第9話 シエルへ
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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シエルが立ち上がった。
アシュリーは部屋に入り、扉を閉めた。外套を脱ぐ前に一度息を吐いた。暖炉に火が入っていた。シエルが準備していたのだろう。どのくらい待っていたのかは聞かなかった。シエルは待っていても顔に出さない人だった。
「遅くなりました」
「いいえ」
シエルは短く言った。それだけだった。「大丈夫でしたか」とも「何があったのですか」とも言わなかった。ただ外套を受け取った。
アシュリーは椅子に腰を下ろした。暖炉の前に座った。炎が揺れていた。さっきまでいた応接室とは別の暖炉だった。でも炎の色は同じだった。応接室の炎と、自分の部屋の炎と、どちらも同じ色で燃えている。それが少し不思議な気がした。四年間、どちらの炎も見てきた。応接室では「承知しました」と言い、自分の部屋では台帳を整理した。どちらの部屋でも炎の前に立っていた。今夜が最後だと思うと、少し遠い気がした。遠い、というより、すでに少し昔のことのように感じていた。
「シエル」
「はい」
「明日、ここを出ます。実家に戻ります」
シエルが動きを止めた。外套を抱えたまま、少しの間そのまま立っていた。部屋の中が静かになった。暖炉の炎の音だけが聞こえた。
アシュリーは炎を見ていた。振り返らなかった。シエルが何を考えているかを確かめる必要がなかった。
「……やっと、ですね」
シエルが言った。
アシュリーは少し目を細めた。返事はしなかった。でも何かが、胸の中で少し動いた。やっと、という言葉を使える人間が、この四年間に一人いた、ということだった。何も説明しなくても、何も言わなくても、やっとという言葉が出てくる人間が。「どういうことですか」と聞かない人間が。「それは寂しくないですか」と言わない人間が。ただやっと、と言う人間が。
その一言だけで、四年間のことが全部わかっていた、ということが伝わった。声には出なかったが、喉の奥で何かが少し緩んだ気がした。知っていてくれた人がいた。それだけで十分だと思った。
シエルがすぐに動き始めた。「荷物は私が」と言って、衣装棚のほうへ向かった。
「必要最小限で大丈夫です。実家には物があります」
「わかりました。でも少し多めに持っていきましょう。しばらく帰れないかもしれませんから」
アシュリーは「そうかもしれない」と思った。実家に帰ってから、どうなるかはまだわからなかった。しばらく休むつもりだった。休んで、それからどうするかは、休んでから考えればよかった。今は先のことまで考えなかった。
シエルが静かに荷物を選んでいた。衣類、書類、細々したもの。音を立てずに動いていた。アシュリーは炎を見ながら、シエルの動く気配を聞いていた。蝋燭の炎が少し揺れた。外の風が窓の隙間から入っているのだろう。寒い夜だった。
「台帳の引き継ぎ資料を作らなければ」
ふと、アシュリーは言った。
シエルが手を止めた。
「……明日でもできます」
「そうですね。でも書き忘れると困る人が出ます。隣国の席次の注意事項と、各行事ごとの禁忌の一覧を、書記局に残しておく必要があります。書いておかないと誰も知らない。特に四月の隣国行事は注意が必要で、席次の組み方に独特の慣習があります。私以外に補記を持っている人間がいない」
「……お嬢様」
「習慣ですね」
アシュリーは少し笑った。笑えた。おかしかった。こんな夜に、最初に出てくる言葉が「引き継ぎ資料」だった。四年間、仕事として動いてきた体が、終わった後もまだ仕事を探している。それが少しおかしかった。おかしいと思いながら、でも本当に書き残さなければならないとも思っていた。それが自分の仕事だった。最後まで、それが仕事だった。
「明日、管理局に寄ってから出ます」
「わかりました。私も準備しておきます」
「シエルはここに残っても——」
「私もついていきます」
シエルが静かに言った。迷いがなかった。「いいですか」という問いでもなかった。報告だった。どこへ行っても同行する、という意思表示だった。
アシュリーは「そうですか」と言った。それだけだった。でも嬉しかった。嬉しいという言葉を使っていいのかわからなかったが、それに近いものがあった。この四年間で、自分の側にいることを選んでくれた人間がいたという、静かな事実だった。
二人で荷物を選び続けた。夜が更けていた。蝋燭が少し短くなっていた。シエルが次の蝋燭を用意しながら「明日の出発は何時にしますか」と聞いた。「朝の五つ、管理局が開いてすぐに」とアシュリーは答えた。「ではそれまでに馬車の手配を」とシエルが言って、また荷物に向かった。
「お嬢様」
「なんですか」
「……何も、聞きません」
「知っています」
「ただ、よく決めてくださいました」
アシュリーは答えなかった。炎が揺れた。木が一本、小さく爆ぜた。パチ、という小さな音がした。その音が止むまで、二人とも何も言わなかった。言わなくてよかった。言葉がない時間が、言葉よりも正確なことがあった。
荷物がまとまった頃、部屋の中は静かだった。明日持っていくものと、ここに置いていくものが分かれた。ここに置いていくものの中に、四年分の台帳が並んでいた。実家には持っていかない。自分の手を離れた記録だった。
アシュリーはその台帳の背表紙を一度だけ見た。それから視線を外した。
翌朝、アシュリーは管理局に向かった。最後の仕事が残っていた。




