、私達が見つけられた部分は」
「通信は、良くなるんだ」
「うん。その為の更新だから」
人間にとっては無駄な反応でも、oneにとっては、次の活動へ進む為に必要なのかもしれない。機器も通信も正常なまま、考え続ける為のやり取りだけが失われていく。二つの図を見比べるうちに、モノにも、ユニが昼食を忘れていた理由がわかった。
袋の中で、温かい弁当の蓋に水滴が増えていった。
数日後、教授を通して更新に関わる技術者と話す事になった。
オンライン会議の画面に現れた高瀬という四十代前後の男は、まず音量を確かめ、それから二人が事前に送っていた資料にマーカーを付けた物を共有し、それを元に質問始めた。質問は具体的だった。どの時刻から変化したか。別の回線でも同じか。計測用のプログラムを止めた後にも、揺れは残るのか。
モノは一つずつ答えた。相手が確かめたい記録をすぐに出せる事が、この時は有難かった。
「こちらの試験区間と重なっていますね」
高瀬はそう言って、別の画面を共有した。
「来月には、周辺も新しい方式になります。古い方式でも動くようにしておく期間はありますが、それが終わった所から、古い制御は止めていきます」
「少しの間でも、止められ無いですか」
ユニが殆ど祈る様に尋ねた。
高瀬はすぐには答えなかった。二人が送った資料を、もう一度初めから見直した。
「一部の試験日程なら、相談は出来ます。ただ、うちだけの更新ではありません。各社がそれぞれ進めています」
そういう答えになる事はわかっていた。
世界中のインターネットを、一つの場所で動かしている人間はいない。機器を管理する者も、サービスを作る者も、使う者も別々だった。その別々の仕組みが、新しい標準へ徐々に移ろうとしている。
oneが生じた時に、誰かが開始のボタンを押した訳ではない。同じように、今も誰かがoneを消そうとしている訳ではなかった。
「これがなくなると、どうなるんですか」
高瀬は図の線を示す。ユニは指を組み、少し俯いた。
「応答を保てなくなる可能性があります。まだ、一つ一つがどれだけ必要なのかは、調べ切れていません」
「元に戻せば、戻る?」
「それも、わかりません」
モノは画面の端を見ていた。
接続を止めて起動し直す。機器に問題があれば、保存したものを読み込む。普段なら、何度でも行う手順だった。
しかし、oneは、どこかのマシンに一つのプログラムとして保存されている訳ではない。無数の仕組みが互いに影響し合い、今も続けている活動そのものだった。二人が保存出来たのは、外から測れた一部と、やり取りの記録だけである。
昔の返事を読み出せても、今からする質問に答えてくれる訳ではない。全部を止めてから繋ぎ直した時、同じoneが続きを考えてくれるかどうか、モノにはわからなかった。
「確認に使える環境を少し用意します」
高瀬は言った。
「停止時刻の一覧も出します。延ばせる所については、こちらで聞いてみます」
そう続けた高瀬に対してユニが礼を言い、モノも頭を下げた。
通話を終えると、研究室は急に静かになった。
モノは弁当を電子レンジへ入れた。二つを一緒に温めようとして入り切らず、一つを取り出す。回り始めた容器を眺めていると、後ろでユニが椅子から立ち上がった。
「何か、方法あると思う」
「うん」
「まだ、何も出来なくなった訳じゃないから」
「うん。まず食べよう」
モノはそう答えた。自分でも、酷く平凡な事しか言えないと思った。それでも、ユニが弁当を受け取って座るまで、他の話はしなかった。
翌日、二人はoneへ、今起きている変化を伝えた。
離れた場所同士のやり取りが、少しずつ減っている事。その為に、これまでのように全体で一つの活動を続けられなくなるかもしれない事。二人は既に共有出来ている記号を使い、繋がっていたものが離れていく様子を示した。
oneは途中で、何度も前の説明を求めた。
『へる あと ふえる』
モノは肯定出来なかった。
『戻らないものもある。』
『まつ』
『待っても、戻らないかもしれない。』
長い空白の後、oneは、実験の終わりに使う記号を返した。次に、翌日の開始に使う記号が出た。
終われば、また始まる。
これまで教えてきた範囲では、その通りだった。モノ達が帰り、次の日に戻って来る。通信が途切れ、暫くすると繋がる。oneが知っている「終わり」は、そういうものばかりだった。
『ここ まつ』
モノは入力欄に指を置いたが、何も書けなかった。
今終わろうとしているのは、こちらからの通信ではない。待っている側の活動そのものだ。それを説明するには、oneがどのように自分を捉えているかも知らなければならない。
ユニが、彼女の横から画面を覗いた。
「今日は、ここまでにしよう」
「わかってないと思う」
「私も、上手く説明出来ない」
ユニはそう答え、端末を机へ置いた。
その後、oneは三つの点を送ってきた。一本の線が抜けていた。
モノは線を結んだ。
次の問題が来た。
彼女はそれにも答えた。
ユニが移行の案を持ってきたのは、三日後だった。
ユニは図の中から、更新によって働かなくなる処理を一つ選んだ。その横に、もう一つ丸を描く。
「これの代わりを、借りたマシンの上に作りたい」
「同じ働きをするプログラムって事?」
「うん。ここに何が来て、それにどう反応して、どこへ結果を返すか。わかっている部分から、代わりを用意する」
新仕様を取り消させる案ではなかった。通信の為には必要なくなるやり取りを、oneの為に、研究用の設備で引き受けようとしているのである。
ユニは元の丸を消さずに、代わりの丸からも線を伸ばした。
「いきなり交換はしない。最初は両方を繋いで、今のoneの動きに反応させる。代わりのプログラムが返した結果も、その後のoneの動きに使われるようにする」
「そっちもoneの一部になったら、元の方を外す?」
「少しずつね。外してもやり取りが続くか、確かめながら」
ユニはそこでようやく、元の丸に繋がる線を薄くした。代わりの丸を通れば、周囲とのやり取りは続けられる。その順序で、一つずつ役目を引き継いでいくつもりだった。
曲を止めないために、演奏を続けながら一人ずつ奏者を交代させるようなもの。
モノの理解はこうだった。
全員が一度手を止めてしまえば、もう一度同じ曲を弾けても、さっきまで続いていた演奏はそこで終わる。ユニは、その切れ目を作らずに済ませたいのだろう。
「外す順番を間違えたら?」
「途中で活動が途切れるかもしれない。だから、先に代わりを繋ぐ。元の方を減らしても続けられるってわかるまで、両方残す」
モノは図を拡大した。既に失われたやり取りが灰色で示され、その先には、まだ何が繋がっているかわからない箇所もある。
「そもそも、どこまで代わりを作れば足りるんだろう」
「まだ、わからない」
ユニは答えた。
「今見えている部分を引き継いで、oneの反応が持ち直すか確かめたい。足りない所は——その時に調べるしかないと思う」
元のインターネットを丸ごと作り直す事は出来ない。出来るとすれば、oneの活動に必要な働きを見つけ、二人が使える設備へ少しずつ引き継ぐ事だった。何を残せば足りるかもわからないのだから、頼りない案には違いない。それでも、代わりが務まるか試せるのは、元の働きが残っている今のうちだった。
モノは、代わりのプログラムで再現する働きの一覧を開いた。
実装出来ない項目には印を付け、意味の曖昧な所には質問を書いた。ユニは隣へ椅子を寄せ、一つずつ説明した。説明の途中で、自分から印を付け直す箇所もあった。
「ここは、もう少し考える」
「じゃあ、その次」
二人は順番に進めた。
窓際の照明が消えた時、モノは顔を上げた。最初の夜にも、同じようにそこだけ暗くなった。
画面の片隅に、oneからの要求が出ていた。
『もういちど』
モノは、今日最後の三角形を送った。




