表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『また従妹に譲ってくれ』が四十八回目だったので、儀礼台帳を白紙に戻しました  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/70

第2話 婚約の朝を覚えている

全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。

少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

 エドワルドがまだしゃべっていた。


 アシュリーの耳は声を受け取りながら、頭のどこかが遠くへ行っていた。暖炉の炎が揺れていた。その揺れを見ながら、アシュリーはふと四年前のことを思い出した。


 婚約が決まった朝のことだった。


 十八歳の春だった。朝食の席で父が静かに言った。「王太子殿下との婚約が正式に決まった」。


 母が「アシュリー、これは名誉なことよ」と言った。


 名誉だと思った。本当に思っていた。


 王太子の婚約者になるということの意味を、アシュリーは小さいころから学んでいた。ヴェルヴェント家は代々宮廷外交に関わる家で、儀礼と外交の作法は物心ついた頃から叩き込まれていた。表のない形の挨拶、各国の敬称の使い分け、席次の原則、色彩が持つ意味。母は「これが役に立つ日が来るから」と言って教えた。アシュリーはその通り覚えた。


 だから「台帳管理の仕事も担う」と聞いた時も、怖くなかった。やれると思った。やりたいとさえ思っていた。


「頑張りなさいね」


 見送りの朝、母がそう言った。「でも、一人で抱えすぎてはだめよ」と続けた。


 アシュリーは「わかっています」と答えた。


 侍女のシエルは当時まだ十四歳だった。アシュリーの荷物を抱えながら、「お嬢様、緊張してますか」とこっそり聞いてきた。アシュリーが「少しね」と言うと、シエルが「私も緊張してます。膝が震えてます」と言って、2人でひそかに笑った。


 あの頃はまだ笑えた。


 王宮に入った最初の半年は、確かに期待していた。


 エドワルドは穏やかだった。社交的で話しやすく、アシュリーの仕事を「よくやってくれている」と言ってくれた。台帳の管理は複雑だったが、覚えてしまえば手順は明確だった。儀礼の記名、日程の調整、相手国への連絡。一つひとつは難しくない。量が多いだけだった。


 婚約者としての関係はまだ形を作っている途中で、どちらかというと同僚に近い空気もあった。それでもアシュリーは「これが時間をかけて育っていくのかもしれない」と思っていた。


 宮廷には様々な人が出入りしていた。各地の貴族、外国の使節、商家の代表。アシュリーは台帳の仕事をしながら、人の名前と顔と国名と立場を覚えていった。覚えることは苦にならなかった。むしろ整理されていくことが、心地よかった。


 年に数回、北方の辺境伯が儀礼に出席するために王都に来ていた。義務的な出席で、長くは滞在しない。アシュリーは記名を確認するだけで、会話はほとんどなかった。でも、その人がいつも台帳を静かに眺めているのを見た記憶があった。それだけだった。


 婚約から半年が過ぎたころ、エドワルドが言った。「一人、紹介したい人がいる」


 ロザリー・ベルジュだった。


 細い体。薄い金髪。大きな青い目が、アシュリーを見上げた。


「よろしくお願いします、アシュリー様」


 声が小さかった。少しだけ遠慮がちな立ち方をしていた。まるで場所を取りすぎることを恐れているような、そういう佇まいだった。


 エドワルドがロザリーの肩に手を置いて、「この子、少し体が弱くて。宮廷に顔を出しはじめたばかりだから、よろしくしてやってくれ」と言った。


「可愛らしい方ですね」


 アシュリーはそう答えた。本当にそう思っていたし、他に言いようもなかった。


 ロザリーがほんの少し微笑んだ。


 あの微笑みを、アシュリーは今でも覚えていた。悪意がある顔ではなかった。ただ、目的があるような微笑みだった。その違いに当時の自分が気づかなかったのは、アシュリーが好意的にしか人を見ていなかったからだと思う。


 その後、ロザリーはすぐにアシュリーの隣に立った。


「アシュリー様は、儀礼のお仕事をされているんですね。大変そう……私にはとてもできません」


「慣れれば問題ありませんよ」


「でも、エドワルド様を支えてあげられて、素晴らしいですわ」


 ロザリーの目がエドワルドに向いていた。アシュリーへの言葉ではあったが、見ていたのはエドワルドだった。あの時のことを今、アシュリーはそう整理できる。当時は気づかなかった。


「体に気をつけてください」とアシュリーは言った。


「ありがとうございます」とロザリーは言った。


 それが最初の会話だった。


「——そういうわけで、先方への返答は来週中にしたい。アシュリー、頼んでいいかな」


 エドワルドの声が聞こえた。


 アシュリーは応接室の暖炉に目を戻した。現在に戻った。


 四年前の自分には、今夜の自分が想像できなかった。期待を持って王宮に入った十八歳の自分は、四十八回目を数える二十二歳の自分を、知らなかった。


 母が「一人で抱えすぎてはだめよ」と言っていた。


 アシュリーは「わかっています」と答えた。


 わかっていなかった。あるいは、わかっていたのに全く別のことが起きた。「抱えすぎてはだめよ」と言った母は、アシュリーがこれほど多くを抱えることを予見していたのだろうか。それとも、そうなる前に止まれると思っていたのだろうか。


「……はい」


 アシュリーは答えた。


 内容を半分も聞いていなかった。それでも「はい」は出た。四年間で覚えた言葉は、思考の手前で口から出るようになっていた。来週の夜会の準備を始めなければならない。明日には書記局に連絡をする必要がある。そういう計算が、「はい」と同時に頭の中で動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ