第4話 十回目の頃
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その頃から、もう期待はしていなかった。
エドワルドがまだしゃべっていた。アシュリーは「はい」と言いながら、頭の中で一年半前のことを思い出していた。
十回目の日のことだった。
婚約から一年半が過ぎた秋の夕方、シエルが書類の束を持ってアシュリーの部屋に入ってきた。
「お嬢様、またロザリー様のお願いで……」
シエルが言いかけた。アシュリーは手元の台帳から顔を上げないまま「わかっている」と言った。
シエルが少し止まった。「あ、もうお知らせが届いていたんですか」
「書記局から来た。来月の晩餐会の件でしょう」
「……そうです。ロザリー様が気分が悪くて、代わりに出てほしいと」
「また気分が」とシエルが言いかけて、止まった。四文字で終わった。言葉のあとを飲み込んだ様子だった。
アシュリーは台帳を開いた。来月の晩餐会のページだった。主賓の欄に「ロザリー・ベルジュ」という名前があった。その下に「代替者:」という欄を作り、自分の名前を書き始める。
燭台の炎が静かに揺れていた。ペンが紙に触れる音がした。かすかな、乾いた音だった。部屋の中はそれ以外、何も聞こえなかった。机の端に先月までの台帳が積んであった。整然と並んでいた。背表紙の日付が、一冊ずつ四半期ごとに区切られていた。自分で揃えたものだった。見慣れた光景だった。整理することが、この部屋で自分にできる唯一の仕事のように思えていた時期があった。今もそれは、変わっていないかもしれなかった。ただ、整理する手が以前より速くなっていた。
この名前を書くのが上手くなってしまった、とアシュリーは思った。
初めて書いた時は少し迷った。代替者欄など、台帳の書式に最初から入っていたわけではなかった。三回目の頃に「毎回申請書を作るより、台帳に書式を設けた方が効率的だ」と判断して、自分で欄を追加した。そうして書き続けるうちに、自分の名前を代替者として書く字が整った。一画の向きも、文字の間隔も、書記局の規定に合わせた美しい字で書けるようになっていた。
「もう言わないのですか」
シエルが静かな声で言った。
「何を」
「ロザリー様に。『今回は自分が出たいのですが』とか、『それは少し困ります』とか」
アシュリーは書き終えた台帳を見た。
「言っても変わらないから」
シエルが「……」と黙った。窓の外を見た。外には秋の庭があった。
「お嬢様が言えば、エドワルド様は聞いてくださると思います」
「聞いてくれるかもしれない。でもその後が変わらない」
「その後というのは……」
「ロザリー様が困る。エドワルド様がロザリー様を気にして、別の形で調整しようとする。その調整にまた私が関わる。言っても言わなくても、結果が同じなら——最初から黙っている方が、工程が短い」
シエルがまた黙った。
アシュリーは台帳を閉じた。言い方が冷たかったかもしれない、とあとから思った。でもその時は言い切れたことに、少しだけ安堵していた。感情ではなく計算として、自分の選択を説明できた。それで十分だと思っていた。
翌日には、また別の書類が来た。十一回目が来た。
十五回目に差し掛かった頃、シエルが「ロザリー様は先週の晩餐会に出席されていたそうですよ」と言った。アシュリーは「そう」と答えた。「でも今週は気分が悪いのね」とも言った。シエルが「……はい」と言って話は終わった。
二十五回目が過ぎた頃、書記局の廊下で若い局員に呼び止められたことがあった。
「ヴェルヴェント様、代替者欄の記載方式ですが、ロザリー様の本来の書式と突き合わせる際に少し手間がかかることがあって」
「来月から書式を調整します」
「あ、いえ、ヴェルヴェント様の方が正確でして……むしろその、ロザリー様の側を」
局員が言葉を濁した。アシュリーは「わかりました、同じ形式で続けます」と言って話を終わらせた。あの局員はどちらの仕事が確かかを知っていたが、言えない立場だった。アシュリーにはそれがわかったし、何も感じなかった。感じる場所が、その頃にはもう少し遠くなっていた。
ただ記録していた。台帳の代替者欄を埋めることが、自分の仕事の一部になっていた。
書記局の後輩の局員が「いつもありがとうございます」と言った。丁寧な声だった。習慣になった感謝の声だった。特別な意味を持たない「ありがとう」だった。アシュリーは「これが私の仕事ですから」と言って笑った。笑えた。笑うことに抵抗がなかった。感情とは別の場所で動く顔があるということを、その頃には理解していた。
アシュリーは現在に戻った。暖炉の前のエドワルドは、まだ続けていた。
「——それと、今年の最後の夜会も。ロザリーが出たいって言ってるんだけど、少し不安なんだよね、体のことが。だから念のためアシュリーに来てもらおうかと思って」
「わかりました」
またその言葉が出た。
「それと、来年のシーズンも——」
エドワルドが続けた。
アシュリーは来年の台帳の表紙を思い浮かべた。もう準備していた。年間四十八件の予定表。春から冬まで、全ての儀礼の日付が書かれた表。隣国からの使節が来る四月の行事も入っていた。
来年のシーズンも、という言葉のあとに、エドワルドが何を言うかはわかった。わかったまま、アシュリーは椅子に座ったまま待っていた。
待つことにも、いつの間にか慣れていた。ただ今夜は、いつもと少しだけ違う感じがした。エドワルドが何を言うかはわかっていた。でもその言葉を聞く前から、今夜が今夜であることだけは、感じていた。




