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『また従妹に譲ってくれ』が四十八回目だったので、儀礼台帳を白紙に戻しました  作者: ヲワ・おわり


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3/70

第3話 最初の譲歩

全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。

少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

 あれが最初だった。


 エドワルドがようやく「では、よろしくね」と言って応接室を出ていった。扉が閉まった。アシュリーはしばらく動かなかった。暖炉の火がパチリと音を立てた。


 四年前のことを考えていた。


 婚約から半年後の秋のことだ。エドワルドがアシュリーのところへ来て、「一つ頼んでもいいか」と言った。


「来月の茶会なんだが。ロザリーと一緒に出席しようと思っていたんだが、熱を出してしまって」


「……」


「代わりに出てもらえないか。一回だけ」


 一回だけ。


 当時のアシュリーはその言葉を疑わなかった。一回だけという言葉を、額面通りに受け取った。ロザリーは体が弱いとエドワルドが言っていた。本当に具合が悪いのかもしれない。婚約者として、できることをするのは当然だ。困っている人がいるなら助ける。それが正しい行動だと思っていた。


「わかりました」


 承諾した。あの時もそう言った。


 茶会の当日、アシュリーは台帳に代理の記名を入れ、適切な装いで会場に立った。ベルジュ伯爵家の応接間は明るく、集まった令嬢たちは和やかだった。アシュリーは席次を確認し、話す相手を選び、場を穏やかに進めた。長年の訓練があれば難しいことではなかった。


 茶が二煎目になる頃には、もう慣れた。笑顔の作り方も、当たり障りのない会話の運び方も、ロザリーがいない席でロザリーの代わりを務めることも。


 一人の令嬢が「ロザリー様はお具合が悪いのですか」と聞いてきた。


「少し熱が出てしまって」とアシュリーは答えた。


「まあ、それは心配ですわ。でもアシュリー様がいらっしゃってよかった」


 よかった。


 アシュリーはその言葉に何も感じなかった。感じるべきではないと思った。婚約者として仕事をしている。それだけだ。


 終わったのは夕方だった。


 帰り道のことだった。


 夕暮れの庭は静かだった。石畳の上に枯れ葉がいくつか落ちていて、風が吹くたびに乾いた音を立てた。アシュリーは一人で歩いていた。茶会の間じゅう人の声の中にいたせいか、その静けさが少し重かった。肩が少し張っているのに、今になって気づいた。夕風が冷たかった。


 王宮の庭を通って侯爵邸へ戻る途中、アシュリーは庭の奥に人影を見た。遠かったが、わかった。薄い金髪と細い体。ロザリーだった。


 使用人と並んで歩いていた。笑い声が遠く聞こえた。楽しそうだった。足取りも軽かった。


 熱を出していたのでは。


 アシュリーはその考えを頭に浮かべたまま、頭の中に仕舞った。声に出さなかった。


 理由は、今になって考えると明確だった。声に出せば、何かが変わってしまうとわかっていた。変わったことへの対処が必要になる。波風を立てることを選んでいなかった。それが当時の自分の判断だった。


 おそらく後悔もなかった。ただ、少し疲れた。


 二回目が来たのは、それから一ヶ月後だった。


「ロザリーがまた具合が悪くて」


 アシュリーは「わかりました」と言った。


 三回目が来た時もそう言った。十回目が来た時も。二十回目が来た時も。


 シエルが初めて「お嬢様、また我慢されているんですか」と言ってきたのは、確か十五回目の頃だった。アシュリーは「我慢というほどのことじゃないわ」と答えた。


「ただ、仕事として対応しているだけ」


 それが本心だった。少なくとも当時は、本当にそう思っていた。


「……でも、ロザリー様はその日の夜に宮廷晩餐会に出席されていたとシエルは聞きました」


 シエルが小さな声で言った。


 アシュリーは「そう」と答えた。


 会話はそれで終わった。どちらも続けなかった。


 暖炉の炎が揺れた。


 アシュリーは台帳を手に取り、来週の夜会のページを開いた。記名変更の申請書を書かなければならない。書記局は明日の朝が受付開始だから、今夜のうちに書類を作っておいた方がいい。


 一回目に言えばよかった、とは思わなかった。正確に言えば、思うたびに「でも言わなかったのは自分だ」という答えが返ってきて、どこへも辿り着かなかった。


 一回目がああなら、十回目はどうだったか。


 答えは変わらない。十回目も「わかりました」と言った。どこにも止まれる場所はなかった。


 最初の譲歩が最後になるのは、今夜からのことだ。あの一回目が今夜に繋がっていて、今夜が次の何かに繋がっている。


 アシュリーはそれをまだ、言葉にしていなかった。


 ただ、申請書を書こうとしてペンを手に取り、紙の前で止まった。書記局への申請文は何度書いても変わらなかった。様式が決まっている。記名の変更、理由、日付、署名。五分もかからない。


 今夜は、ペンが動かなかった。


 動かない理由を考えたが、わからなかった。疲れているのかもしれない。そう思って、いったんペンを置いた。


 申請書は明日でも間に合う。


 アシュリーは台帳を閉じて、窓の外の暗い庭を見た。


 四年前、この庭を見て緊張していた自分のことを思った。あの時は変わると思っていた。今は何が変わったのかを考えると、仕事の量だけが増えた気がした。


 あとは、少しずつ何かが減った。ペンが動く速さとか、返事の前の一呼吸とか、エドワルドの顔を正面から見ることとか。何かが減り続けた四年間だった。


 減り続けた先が、今夜だった。アシュリーはそのことをはっきりとは考えなかったが、暗い庭を見ながら、なんとなく、今夜が今夜であることを感じていた。


 明日、申請書を書くかどうかは、まだわからなかった。

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