第36話 楽しいと思った仕事
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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夕食の後、二人で話すことが恒例になっていた。
いつからそうなったのか、アシュリーには分からなかった。最初は偶然だった。食堂を出るタイミングが同じで、廊下を少し歩きながら話した。次の日も同じだった。その次の日も。気づけばそういう時間になっていた。特に決めたわけではなかった。ただ、その時間が続いていた。城館の中でその時間を避けようとは思わなかった。ロドリクと話す時間は圧迫感がなかった。何かを求められる感じがなかった。それが続いている理由だった。
暖炉のある小部屋だった。食堂の奥の、小さな部屋だった。椅子が二脚あった。テーブルには何も置かれていなかった。ロドリクが火を確かめ、アシュリーが椅子を選んだ。窓の外は暗かった。冬が近かった。風の音がときどき入ってきた。暖炉の火が揺れた。
その夜、話は仕事のことになった。
きっかけはアシュリー自身だった。ロドリクが城館の今月の予定を話していた。収穫祭が終わり、次は年末の挨拶回りの準備が始まる、という話だった。アシュリーはそれに応えながら、ふと思った。自分は四年間、仕事をしてきた。多くの宴席を仕切り、多くの席次を決め、多くの手紙の文面を整えた。それは確かだった。しかしその四年間を振り返った時、どんな感覚で仕事をしていたのか。仕事の記憶はある。しかし感情の記憶が薄かった。義務の記憶しかなかった。
「一つ、聞いていいですか」
アシュリーは言った。
「どうぞ」
「四年間の仕事で、楽しいと思ったことがあるか、という問いを立てたら……自分はどう答えるだろう、と思ったんです」
ロドリクは少し待った。続きを聞く間だった。
「あなたはどうですか」とアシュリーは聞いた。まず相手に問うのが自分の癖だと気づいた。しかし今回は先に聞いてよかったと思った。自分の答えの前に、他者の答えを聞きたかった。
「楽しい、という言葉の幅によります」とロドリクは言った。「充実していると感じた仕事はある。疲れても構わないと思えた仕事もある。それを楽しいと言うならば、ある、と答えます」
「楽しかった、という感覚だけを問うとしたら」
「同じ答えです」
そうか、とアシュリーは思った。この人には、そういう仕事があったのか。問いとして聞いたのに、答えが自分に返ってきた気がした。
「私は……一度だけ、あった気がします」
自分で言って、少し驚いた。問いを立てたのは自分だった。答えを探してから問うたわけではなかった。しかし問うたとたんに一つだけ思い浮かんだ。浮かんだということは、それが残っているということだった。四年間、そのことをほとんど思い出さなかった。しかし消えていなかった。どこかに仕舞われていただけで、問われれば出てくるものとして、ずっとそこにあった。
「どんな時ですか」
ロドリクが聞いた。
アシュリーは少し遠い目をした。暖炉の炎を見ていた。
「ノルディアに来る前の、三年目のことです。隣国の大使が王都を訪れた時がありました。三日間の行程で、主要な宴が二つ、非公式の茶会が一つありました。私はその全行程の席次と入退場の順序を組みました」
火がはぜた。細かな音だった。
「問題が一つありました。大使の随行員の中に、王都の有力商家と因縁のある人物がいた。その商家の代理も宴席に招かれていた。二者が視界に入らないように、かつ両方の格を損なわないように、入退場の動線を設計する必要がありました。通常の席次の組み方では対応できなかった。三日分を全部、組み直しました。夜中までかかりました。三日目の朝まで見直し続けました」
「うまくいったのですか」
「完璧に機能しました。二者は三日間、一度も視線を合わせませんでした。入退場も滞りなかった。誰も不快な顔をしなかった。宴の空気が乱れなかった。そして三日目の最後の宴を終えた後、大使が周囲に言ったそうです。この国の主催者は誰かと」
その言葉を口にした瞬間、アシュリーは胸の中に何かが戻ってきた感覚を持った。その夜のことを思い出した。誰も気づいていなかった。大使の言葉も後から伝え聞いただけだった。宴の間、アシュリーは末席近くの壁際にいた。誰かに礼を言われたわけでもなかった。仕事が見事だったと言われた記憶もなかった。ただ、全部うまくいったことを自分だけが知っていた。
「誰にも気づかれなかったんです。動線が設計されていること自体、誰も知らなかった。でも全部うまくいって……その夜、少し嬉しかったんです」
声が小さくなった。照れているのだと自分で気づいた。嬉しかった、と言うのが久しぶりだった。そういう言葉を自分に使うことを、いつの間にか忘れていた。言葉として持っていたが、自分に向けることがなかった。それが当たり前になっていた。
ロドリクは黙って聞いていた。急かさなかった。
少し間があってから、言った。
「そういう顔もするんですね」
「……え」
「今の顔の話です」
アシュリーは口を閉じた。顔に手を当てた。何もなかった。ただ、頬が少し温かかった。言葉が出なかった。反論もできなかった。そういう顔をしていたのかどうか、自分には分からなかった。しかしロドリクがそう言うなら、そうだったのだろうと思った。
ロドリクは何も言い足さなかった。それでよかった。火の音がした。暖炉の中で薪がもう一度はぜた。小さな音だった。
アシュリーはカップを持ち直した。お茶はもう冷めていた。それでも飲んだ。
しばらく二人とも黙っていた。押し付けがましくない沈黙だった。火が揺れていた。風の音がした。外は暗かった。部屋の中だけが明るかった。
その夜、部屋に戻ったアシュリーは窓の外をしばらく見ていた。空に星が出ていた。少し前まで曇っていた空が晴れていた。白い星の光だった。冬の前の、乾いた夜の空気だった。
翌朝、シエルが伝えてきた。
王都からエドワルドの手紙が届いた、と。




