第2話 婚約の朝を覚えている
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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エドワルドがまだしゃべっていた。
アシュリーの耳は声を受け取りながら、頭のどこかが遠くへ行っていた。暖炉の炎が揺れていた。その揺れを見ながら、アシュリーはふと四年前のことを思い出した。
婚約が決まった朝のことだった。
十八歳の春だった。朝食の席で父が静かに言った。「王太子殿下との婚約が正式に決まった」。
母が「アシュリー、これは名誉なことよ」と言った。
名誉だと思った。本当に思っていた。
王太子の婚約者になるということの意味を、アシュリーは小さいころから学んでいた。ヴェルヴェント家は代々宮廷外交に関わる家で、儀礼と外交の作法は物心ついた頃から叩き込まれていた。表のない形の挨拶、各国の敬称の使い分け、席次の原則、色彩が持つ意味。母は「これが役に立つ日が来るから」と言って教えた。アシュリーはその通り覚えた。
だから「台帳管理の仕事も担う」と聞いた時も、怖くなかった。やれると思った。やりたいとさえ思っていた。
「頑張りなさいね」
見送りの朝、母がそう言った。「でも、一人で抱えすぎてはだめよ」と続けた。
アシュリーは「わかっています」と答えた。
侍女のシエルは当時まだ十四歳だった。アシュリーの荷物を抱えながら、「お嬢様、緊張してますか」とこっそり聞いてきた。アシュリーが「少しね」と言うと、シエルが「私も緊張してます。膝が震えてます」と言って、2人でひそかに笑った。
あの頃はまだ笑えた。
王宮に入った最初の半年は、確かに期待していた。
エドワルドは穏やかだった。社交的で話しやすく、アシュリーの仕事を「よくやってくれている」と言ってくれた。台帳の管理は複雑だったが、覚えてしまえば手順は明確だった。儀礼の記名、日程の調整、相手国への連絡。一つひとつは難しくない。量が多いだけだった。
婚約者としての関係はまだ形を作っている途中で、どちらかというと同僚に近い空気もあった。それでもアシュリーは「これが時間をかけて育っていくのかもしれない」と思っていた。
宮廷には様々な人が出入りしていた。各地の貴族、外国の使節、商家の代表。アシュリーは台帳の仕事をしながら、人の名前と顔と国名と立場を覚えていった。覚えることは苦にならなかった。むしろ整理されていくことが、心地よかった。
年に数回、北方の辺境伯が儀礼に出席するために王都に来ていた。義務的な出席で、長くは滞在しない。アシュリーは記名を確認するだけで、会話はほとんどなかった。でも、その人がいつも台帳を静かに眺めているのを見た記憶があった。それだけだった。
婚約から半年が過ぎたころ、エドワルドが言った。「一人、紹介したい人がいる」
ロザリー・ベルジュだった。
細い体。薄い金髪。大きな青い目が、アシュリーを見上げた。
「よろしくお願いします、アシュリー様」
声が小さかった。少しだけ遠慮がちな立ち方をしていた。まるで場所を取りすぎることを恐れているような、そういう佇まいだった。
エドワルドがロザリーの肩に手を置いて、「この子、少し体が弱くて。宮廷に顔を出しはじめたばかりだから、よろしくしてやってくれ」と言った。
「可愛らしい方ですね」
アシュリーはそう答えた。本当にそう思っていたし、他に言いようもなかった。
ロザリーがほんの少し微笑んだ。
あの微笑みを、アシュリーは今でも覚えていた。悪意がある顔ではなかった。ただ、目的があるような微笑みだった。その違いに当時の自分が気づかなかったのは、アシュリーが好意的にしか人を見ていなかったからだと思う。
その後、ロザリーはすぐにアシュリーの隣に立った。
「アシュリー様は、儀礼のお仕事をされているんですね。大変そう……私にはとてもできません」
「慣れれば問題ありませんよ」
「でも、エドワルド様を支えてあげられて、素晴らしいですわ」
ロザリーの目がエドワルドに向いていた。アシュリーへの言葉ではあったが、見ていたのはエドワルドだった。あの時のことを今、アシュリーはそう整理できる。当時は気づかなかった。
「体に気をつけてください」とアシュリーは言った。
「ありがとうございます」とロザリーは言った。
それが最初の会話だった。
「——そういうわけで、先方への返答は来週中にしたい。アシュリー、頼んでいいかな」
エドワルドの声が聞こえた。
アシュリーは応接室の暖炉に目を戻した。現在に戻った。
四年前の自分には、今夜の自分が想像できなかった。期待を持って王宮に入った十八歳の自分は、四十八回目を数える二十二歳の自分を、知らなかった。
母が「一人で抱えすぎてはだめよ」と言っていた。
アシュリーは「わかっています」と答えた。
わかっていなかった。あるいは、わかっていたのに全く別のことが起きた。「抱えすぎてはだめよ」と言った母は、アシュリーがこれほど多くを抱えることを予見していたのだろうか。それとも、そうなる前に止まれると思っていたのだろうか。
「……はい」
アシュリーは答えた。
内容を半分も聞いていなかった。それでも「はい」は出た。四年間で覚えた言葉は、思考の手前で口から出るようになっていた。来週の夜会の準備を始めなければならない。明日には書記局に連絡をする必要がある。そういう計算が、「はい」と同時に頭の中で動き始めていた。




