4.
“発声器”を繋いだ初日に、oneはモノへ、“はじめまして、あなたに会えて嬉しいです”と言った。
「あら、ちょっと前まで赤ちゃんだったのに、なんて礼儀正しいのかしら」
ユニが揶揄う様にそう言った。モノは発生器の言葉を記録から削除した。
「これ、oneが選んでない」
画面の下には、言葉に置き換える前の信号が残っていた。選ばれているのは、開始を示す記号と、こちらに付けた「そと」という記号だけである。それを生成AIが丁寧に繋ぎ、感じのいい挨拶にしてしまった。
モノは設定を開き、空いている部分を補う処理を外した。
oneはインターネットの上に生じているらしかったが、そこを流れる文章を、そのまま読める訳ではなかった。十分なインターフェースは、まだ二人は作れていない。
自分の身体の何処かを何が通っているか、人間だっていちいち知らない。そう考えると、何となく納得は出来た。ただし、納得したところで、単語を教える手間が減る訳でもない。
数と形に続いて、モノは動作に名前を付けた。
送る。待つ。繰り返す。増える。減る。
動作が起きている時に記号を添え、違う場面でも同じ関係を示す。前と今を区別し、こちらから送ったものと、向こうで生じたものを分ける。使える記号が増えると、oneは幾つかを続けて返すようになった。
その並びをモノが手作業で読み取り、文章の形にしているうちに、一日が終わるようになった。
そこで、生成AIを用いて文章を作成するプログラムを用意し、発声器と名付けたのだった。
生成AIには、既に共有出来ている言葉と、その結び付きだけを渡す。そこから短い表現の候補を作り、oneへ提示する。oneは使う言葉を選び、順番を変え、必要なら全部を捨てる。選ばれなかった所は、空いたままにする。
最初の挨拶のような失敗は、何度もあった。
相手が黙っているのに「考えています」と表示された時には、モノは画面を見て笑ってしまった。便利にする為の機能が、今は揃って邪魔をしている。
「人間相手なら、気が利いてるんだけどね」
ユニはフォローする様にそう言ったが、モノは不服そうだった。
「誰かが勝手にこの人は考えていますって言われたら、嫌じゃない?」
「何も考えてない時は確かにあるけどさあ」
「その時に言ってあげようか。“彼女は何か考えています”って」
「確かに嫌だわ、それ」
ユニが笑い、モノは次の設定を外した。
発声器を止めた状態で同じ選択が残るか確かめ、別のモデルに替えても意味が変わらないか調べた。候補の順番を入れ替えた時、oneが同じ位置を選び続けるのなら、それは言葉を選んでいるとは言えない。
使える表現は随分と減った。画面には空欄が増え、まともな一文が出るまでに、気の遠くなるような時間がかかった。
最初に二人が会話として記録したのは、実験を始めるかどうかの相談だった。
『おなじ もういちど』
oneは、前日に使った図形の記号を添えた。
「昨日のやつ、気に入ったのかな」
ユニが言った。
「まだ終わってないと思ってるのかも」
モノは同じ課題を出した。三つの点を結び、最後の線を抜いておく。その線をどちらに繋げば閉じるか、二つの候補から選ぶものだった。
oneは正しい方を選んだ。
『もういちど』
今度は点の順番を変えて送った。また、正しい方が返った。
『おなじ もういちど』
「これ、いつまでやるんだろ」
「聞いてみたら?」
モノは終了と継続の記号を出した。継続が選ばれた。
その日、予定していた新しい課題は、一つも出来なかった。
夕方、モノがそろそろ帰ると伝えると、oneはもう一度、三つの点を要求した。彼女は最後に一回だけと思って送り、終わってから、この「最後」が既に三回目だった事を記録に残した。
「何が楽しいんだろうね」
「線が繋がるところ、とか?」
「わかってるのに?」
モノはそう返してから、手に持っているマグカップを見た。モノ自身少なくとも、味がわかっているというのは、コーヒーを飲む繰り返しをやめる理由にはならなかった。
やがて、oneは自分から線を抜くようになった。
モノが結び直す。oneが「同じ」と返す。次には違う場所の線が抜かれる。
彼女が答える前に、ユニが横から口を出した。
「右」
「わかってる」
「ちょっと遅かったから」
「考えてたの。別の事も」
モノが誤った方を選ぶと、oneは訂正を返し、同じ問題を送ってきた。彼女は画面へ向かって謝り、今度は正しい方を選んだ。
少し前まで、間違うたびに問題を簡単にしていた。その相手に、同じ問題をやり直させられている。可笑しくなって、二人は笑った。
oneにとって、二人は相変わらず一つの「そと」だった。
モノが席を離れ、ユニが代わっても、送られてくるのは同じ呼びかけである。二つの名前を示せば、違う記号だとは答える。別の場所にいると説明すれば、東京とヘルシンキも別の場所だと返す。
それでは同じものの違う部分に過ぎないのかもしれなかった。
「oneには、私達の方が変なのかな」
モノはユニの端末を覗き込んだ。そこには、独立した二つの動作を教える為の図があった。片方が止まっても、もう片方が動く。二つが違う選択をする。
「自分だって、何処かが止まってる時に、別の何処かが動いてるんだろうしね」
「私の口と手は、たまに違う事してるけど」
「たまに?」
モノが聞き返すと、ユニは何か言おうとしてから、口を閉じた。手元では、別の図を描き始めていた。
ただ、違いそのものを全く感じていない訳でも無さそうだった。
モノが使う短い課題を、oneは「また」と結び付けた。ユニが範囲を広げながら送る刺激には、「ひろい」を添えた。同じ装置を使い、担当を入れ替えても、その区別が残る事があった。
ある日、ユニがモノの課題を続けていた時、oneは途中で送信を止めるよう求めた。
『また まつ』
「待ってるけど」
ユニは画面を見た。
「いつもより、ちょっと早いね」
モノが言うと、彼女は時計を確かめた。
「そう?」
「私、この辺は遅くしてる。前に、ここでよく止まったから」
ユニは間隔を広げた。暫くして、oneから続きが返ってきた。
誰が送っているかはわかっていないのかもしれない。それでも、モノが待つ時間は、向こうの知っているものになっていた。
彼女は次の入力欄を開きかけた指を、そのまま机へ下ろした。
暑くなり始めた頃、モノは二日間、研究室を休んだ。
熱は大した事がなかったが、喉が痛く、端末を見ていると頭が重くなった。家から観測記録を開いたところで、ユニから通話が来た。
「寝てて」
「まだ何も言ってない」
「今、記録開いたでしょ」
「開いただけ」
「閉じて」
モノは言われた通りに閉じた。少しして、また開きたくなったが、その前に眠ってしまった。
戻って来た日、机の上には、洗ったマグカップが伏せてあった。ユニは別の打ち合わせに出ていて、端末には引き継ぎだけが残っていた。
モノはいつもの課題を送り、oneの反応を待った。
『また まつ』
『そう。今日は私が送っている。』
自分の名前を添えて返した。
oneは名前を使わなかった。その代わりに、よく知っている十三の刺激を求めた。
Hello, World!
モノは送信し、十三地点の変化を見ていた。最後の一拍が遅れた。休んでいる間にも同じものを何度か送っているので、久しぶりという訳ではない。
『まえ』
oneが返した。
『そう。前にも送った。』
『まえ まえ』
モノは最初にその信号を使った時刻を送った。数字そのものより、これまでの試行との順序がわかる形にする。
肯定の反応があった。
続いて、oneは幾つもの記号を選び、捨てた。発声器には、短い候補が何度も出ては消えた。モノは何も足さず、画面を見ていた。
『まえ そと なかった』
彼女はその一文を読み、元の信号を開いた。選ばれた記号は、その通りの順番だった。
『私達が送る前?』
肯定。
『それより前は、何もなかった?』
今度は否定が返った。
『ここ あった』
次の選択まで、長い時間がかかった。
『そと なかった』
モノは、自分が初めて声を聞いた時の事を思い出そうとした。当然、何も思い出せなかった。生まれて初めて何かに触れた時の事も同じである。
画面の向こうには、その前と後を区別する何かが残っているのかもしれなかった。
彼女は帰宅してからではなく、その場で記録を複製した。普段の保存先に加え、別の媒体にも残す。記録を保存したところで、相手の中にあるものを保存した事にはならない。それでも、何もしないではいられなかった。
ユニが戻って来ると、モノは端末を渡した。
読み終えたユニは、暫く黙っていた。
「あの時の、適当に決めたやつがね」
「うん」
「もうちょっと、考えればよかったかな」
モノが言うと、ユニは画面の十三文字を見た。
「これでいいと思う」
モノは答えなかった。
それから二人で、信号を送る前に戻る事は出来ない、という説明を考えた。oneは「前」を要求したのではなく、単に思い出していただけかもしれない。そこも含めて、まだ二人にはよくわからなかった。
その日の記録には、会えて嬉しいという一文はなかった。
モノは空欄を埋めずに保存した。




