第7話 白紙に戻す
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
一月。第一週。アシュリーは主賓欄の自分の名前に横線を引いた。
インクが文字の上を通った。線が引かれた。「アシュリー・ヴェルヴェント」という文字が消えた。
一月。第二週。また消した。
一月。第三週。また消した。
エドワルドが「何してるの?」と言いかけた。アシュリーは手を止めなかった。
二月。第一週。「アシュリー・ヴェルヴェント」に線を引いた。消えた。第二週。また消えた。去年、自分が代わりに出た夜会のページだった。台帳には自分の名前が記名権者として書かれていた。今夜、その名前を消した。実態と記録が、初めて一致する。
静かだった。ペンが紙に触れる音だけが、暖炉の炎のはぜる音と一緒に聞こえていた。
感情的にしようとは思わなかった。ただ仕事として処理した。消すべき名前があった。一件ずつ消した。四年間、名前を書いてきた手が、今夜は同じ名前を消している。どちらも同じ行為だった。書くことが記録なら、消すことも記録だった。書くことに慣れた手は、消すことにも迷わなかった。同じペンで、同じ速さで、同じ字を消していった。
三月。ロドリク・ノルディアの出席注記が横にあるページだった。自分の名前だけを消した。彼の名前はそのまま残した。他の人の記録には触れなかった。
四月。春の外交行事のページだった。隣国リヒタールの使節が来る行事だった。去年、この行事の準備に四日間かけたことを思い出した。相手国の使節団の構成を調べ、席次を組み直し、料理の禁忌を厨房に伝えた。儀礼当日は朝から会場で立ち働いた。帰って来た時、シエルが「お疲れ様でした」と言った。「疲れましたね」ではなく「お疲れ様でした」だった。シエルはその言葉を選んで使う。
主賓欄の「アシュリー・ヴェルヴェント」に線を引いた。欄外の注記——席次と忌避色についての覚書——はそのまま残した。次にここを使う人に必要な情報だった。
「ちょっと、待って」
エドワルドが立ち上がったのがわかった。
アシュリーは五月のページに移った。手を止めなかった。
「これ、どういうこと? アシュリー、何してるの」
「……」
「なんで全部消してるの? ちょっと待って」
アシュリーは一件ずつ処理した。五月。六月。夏の儀礼が続いた。国内の行事と外交行事が交互に来た。全ての主賓欄に「アシュリー・ヴェルヴェント」という名前があった。全てに線を引いた。消した。
「待って待って、それ——それ全部消してるの?」
エドワルドが台帳を横から覗き込もうとした。アシュリーはページをめくり続けた。
七月。夏の公式晩餐会のページだった。去年、このページの準備で三日間書記局に通ったことを思い出した。当日の座席表を四回作り直した。エドワルドには「大変だった?」と言われなかった。「ありがとう」と言われた。それだけだった。感謝と、その感謝の軽さを、同時に受け取った夜だった。
八月。九月。秋のページに入った。外交使節の多い季節だった。複数の国から使節が来る行事が連続していた。このページを作る時は特に時間がかかった。各国の優先順位と関係性の調整が必要だったから。それも全て終わった話だった。それぞれの主賓欄の「アシュリー・ヴェルヴェント」に線を引いた。代替者の欄は空白のままにした。誰の名前も、アシュリーの手からは書かれない。それは次の記名権者が決めることだった。
十月。十一月。エドワルドが何かを言っていたが、声が耳を通り過ぎていた。
十二月。最後のページだった。年末の終礼。毎年最後の儀礼で、その年に交わした全ての外交約定を確認する式典だった。四年前、初めてこのページに名前を書いた時、少し手が震えていたことを思い出した。大きな仕事の最初のページだと思っていた。これから続いていくものの、最初の一行だと思っていた。四年後の今夜、その名前に最後の線を引くとは思っていなかった。
主賓欄の「アシュリー・ヴェルヴェント」に、最後の横線を引いた。
台帳を閉じた。
四十八件。全ての行の自分の名前を消した。代替者欄は全て空白だった。誰の名前も書かれていない台帳になった。四年分の記名が消えた。台帳はあるのに、名前がない。行事はあるのに、記名権者がいない。儀礼の枠だけが、空白のまま来年を待っている。
閉じる前に、最後のページの裏を確認した。「※記名権者は当年度婚約者に限る(宮廷書記局規程第7条)」という印刷された注記があった。アシュリーは読んだ。制度の根拠を最後に確認しておきたかった。ロザリーが代わりに記名権者になることはできない。婚約者でなければ記名権を持てない。台帳を渡す前に、その事実を自分の中で確認した。
台帳を手に取り、立ち上がった。
重みは変わっていなかった。中身が変わっても、革の表紙の感触は同じだった。同じ重さを持った台帳が、今夜からは別の意味を持つ。
エドワルドに差し出した。
「白紙に戻しました。あとは、ロザリー様がご自由にお決めください」
エドワルドが台帳を受け取った。反射的に受け取ってしまったという顔だった。
台帳を開いた。一月のページを見た。
「これは……全部、空白になってる」
アシュリーは何も言わなかった。
「来年のページが全部……なんで、なんでこうなってるの」
エドワルドが顔を上げた。アシュリーはすでに応接室の扉の方を向いていた。言わなければならないことが、まだ一つあった。




