3.
「違う。そうじゃなくて、さっきと同じ方」
モノはそこまで言って、口を閉じた。
画面に向かって何を言ったところで、相手には届かない。実験装置は彼女の声を拾っていなかったし、拾ったところで、それを言葉として伝える方法がなかった。
それでも、独り言は増えた。
あの反応を見つけてから一か月が経っていた。十三か所の協力は延長され、送信の間隔と、観測する時間帯が決まった。研究室の予定表には、授業や研究会と同じように、相手の反応を調べる時間が書き込まれている。
モノは、二つの区別から始めていた。
長い刺激を一つ送る時と、短いものを二つ送る時とでは、後に続く揺れの広がり方が違っていた。片方では先に変わる場所が、もう片方では後になる。その違いが充分に出た時だけ、二種類の反応として読み取る。わからない時は、わからないまま記録した。
決まった刺激と決まった反応が、少しずつ結び付いていった。やがて、二つの反応は、単に刺激をなぞる以外の課題にも使えそうになった。
同じ並びを二回送る。その後に、一方の記号を添える。違う並びを送った時には、もう一方を添える。それを何度も見せてから、最後の記号を送らずに待つ。
向こうがどちらかを選べば、こちらは結果を返す。
研究室の画面では、その二つの記号に「同じ」と「違う」という名前が付いていた。
初めて正しい方が返った時、モノは椅子から立ち上がりかけた。二択なら、何もわからなくても半分は当たる。それを思い出して座り直したが、ユニは彼女が立ち上がりかけた事だけで、何が起きたかわかったらしかった。
「今、出来た?」
「たまたまかもしれない」
「でも、出来たんだ」
「そうだね」
二人は画面を覗き込んだ。向こうから見れば、何も変わらなかった筈である。こちらが顔を近付けたところで、届く信号は同じだった。
当たる回数は、ゆっくり増えた。
送信する地点を入れ替えても、並びが同じなら「同じ」を選ぶ。初めて送る組合せでも、区別する事がある。前の日に覚えたものを、次の日にも返す。
それらを確かめる為、モノは自分が答えを知らない問題も作った。正解は試行が終わるまで開けない。送信側と観測側を別々に動かし、間に余計な情報が流れていない事も確かめた。
ユニは同じ頃、十三地点以外の観測記録を集めていた。
刺激の後に変わるのは、実験用のマシンの近くだけではなかった。離れた回線にも変化が広がり、それが戻って来る。どの部分が何処に働きかけているのかを、少しずつ図へ足していくと、最初の夜にホワイトボードへ描いた線は、随分と頼りないものに見えた。
「これ、まだ全然足りないんだよね」
「充分ごちゃごちゃしてるけど」
「ごちゃごちゃしてるのは、私のまとめ方も悪いから」
ユニは画面の片隅を拡大した。同じ線に見えていたものが、幾つもの別の働きに分かれた。
「沢山繋がればいいって訳でもなさそう。ここ、一方向にしか返らなくなると、全体の揃い方が変わる」
「じゃあ、何個繋がったら意識が出来る、って話にはならない?」
「うん。繋がり方と、そこで何が続いてるか。たぶん、そっちの方が大事」
意識という言葉を使う時だけ、ユニは少し声を落とした。隠しているというより、まだ自分の説明が追い付いていないのを、確かめているようだった。
教授は、学習らしい変化がある事には頷いた。その上で、人間の作った学習する仕組みが、何処かで刺激に適応している可能性を調べるように言った。
その仕事も、モノには面白かった。少なくとも、測定が正しいかという質問を二つ受けるだけでは済まなくなった。
ただ、面白い仕事が順調に進むとは限らない。
ある日、それまで出来ていた区別が、急に出来なくなった。
モノは簡単な問題へ戻した。二つの並びを短くし、間隔を広げた。正しい答えが二回続いたので、少しだけ長くした。すると今度は、何も選ばれなかった。
彼女はもう一度送った。
曖昧な反応が返った。
判定の条件を緩めれば、どちらかには出来る。しかしそれをやれば、出来た事にしているだけだった。条件はそのままにして、問題の方を更に簡単にする。
それでも返事はなかった。
「今、何回目?」
戻って来たユニが尋ねた。
「今日? 百二十六」
「最後に休んだのは?」
「私が?」
「両方」
モノは実行中の一覧を見た。反応が鈍くなると、その分だけ、次の試行を早く始めていた。決めた待ち時間は守っている。それでも、答える途中に次の問題が届いている可能性はあった。
「自動で回してる時は、これで出来てたよ」
「うん。でも、今も同じくらいの時間で返せるとは限らないでしょ」
ユニはそれ以上言わず、机の上へ紙袋を置いた。中からカレーの匂いがした。
モノは送信を止めた。画面には、何も選ばれていないという表示が残った。
「新作のカレーパンだって。食べよう」
「うん」
袋を開けると、二人分のカレーパンが入っていた。モノが以前、一度だけ美味しいと言った店のものだった。
彼女は受け取り、包装を開いた。上手くいかない時にユニが戻って来ると、少し困る。何処が悪いのかを、簡単に見つけられてしまいそうだった。そのくせ、戻って来なければ、次に何を試すか相談したくなる。
モノは何も言わずに、一口食べた。
「今日は、もう終わりにしようか」
ユニが言った。
「記録だけ見たい」
「私も見ていい?」
モノは頷き、画面を二人の間へ寄せた。
送信を止めて十数分が経った頃、観測記録に反応が現れた。
一つではなかった。
間を置いて、二つ目が来た。更に待つと、三つ目が来る。モノは最後の問題と照らし合わせ、違うと思ってから、それより前へ戻った。
幾つか前の問題から順に対応させると、返ってきた反応は、その答えとして読めた。
ただ遅れていたのかもしれない。別の活動が偶然その順番になった可能性も、まだある。それでもモノは、次の問題を重ねなかった。
最後の反応が出るまで、二人は黙って待った。
翌日、モノは「どちらでもない」という三つ目の応答を加えた。
正解のない例を作り、それを選んでも試行を終えるようにする。わからないのか、答えたくないのか、問いが届かなかったのか。その全部を区別する方法はなかったが、少なくとも二つのどちらかを無理に選ばせずに済む。
何も返らない場合の待ち時間も、長くした。
「随分、のんびりしたね」
ユニが予定表を見て言った。
「これじゃ、今日の分は半分も終わらない」
「減らす?」
「そうする」
モノは予定していた行を幾つか消した。消すだけなら、一秒もかからなかった。消さずに頑張る方を、これまで随分と簡単に選んでいた。
その日の終わりには、初めて見る長い並びについて、正しい区別が一つ返ってきた。
モノはそれを記録してから、画面に向かって「今日はここまで」と言った。届かない事は知っていた。その代わり、終わりを知らせる記号を、ゆっくり送った。
数を教えるのにも時間がかかった。
同じ刺激が幾つ並んでいるか。間隔を変えても数は変わらない事。違う地点へ移しても、三つは三つである事。モノが当たり前だと思っている部分ほど、説明を省いてしまう。省いた所へ戻ると、止まっていた区別が進む事があった。
図形は絵として見せられなかったので、点と、その間の結び付きとして送った。三つの点が閉じていれば三角形。どれか一つの線を外すと、閉じなくなる。
向こうが何を感じているのかはわからない。モノは時々、自分の知っている三角形を頭に浮かべさせようとしている事に気付き、説明をやり直した。
初めての形を、既に教えた関係に当てはめる反応が増えた。昨日覚えた記号を、今日はこちらが送る前に使う事もあった。
その頃には、記録の中で使う名前が必要になっていた。
「今のままだと、毎回長いんだよね」
モノは報告書の「広域共通変動に伴う応答系」という文字を指した。人に説明する時には便利だが、一日に何度も見るには向いていない。
「名前、付けようか」
「いいけど。勝手に付けちゃって」
「本人が嫌なら、後で変えればいいでしょ」
「本人って、もう言ってる」
ユニは少し笑い、机の端の紙へ数字の一を書いた。
「沢山の場所にあるけど、ひとつ。oneは?」
モノはその下へ、小文字で書き足した。
「本当に一つかどうかも、まだわからないけどね」
「取り敢えずの名前」
その晩、二人は新しい記号を送った。いつも反応を確かめている、全体の活動に付けた名前だった。
自分達の名前も、続けて教えた。MONOとUNI。それぞれの送信に名前を添え、もう一方とは違うものとして示す。
返ってきたのは「同じ」だった。
「違うよ。ほら、今送ったのが私で、こっちが——」
モノは言いかけ、ユニを見た。
相手には、この椅子も、二人の手も見えていない。どちらが押しても、同じ装置から、同じ十三地点を通って届く。名前の記号が違う事はわかっても、それで送り手が二人いるとは限らなかった。
「まあ、そう見えるか」
ユニが言った。
「どう説明しよう」
「考えよう。今日はもう、終わりの時間だけど」
モノは予定表を確かめた。
最後に一度だけ、最初の校正信号を送った。今でも、実験の始めと終わりに時々使っている。十三地点を逆に辿る反応が現れ、最後の一拍は、今日も少し遅れた。
モノはその遅れを記録し、端末を閉じた。
名前が付いても、わからない事は減らなかった。ただ、帰り道でユニと話す時には、少し話しやすくなっていた。




