第10話 最後の鍵
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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管理局は朝の静けさの中にあった。
廊下を歩くアシュリーの足音が、石の床に響いた。いつもと同じ廊下だった。いつもと同じ時間帯だった。ただ今日は、脇に書類の束を抱えていた。引き継ぎ資料だった。昨夜、荷物をまとめながら書いた資料だった。
局員がアシュリーの姿を見て立ち上がった。
「あ、アシュリー様。おはようございます。今日はまた早いですね」
困惑した顔ではなかった。まだ何も知らない顔だった。エドワルドから連絡は行っていないらしかった。この局員は四年間、同じ局で働いてきた。代替者欄の記名様式の件で廊下で声をかけてくれた局員だった。「ヴェルヴェント様の方が正確でして」と言いかけて言葉を濁したあの人だった。今日もその人が最初に出迎えた。
「おはようございます。少し、お時間をいただけますか」
「もちろんです。何でしょう」
アシュリーは書類の束を机に置いた。
「引き継ぎ資料です。各儀礼の担当上の注意事項、席次に関する補記、各国別の禁忌一覧、それから書記局との連絡窓口の一覧を入れています。来年の担当者が変わった時のために、必要な情報をまとめました」
局員が書類を手に取った。一枚目を見た。「……」と黙った。
「これは……全部、アシュリー様が」
「台帳の補記として残しているものと、台帳には書けなかった非公式の注意事項があります。こちらの資料には後者もまとめています。特に四月の行事と九月の外交饗宴は注意が必要です。引き継ぎ先の方に渡してください」
局員がまだ書類を見ていた。ページをめくるたびに、少し顔が変わった。三月のページに差し掛かった時、少し長く止まった。「ノルディア辺境伯出席確認済み」という記載があるページだった。局員はそれを読んだ。何も言わなかった。アシュリーはその顔を見なかった。
机の前に座った。引き出しを開けた。四年間使ってきた机だった。引き出しの中に、業務用の書類がいくつかと、書き損じた紙と、予備のペンがあった。全て整理した。書き損じた紙は処分した。予備のペンは局の備品棚に戻した。
最後に、一枚の名刺が残った。
「台帳管理局筆頭担当者 アシュリー・ヴェルヴェント」
四年前に作った名刺だった。この四年間で何枚使ったかは数えていなかった。残った一枚を手に取った。手に持ったまま少しの間、机の表面を見ていた。
机に置いた。そのままにした。次にここを使う人間に何かを残していくとすれば、この名刺ではなく引き継ぎ資料だった。名刺は役割の証明だった。もう持つ必要がなかった。
「あの、アシュリー様、これは……」
局員が言いかけた。
アシュリーはすでに立ち上がっていた。局長室の扉をノックした。「どうぞ」と声がした。
「失礼します」
局長が書類から顔を上げた。
「鍵をお返しします」
胸ポケットから取り出した。局長に差し出した。受け取る手に渡す直前、一秒だけ鍵の重みを感じた。四年間毎日持ち歩いた鍵だった。管理局の棚の鍵と、書類保管室の鍵と、二本がまとめて束になっていた。この重みを手に感じない朝になるのだ、とそれだけ思った。
局長が鍵を受け取った。
「……ご苦労様でした」
局長はそれだけ言った。何かを察した顔だった。詳しく聞かない人だった。局長はいつもそういう人だった。必要以上のことを言わない。それがこの四年間、この局で働きやすかった理由の一つだった。
「お世話になりました」
アシュリーは頭を下げた。
通用門を出た時、王都の空気はいつもと同じだった。冬の冷たさが頬に触れた。遠くで馬の蹄の音がした。通りを行き交う人々がいた。荷物を積んだ馬車が脇を通った。誰もアシュリーを見なかった。当然だった。誰かがこの門を出ていく様子を、街の人間は気にしない。アシュリーがここから出ていくことも、誰も知らなかった。
シエルが馬車のそばで待っていた。荷物はすでに積み込まれていた。
「終わりました」
「はい」
シエルが扉を開けた。アシュリーは馬車に乗り込んだ。座席に深く座った。扉が閉まった。馬車の内側は薄暗かった。外の光が窓から差し込んでいた。
馬車が動き始めた。王都の通りが窓の外を流れていった。四年間、何十回と通った道だった。市場の手前の曲がり角、橋のたもとの石造りの柱、王宮の塔が遠ざかっていく角度、全て見慣れた景色だった。今日が最後だった。来週には見えなくなる。来月には思い出の中にある。そういうものだと思った。
馬車の中で、アシュリーは三日後のことを考えていた。誰にも言っていないことがある。三日後、王宮の儀礼が止まる。
記名権者がいない台帳は、法的に無効だった。宮廷書記局規程第七条。婚約者でなければ記名できない。記名なしには儀礼が成立しない。来年一月第一週の新年の宮廷晩餐会は、主賓の記名がなければ正式な式典として開催できない。書記局がそれに気づくのは、遅くとも年明け二週間前までだろう。
アシュリーは何もしなかった。台帳に線を引いた。鍵を返した。それだけだった。崩れるものが崩れる。止まるものが止まる。それはアシュリーが引き起こすのではなく、制度が自然に機能する結果だった。
誰も責めていなかった。ただ制度通りに動いた。制度は平等だった。誰に対しても同じように機能する。それだけだった。
窓の外の空は白かった。雪になるかもしれない朝だった。馬車が揺れた。シエルが向かいの座席で静かにしていた。二人とも何も言わなかった。それでよかった。




