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『また従妹に譲ってくれ』が四十八回目だったので、儀礼台帳を白紙に戻しました  作者: ヲワ・おわり


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9/70

第9話 シエルへ

全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。

少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

 シエルが立ち上がった。


 アシュリーは部屋に入り、扉を閉めた。外套を脱ぐ前に一度息を吐いた。暖炉に火が入っていた。シエルが準備していたのだろう。どのくらい待っていたのかは聞かなかった。シエルは待っていても顔に出さない人だった。


「遅くなりました」


「いいえ」


 シエルは短く言った。それだけだった。「大丈夫でしたか」とも「何があったのですか」とも言わなかった。ただ外套を受け取った。


 アシュリーは椅子に腰を下ろした。暖炉の前に座った。炎が揺れていた。さっきまでいた応接室とは別の暖炉だった。でも炎の色は同じだった。応接室の炎と、自分の部屋の炎と、どちらも同じ色で燃えている。それが少し不思議な気がした。四年間、どちらの炎も見てきた。応接室では「承知しました」と言い、自分の部屋では台帳を整理した。どちらの部屋でも炎の前に立っていた。今夜が最後だと思うと、少し遠い気がした。遠い、というより、すでに少し昔のことのように感じていた。


「シエル」


「はい」


「明日、ここを出ます。実家に戻ります」


 シエルが動きを止めた。外套を抱えたまま、少しの間そのまま立っていた。部屋の中が静かになった。暖炉の炎の音だけが聞こえた。


 アシュリーは炎を見ていた。振り返らなかった。シエルが何を考えているかを確かめる必要がなかった。


「……やっと、ですね」


 シエルが言った。


 アシュリーは少し目を細めた。返事はしなかった。でも何かが、胸の中で少し動いた。やっと、という言葉を使える人間が、この四年間に一人いた、ということだった。何も説明しなくても、何も言わなくても、やっとという言葉が出てくる人間が。「どういうことですか」と聞かない人間が。「それは寂しくないですか」と言わない人間が。ただやっと、と言う人間が。


 その一言だけで、四年間のことが全部わかっていた、ということが伝わった。声には出なかったが、喉の奥で何かが少し緩んだ気がした。知っていてくれた人がいた。それだけで十分だと思った。


 シエルがすぐに動き始めた。「荷物は私が」と言って、衣装棚のほうへ向かった。


「必要最小限で大丈夫です。実家には物があります」


「わかりました。でも少し多めに持っていきましょう。しばらく帰れないかもしれませんから」


 アシュリーは「そうかもしれない」と思った。実家に帰ってから、どうなるかはまだわからなかった。しばらく休むつもりだった。休んで、それからどうするかは、休んでから考えればよかった。今は先のことまで考えなかった。


 シエルが静かに荷物を選んでいた。衣類、書類、細々したもの。音を立てずに動いていた。アシュリーは炎を見ながら、シエルの動く気配を聞いていた。蝋燭の炎が少し揺れた。外の風が窓の隙間から入っているのだろう。寒い夜だった。


「台帳の引き継ぎ資料を作らなければ」


 ふと、アシュリーは言った。


 シエルが手を止めた。


「……明日でもできます」


「そうですね。でも書き忘れると困る人が出ます。隣国の席次の注意事項と、各行事ごとの禁忌の一覧を、書記局に残しておく必要があります。書いておかないと誰も知らない。特に四月の隣国行事は注意が必要で、席次の組み方に独特の慣習があります。私以外に補記を持っている人間がいない」


「……お嬢様」


「習慣ですね」


 アシュリーは少し笑った。笑えた。おかしかった。こんな夜に、最初に出てくる言葉が「引き継ぎ資料」だった。四年間、仕事として動いてきた体が、終わった後もまだ仕事を探している。それが少しおかしかった。おかしいと思いながら、でも本当に書き残さなければならないとも思っていた。それが自分の仕事だった。最後まで、それが仕事だった。


「明日、管理局に寄ってから出ます」


「わかりました。私も準備しておきます」


「シエルはここに残っても——」


「私もついていきます」


 シエルが静かに言った。迷いがなかった。「いいですか」という問いでもなかった。報告だった。どこへ行っても同行する、という意思表示だった。


 アシュリーは「そうですか」と言った。それだけだった。でも嬉しかった。嬉しいという言葉を使っていいのかわからなかったが、それに近いものがあった。この四年間で、自分の側にいることを選んでくれた人間がいたという、静かな事実だった。


 二人で荷物を選び続けた。夜が更けていた。蝋燭が少し短くなっていた。シエルが次の蝋燭を用意しながら「明日の出発は何時にしますか」と聞いた。「朝の五つ、管理局が開いてすぐに」とアシュリーは答えた。「ではそれまでに馬車の手配を」とシエルが言って、また荷物に向かった。


「お嬢様」


「なんですか」


「……何も、聞きません」


「知っています」


「ただ、よく決めてくださいました」


 アシュリーは答えなかった。炎が揺れた。木が一本、小さく爆ぜた。パチ、という小さな音がした。その音が止むまで、二人とも何も言わなかった。言わなくてよかった。言葉がない時間が、言葉よりも正確なことがあった。


 荷物がまとまった頃、部屋の中は静かだった。明日持っていくものと、ここに置いていくものが分かれた。ここに置いていくものの中に、四年分の台帳が並んでいた。実家には持っていかない。自分の手を離れた記録だった。


 アシュリーはその台帳の背表紙を一度だけ見た。それから視線を外した。


 翌朝、アシュリーは管理局に向かった。最後の仕事が残っていた。

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