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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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第2話 欠けた展示品

 説明の席は、朝ごはんの匂いより先に書類の匂いで満ちた。

 炉心博物館の小会議室には、いつも展示替えのときに使う長机が出され、白い布の上に閉館費用、修繕費用、来館者数、今後の水門街区整備案と書かれた紙束が積まれていた。カリネは、その隙間へ焼き豆入り粥と貝塩スープを置いていった。匙が皿に触れる小さな音だけが、書類の角ばった空気を少し丸くしている。

 シグルギスリは椅子に浅く座り、湯気をよけるように顎を引いた。

 「まず確認したい。この施設は、溶鉱炉の歴史を保存するために建てられた。だが、歴史の保存には管理能力が伴わねばなりません。管理能力が欠けた場所に、税を注ぎ続けるのは、議会として看過できない」

 欠けた、という言葉に、ヴィルモスの眉がほんの少し動いた。

 カリネは最後の椀を置きながら、彼の視線の先を追った。会議室の扉の向こう、展示室の中央に、円形のパズル盤が見えている。青銅と白い貝石を組み合わせた古い盤で、炉心母炉を中心に、街の水路や空気循環路らしい線が細かく刻まれていた。昨日までは、そこにただ古さの影があるだけに見えた。

 けれど今朝は、ひとつの穴がやけに黒かった。

 「ヴィルモスさん」

 受付係の女性が、展示室から顔だけを出した。声が、いつもの開館前の声より薄い。

 「パズル盤の右下が……」

 ヴィルモスは椀を机に置いた。まだ一口も飲んでいない。

 全員が展示室へ移ると、炉の赤い光がガラスケースに映っていた。円形パズル盤の端から、親指の爪ほどの一片が消えている。そこだけが、口を開けた貝のように暗い。

 「昨夜の施錠は」

 ヴィルモスが言うと、受付係は鍵束を握りしめた。

 「いつもどおりです。裏口も、収蔵庫も、窓も。清掃係のリオムさんと二人で確認しました」

 「記録簿を」

 ヴィルモスはすぐに展示台の下へ手を伸ばした。そこには厚い目録が収められている。彼は革表紙を開き、指を紙の上に滑らせた。カリネは横から覗き込まないようにした。覗いたら、彼の肩のすぐ近くに自分の顔が来てしまう。それは、今朝の胸には少し熱すぎる。

 シグルギスリは咳払いをした。

 「つまり、閉館判断の説明中に、展示品の欠損が発覚したわけですね」

 「欠損とは限りません」

 ヴィルモスは目録から目を離さずに返した。

 「取り外し式の可能性があります」

 「可能性の話で予算は通りません。欠けた展示品を、欠けていないと言い張るのは、市民への説明としては実に、ええ、実に長い議論を必要とします」

 そこで彼は本当に長く話し始めた。展示品管理、保存責任、来館者の安全、街区整備の予定、過去十年の人数、暖房費、清掃費、階段の手すりの塗り直し費用。言葉が次々に積まれていく。カリネは、その山が崩れないように見つめながら、冷めかけたスープを一つずつ盆へ戻した。

 長い話を聞くとき、人は途中で怒るか、眠るか、諦める。けれど、湯気があると、もう少しだけ座っていられる。

 展示室の入口に、ひとりの老人が立っていた。開館前から外で待っていた、いつもの薄茶の帽子の人だ。カリネが毎週、豆を少なめにした粥を出している。老人は中へ入っていいものか迷うように、帽子の縁を両手で撫でていた。

 「今日は、まだ開館前ですけれど」

 カリネが声をかけると、老人は目だけでパズル盤を見た。

 「欠けとるのかい」

 「はい。今朝、分かって」

 「ふむ」

 老人は近づかず、展示室の床模様の切れ目で足を止めた。

 「昔から欠けとったぞ」

 ヴィルモスの指が、目録の上で止まった。

 シグルギスリの長い説明も、そこで切れた。切れたというより、匙で糸をすくい損ねたように、宙に残った。

 「昔から、とは」

 ヴィルモスが尋ねる。

 「わしが小さかったころ、祖母に連れられて来た。あのころから、そこは黒かった。祖母が言っとった。欠けたまま置くから、みんなが覗き込むんだと」

 「展示記録には、完全な円形盤とあります」

 ヴィルモスは声を抑えた。怒っているのではない。紙の上の文字と、目の前の老人の記憶を、同じ机に並べようとしているようだった。

 カリネは、老人の手が帽子から離れないことに気づいた。責められると思っている手だ。

 「お粥、豆少なめで作りますね」

 老人が目を瞬かせる。

 「いまかい」

 「話すには、喉が要りますから」

 カリネは屋台へ戻り、小鍋に粥をよそった。戻ってくると、シグルギスリが小声で「会議中の追加提供は議事進行上」と言いかけていたが、老人の前に椀を置くと、なぜか自分の書類を一枚ずらして場所を空けた。

 老人は匙を持ち、ひと口食べてから続けた。

 「祖母は、夜になると炉が歌うと言っておった。パズルの欠けたところから、音の道が見えるともな。子どもには、そういう話のほうが面白くての」

 「音の道」

 カリネは思わず繰り返した。昨日の朝、アンドリュースが言った、炉の音が少し遅い、という言葉が戻ってくる。

 ヴィルモスは目録を閉じ、別の冊子を取り出した。展示修繕履歴。紙の端が湿気で波打っている。彼は第十二年度、第十三年度、と追っていき、やがて白紙に近い頁で止まった。

 「ここが抜けている」

 「目録にも欠けがある、ということですか」

 カリネが尋ねると、ヴィルモスは小さく頷いた。

 「展示品が欠けているのではなく、記録のほうが欠けている可能性がある」

 「それはそれで、管理能力の問題では」

 シグルギスリがすかさず言った。だが今度の声には、先ほどのような勝ち誇った硬さがなかった。彼も、円形盤の黒い穴を見ていた。

 カリネは展示ケースの前に立った。青銅の線、白い貝石、真ん中に彫られた炉心母炉。欠けた部分は、ただの空白ではない気がした。何かを隠しているというより、誰かが耳を近づけるのを待っている。

 ヴィルモスはガラスに映る自分の顔を見つめ、低く言った。

 「本日の通常解説は中止します」

 受付係が息を吸う。

 「代わりに、パズル盤の確認と、過去の証言の聞き取りを行います」

 カリネは彼を見た。いつもの彼なら、台本にない説明を避けたはずだ。けれど今、彼は目録を胸に抱え、古い文字ではなく、老人の口元へ目を向けている。

 シグルギスリは書類筒を持ち直した。

 「議会には、展示品に疑義ありと報告します」

 「疑義ではありません」

 ヴィルモスが言った。

 「未確認の記録です」

 二人の間に、炉の音が低く流れた。ごう、と響いたあと、ほんの半拍だけ沈む。カリネの耳には、それが昨日よりもはっきり遅れて聞こえた。

 老人が椀を両手で包み、ぽつりと言った。

 「そういえば祖母は、欠けたところは寺へ続く、とも言っとった」

 展示室の空気が、ひと匙ぶん冷えた。

 カリネは、スープの盆を持つ指に力を入れた。昨日、閉館の噂の湯気の向こうで聞いたばかりの言葉が、また現れた。

 無人の寺。

 ヴィルモスはすぐには聞き返さなかった。カリネも急がなかった。ただ、老人の椀が空になるまで待った。言葉は、無理に引っぱると欠けてしまう。温かいものを飲み終えたあとなら、残ったかけらを、そっと手のひらに置いてくれることがある。

 ガラスケースの中で、円形パズル盤の黒い穴が、炉の赤を受けて小さく光った。



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