第6話 台帳を開く
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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エドワルドがまだしゃべっていた。
アシュリーは椅子から立ち上がり、机の引き出しを開けた。
来年の台帳を取り出した。
毎年、年明け前に準備する台帳だった。革の表紙が少し硬く、持ち上げると重みが手に伝わった。中には来年一年分の儀礼予定が全て書き込まれていた。アシュリーが三週間前に仕上げた台帳だった。書いてから三週間しか経っていないのに、もう少し昔のことのような気がした。書いた時のことを思い出した。深夜まで書き続けて、最後のページを閉じた時に、窓の外が少し白んでいた。やり遂げたと思った。来年も同じようにやると思っていた。
エドワルドの声が止まった。「どうしたの?」という気配がした。
「少し確認します」
「ああ、うん。いつも助かるよ」
エドワルドはそう言った。台帳が何のために開かれるのかを理解していなかった。四年間、アシュリーが台帳を開くのはいつも「処理をするため」だったから、今夜もそうだと思っているのだろう。そのくらいの信頼は、確かにある。問題の在処を、この人はずっとわかっていなかった。
アシュリーは台帳を机の上に置いた。表紙を開いた。
一月。第一週。新年の宮廷晩餐会。主賓欄に「アシュリー・ヴェルヴェント」と書かれていた。三週間前に自分が書いた字だった。
一月。第二週。コルデリア使節歓迎式典。また「アシュリー・ヴェルヴェント」。
一月。第三週。王家内宴。また同じ名前。
アシュリーはページをめくった。
二月のページに移った。社交界の夜会が三件あった。全ての主賓欄に同じ名前が入っていた。アシュリー・ヴェルヴェント。アシュリー・ヴェルヴェント。アシュリー・ヴェルヴェント。
二月の第二週は去年、ロザリーが「頭が重くて」と言ってアシュリーが代わりに出た夜会だった。それでも欄に記名されているのは元々の名前だった。台帳は事実ではなく、権利を記録する。アシュリーが行っても、台帳上は「アシュリー・ヴェルヴェント」が主賓だった。
三月のページで、目が止まった。
外交行事の欄の横に、小さく「ノルディア辺境伯出席予定」という注記があった。年に数回、北方の辺境伯が義務的な出席のために王都に来る。その日程がこのページに書き込まれていた。ロドリク・ノルディア。アシュリーが四年間、記名を確認してきた名前の一つだった。
その人のことを一瞬だけ思った。毎年この儀礼に来て、長くは滞在しない人だった。儀礼が終われば翌日には発つか、もう一泊して帰る。会話はほとんどなかった。ただ台帳を静かに確認する様子を、何度か遠くから見ていた。誰かに話しかけられているわけでも、誰かを探しているわけでもなかった。ただ台帳を、少し長く見ていた。
来年もきっとこの日程で来るだろう。でもアシュリーはもうここにいない。
気にすることでもなかった。アシュリーはページを戻した。
一月のページを開き直した。
四十八件。全てのページを一度見た。全ての主賓欄に「アシュリー・ヴェルヴェント」という名前があった。四年前に初めて書いた名前だった。書き始めた頃は少し丁寧すぎるくらい丁寧に書いていた。今は間違えたことがない。どの季節のどの式典でも、同じ字で書いてある。春の外交行事、夏の王家内宴、秋の使節饗宴、冬の終礼。それぞれの行事に固有の注意書きと、隣国ごとの禁忌と、席次の組み方が、アシュリーの補記として書き添えられていた。
四年間かけて整えた名前だった。四年間かけて蓄えた知識だった。
この名前が全て消えれば、台帳だけが残る。台帳に書いた注意書きは消えない。席次の規程も禁忌の補記も、次に使う人間のために残る。自分の名前だけが消える。台帳が自分を必要としなくなる、ということではなかった。台帳はただの記録だ。自分がいなくなっても、台帳は来年の行事を覚えている。誰かが代わりにページをめくり、補記を読み、儀礼を進める。そういうものだと思った。四年間、そのことを少し怖いと思っていた。でも今夜は、怖いとは思わなかった。
ある年の春、隣国の使節が来た時のことを思い出した。席次の組み方に独特の慣習があり、アシュリーが事前に記録を調べて注意書きを作らなければ、当日に外交上の失礼が起きていたはずだった。台帳にその補記を残したのはアシュリーだった。どの行事のページにも、そういう補記があった。これを次に使う人間に、正確に引き継がなければならない、とアシュリーは思った。情報だけは、消してはいけなかった。
「いつも助かるよ」というエドワルドの声が耳に残っていた。
助かる、ということは、必要だということだ。必要だということは、なくなれば困る、ということだ。困る、ということは何かが止まるということだ。
アシュリーはその連鎖を頭の中で確認した。なくなれば困る。困る。だから何も変えようとしない。「助かる」という言葉は、引き止める言葉でもあった。四年間、その言葉に引き止められ続けていた気がした。
それから、ペンを取った。
暖炉の炎が揺れていた。エドワルドがまだ部屋にいた。椅子に腰を下ろしたままの気配がした。「何か書くの?」とでも言いかけたような声が聞こえたが、アシュリーはすでに台帳の最初のページに視線を落としていた。
一月。第一週。新年の宮廷晩餐会。主賓欄の「アシュリー・ヴェルヴェント」という文字に、ペンの先が触れた。
アシュリーは息を一つ吐いた。
ペンが動き始めた。




