第8話 最後の言葉
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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「待って、アシュリー」
エドワルドが言った。
アシュリーは扉に手をかけたまま、振り返った。
エドワルドが台帳を持ったまま立っていた。困惑した顔だった。怒っているのではなかった。怒り方がわからないという顔だった。四年間、アシュリーがこういう顔をするのを見たことがなかったから、どう対処すればいいかわからないのだろう、とアシュリーは思った。
「これは、どういうこと」
「台帳の整理をしました」
アシュリーは言った。
「来年の担当から、私の名前を外しています」
「でも……それじゃあ誰が儀礼を」
「ロザリー様がご希望でしたので、ロザリー様がお決めになってください」
「でも、ロザリーは記名のやり方を」
「台帳の最終ページに規程の注記があります」
アシュリーは続けた。声は穏やかだった。感情が出ていないのではなく、感情が落ち着いているという声だった。言うべきことは決めていた。順序も決めていた。
「宮廷書記局規程第7条。記名権者は当年度婚約者に限ります。ロザリー様が来年の儀礼を担当されるには、婚約者という立場が必要です」
エドワルドが台帳を見た。また顔を上げた。
「だから……アシュリー、それってつまり——」
「婚約についても、改めて手続きをお願いします。こちらから書状を送ります」
言った瞬間、室内が静かになった。暖炉の炎が揺れていた。エドワルドは何も言わなかった。言葉を探している顔だった。四年間、エドワルドがこういう顔をするのを見たことがなかった。いつも言葉が先にある人だった。言葉に困ったことがない人だった。今夜初めて、その人が沈黙した。
エドワルドが固まった。
「え……婚約……?」
「よろしくお願いします」
アシュリーは頭を下げた。それだけだった。
「ちょっと待って、なんでそこまで——」
アシュリーは扉を開けた。
「アシュリー——」
扉が閉まった。
廊下はひんやりしていた。蝋燭が等間隔に並んでいた。アシュリーは廊下を歩き始めた。応接室の扉の向こうでエドワルドが何か言っていた。聞こえていた。でも聞く必要がなかった。
歩きながら、右手が震えているのに気づいた。
台帳を持っていた手だった。ペンを使った手だった。
アシュリーは歩きながら右手を見た。小刻みに揺れていた。止めようとした。すぐには止まらなかった。
体の中に何かが蓄積していたのだろう、と思った。四年分が、今夜の行為のあとで少しだけ外に出ようとしているのかもしれなかった。感情ではなかった。ただの体の反応だと思った。台帳に四十八本の線を引いた。「婚約の手続き」という言葉を口にした。扉を閉めた。それだけのことをした手が、少し遅れて震えている。順序が逆だと思ったが、体はいつも少し遅れて正直だった。泣いていなかった。泣こうとも思わなかった。四年間、泣くべき場面がいくつもあって、その全てで泣かなかった。今夜もそうだった。
ただ、手が震えていた。
廊下の突き当たりを曲がった。壁に軽く触れた。石の冷たさが手のひらに伝わった。震えが少し収まった。冷たいものに触れると、体が今どこにいるかを思い出す。石の廊下がある。蝋燭がある。自分の足がある。それだけが確かだった。
四年間、何かが終わるとはどういう感覚かを想像したことがあった。解放か、悲しみか、怒りか。今夜の感覚は、そのどれとも違った。
ただ終わった。
それだけだった。怒りも悲しみも、特別な感情もなかった。ただ、やるべきことが終わったという静かな事実だけがあった。
四年間で一番長い夜になると思っていたが、終わってみると意外に短かった、とアシュリーは思った。台帳に線を引き始めてから今夜の部屋を出るまで、どのくらいの時間が経ったのかを確かめなかった。確かめなくてよかった。終わったのだから、時間は関係なかった。
あとは、どこか遠いところに行けばいい。どこかで休めばいい。その先のことは、まだ考えていなかった。考える必要が出た時に考えればよかった。今夜は今夜のことだけで十分だった。
廊下を歩き続けた。蝋燭の炎が順に揺れていた。自分の足音が聞こえた。遠くで何かの扉が閉まる音がした。アシュリーは足を止めなかった。
廊下を歩きながら、四年前に初めてこの通路を歩いた夜のことを思い出した。婚約が発表されてすぐの頃だった。夜、一人で廊下を歩いて、蝋燭の灯りを見ながら、これからここが自分の場所になるのだと思っていた。嬉しかった。大切にされると思っていた。
同じ廊下だった。蝋燭の並び方も、石の床の冷たさも、変わっていなかった。変わったのは、歩く理由だけだった。
部屋に戻らなければ、とアシュリーは思った。シエルが待っているはずだった。今夜遅くなると言ってあった。シエルは「わかりました」と言って、戻るまで起きて待っていると言った。そういう人だった。「疲れましたね」ではなく「お疲れ様でした」と言う人だった。四年間、その言葉の違いを正確に使い続けた人だった。今夜の帰りにも、きっと同じように言うだろう。
扉の前で一度立ち止まった。もう一度右手を見た。止まっていた。
アシュリーは扉を軽く叩いた。「どうぞ」とシエルの声がした。扉を開けた。シエルが振り返った。何かを読んでいたらしく、手元に書類があった。それをすぐに脇に置いた。アシュリーの顔を見た。何も言わなかった。ただ立ち上がった。その動きだけで、シエルは今夜のことを何か察したのだろう、とアシュリーは思った。




