第37話 手紙が届いた
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
朝のことだった。
シエルが部屋に入ってきた時、アシュリーは窓際に立っていた。外を見るともなく見ていた。庭の木々はすでに葉を落としていた。枝だけになった木が、灰色の空を背景に立っていた。静かな朝だった。風がなく、城館の廊下も静まっていた。朝の光は薄く、白かった。
「お嬢様、書状が届きました」
シエルの声は穏やかだったが、少し間があった。何かを選びながら話しているような間だった。アシュリーはシエルのそういう間を、最近では読めるようになっていた。何かを伝えにくいと感じている時の間だと分かった。
「王太子殿下からでございます」
アシュリーは窓から目を離さなかった。一拍置いてから、振り返った。
シエルの手の上に、封書があった。白い紙に、見慣れた紋章が押されていた。赤い蝋に刻まれた紋章は鮮明だった。崩れていなかった。丁寧に封じられていた。
アシュリーはそれを受け取った。手の中で重さを確かめた。どの程度の分量かが、封書の厚みでおよそ分かった。薄くはなかった。何枚か重なっている。封を切れば言葉が出てくる。読めば何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。そのどちらも、今の自分には判断できなかった。
「ありがとう」
そう言って、机の上に置いた。
特に何も考えていなかった。開けようとは思わなかった。しかし捨てようとも思わなかった。ただ、机の上に置いた。それだけだった。シエルが何かを言いかけた気配があった。しかし黙っていた。それもシエルのよいところだとアシュリーは思った。この侍女は急かさない。
その日は城館の中を少し歩いた。先週から読んでいた本の続きを図書室で読んだ。本の内容は頭に入った。ページをめくる手は動いた。しかし部屋に戻ると、机の上に封書があることを思い出した。昼の後は刺繍の続きをやりかけて、途中で手が止まった。手が止まったまま、窓の外の枯れた庭を見ていた。何を考えているわけでもなかった。何も考えていなかった。ただ、時間が過ぎた。
封書を開けることへの恐怖があるのかと、自分に問うてみた。恐怖ではないと思った。怒りへの備えでもなかった。ただ、今は関係がないと感じていた。あの封書の中身が自分の今の時間に関係するものとして、まだ受け入れられていなかった。王都にいた頃のことは、遠くにある。ノルディアの生活の中に、あの紋章の人の言葉は入ってこない。そう感じている自分がいた。それが正しいのかどうか、分からなかった。ただ、今日は開けなかった。それだけだった。
夕方になった。
廊下を誰かが歩く音がした。城館では珍しくない音だった。しかし扉の前で止まった。ノックの音がした。
「ヴェルヴェント様、少しよろしいですか」
ロドリクの声だった。
「どうぞ」
扉が開いた。ロドリクが入ってきた。いつもと変わらない表情だった。ここに来て気づいたことがあった。この人の顔には、余分なものが出ない。怒りも焦りも、こちらへの過剰な気遣いも、表情には出てこなかった。それが圧迫感のなさにつながっていた。
「夕食の時刻を少し早めにしようかと思っています。今日は厨房の都合がありまして、いつもより半刻ほど早くなります。問題なければ」
「分かりました」
アシュリーは頷いた。
ロドリクは一度頷いてから、部屋を見渡した。意図的にではなく、自然な動きだった。城館を訪れる者の部屋の状態を、職業的な習慣として確かめているのかもしれなかった。その視線が机の上で止まった。封書だった。紋章がある。王都のものだと、この城館の主には分かっただろう。王太子の紋章は辺境でも知られている。届いたその日に開かれていないことも、おそらく分かっただろう。封蝋は手をつけられていなかった。
しかし何も言わなかった。
一秒あるかないかだった。視線が机の上から離れた。
「では半刻早く」と言って、扉を閉めかけた。
「……開ける気になっていなくて」
アシュリーは自分でも驚いた。口から出ていた。言うつもりではなかった。しかし声に出ていた。なぜ言ったのか分からなかった。説明のつもりでもなかった。言い訳のつもりでもなかった。ただ出てきた言葉だった。
ロドリクは扉を閉めるのを止めた。完全には開けていない。半分だけ開いたままで、こちらを見た。
「急ぎでないなら、開ける必要もないでしょう」
それだけだった。責めるでもなかった。諭すでもなかった。開けるように勧めるでもなかった。来た以上は読むべきだという空気も出さなかった。ただそう言った。
アシュリーの肩から、何かが下りた。
そういう力が入っていたのか、と気づいた。自分では分からなかった。しかし何かが緩んだのは確かだった。机の上の封書をもう一度見た。依然として開いていなかった。それでよかった。今はそれでよかった。
「……ありがとうございます」
扉が静かに閉まった。
廊下を歩いていく足音が遠ざかった。城館の中は静かだった。暖炉の薪がわずかに音を立てた。それだけだった。
アシュリーは椅子に座った。机の上の封書はそのままにしておいた。窓の外は暗くなっていた。空に薄い雲があった。星は見えなかった。ただ、しんとしていた。誰かに急かされていないことが、今夜はひどくありがたかった。
夕食の席でロドリクは封書のことを一言も口にしなかった。食事の話と、収穫後の農地の状態と、来週の訪問客の話をした。アシュリーはそれに応えた。話しながら、胸の中が凪いでいることに気づいた。波が立っていなかった。封書があっても、波が立っていなかった。それがなぜかは分からなかった。ただ、今日この人は何も言わなかった。それだけのことが、胸の中を静かにしていた。
翌日、シエルが部屋に入ってきた時に言った。
「お嬢様、少し気になっています」




