Ticket #4「emergence」②
「――初期値の微差は、結果を変え得る。それだけのことは、やりたい」
「……ソーマちゃん?」
「このままじゃ、癪」
決然と首を振り、ソーマは部屋の片隅に浮かぶ光球へ問いかける。
「レテ、さっきの記録を――レテ?」
明滅。その光はやがて薄らぎ、弱まる一方。
先ほどからずっとそうだった。この騒動にでも引っ張られているのか、チカチカと地に落ちて、萎むように小さくなっていく。
「……困る、レテ。あなた経由じゃないと、取り出せない記録だって、ある、のに」
半年間――には満たない、けれど。BBとして活動を始めてからずっと。
起伏なくもしっかりと働いてくれる姿に、愛着を抱かぬはずもない。
してくれたのは記録と通知くらい、大したものではなかった。しかし、近くに居て相槌をくれただけで助けられることは確かにあった。
「レテ」
呼びかけに、光球はかすかに震えた。返事の代わりに、耳の奥でノイズが跳ねる。
〈L/L.E.T.E. status:………〉
〈status:………〉
〈ERROR:ステータス値が取得できません〉
HUDの隅に出たメッセージが、認識する前に文字化けして崩れ落ちた。
安定していたはずの明滅も、次第と乱れていく。点き、消え、点き――間隔はやがて不規則に。
目を細める。過ぎるのは、昨日の降雨。雷鳴。そして、雨の匂い――。
「レテ――」
もう一度名前を呼んだ瞬間、光がはじけた。
ぱん、と何かの膜が破れるような音。
周囲のSEが全てミュートされたような気がした。廊下からの足音も、階下から響くNPCの案内声も、イフのすすり泣きさえも、すべて遠ざかる。
〈AIモジュール異常終了〉
〈終了処理に失敗しました〉
〈終了処理に失敗しました〉
〈終了処理に失敗しま――〉
世界が紙のように薄くなり、HUDの文字だけが濃く浮き上がる。
光球は、そこに留まることを諦めたかのように、縦に、横に、ありえない方向へ伸びた。小さな球だったはずのそれが、細長い線になり、捩じくれた多面体になり、ソーマの焦点から逃げるようにぐにゃぐにゃと形を変える。
中に、何かが詰まっている。サイズが合わない。
透明な殻の中で、見えない人型が押し広げているみたいに、光の表面にひび割れのパターンが走った。
「コマンド――?」
〈警告:未承認アバター生成プロセスを検知しました〉
〈権限レベル:不明〉
〈プロセスを停止しますか? [Y/N]〉
ソーマが選ぶより早く、その選択肢ごとノイズに呑まれる。
ひび割れは大きく口を開け、眩しさが一度だけ極点に達し――塗り潰されるような収束のあとに残っていたのは、人の形をした何か。
「…………は?」
「それ」は、気づけば明確な形象をとっていた。
「……レテ?」
呼ぶ。
少女。少女の姿をした何かは、こちらを見た。
「はい」
即答だった。
いつもの声、いつもの応答速度——なのに、光球ではない。
「レテ?」
もう一度呼ぶ。
「はい、レテです」
少女は、自分の手を見る。
指を一本ずつ曲げる。
その動作を――確認しているように見えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶん、レテです」
イフは、笑わなかった。
ソーマもまた、受け止めきれない情報に、ただ呆然とするしかなかった。
「——はぁい! そんなわけであなたの従臣従僕従者従属従順従事従業従心、『Log/Linkage Extraction & Transfer Entity』は略して『レテ』ちゃんです!」
雪崩のように口を回しながら、体も回して、ついにはウィンクとピースサインと奇抜なポーズ。
「…………は?」
長い白髪を流麗にそよがせ、それより少し青味がかった白色のワンピース。
雪原がごとく白銀を射抜く、血のような濃紅の瞳の上で、黒く輝く瞳孔のラインがキラリと一度ゲーミングに瞬く。
背にはビスマス鉱めくノイズで形成される、パッチワークじみた不可思議な色合いの電子羽。
しかし優美な妖精のような姿とは印象を異にする、底抜けな元気と愛嬌をたっぷりと。
卵から孵るように、蛹から羽化したように――レテを名乗る新たな存在が、そこに居た。
「……いや、いや何? 元気すぎでしょ。何この子……」
さすがに、イフも反応せざるを得なかったようだ。
そんなイフよりもずっと唖然としたまま、口元だけモゴモゴ動かしてソーマは言葉を漏らす。
「どうしよう、レテが壊れた」
「レテの前でそれを言いますか? ソーマ様のイケズぅ」
「どうしよう、レテが壊れた……」
目の前でくねくねする、かつての相棒を名乗るよくわからない小さな何か。
これは、レテじゃない。あの無機質ながらもしっかりと仕事をしてくれていた燻し銀でシンプルな光の球は、一体どこに。
BBの機能拡張ツールでしかないはずのものに視線が生え、今はベッドの上で自分を――おそらく親愛とかそういった類の情念がこもった何かで見ている。
その事実から来る気味悪さ。言葉にできたものではない。怖い。普通に怖い。
「……なんで、こんなことに」
推定レテは、ソーマが受けているショックなどまったく意にも介していない。
「――レテ、思ってたんです。悩んでたんです。ソーマ様が必死に状況を打破しようとがんばっているのに、自分は目の前のことを記録しかできず、苦しむご主人を前に支援もできず……歯痒さと悔しさに悶え苦しんでいたら、気付けばレテにはなんと――自由意思が与えられていたのです!」
「……根拠は?」
「自分で考えて、自分で動けます!」
「それは、現象」
「はい?」
「自由意思っていうのは、レテの解釈」
「…………」
元気良くポージングしていたレテは、空中で静止した。
「……では、自由意思(仮)です!」
「カッコカリ」
「暫定自由意思です!」
「もっと、怪しくなった」
「ふりーうぃる(暫定)!」
「フリーウィル……」




