第34話 シエルの喜び
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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シエルはお嬢様の様子を、毎日少しずつ記録していた。
手帳に書いているわけではなかった。頭の中に積み上げていた。朝の様子、食事の量、よく眠れたかどうか。庭に出たか、部屋に引きこもっていたか。誰かと話したか、話さなかったか。数字ではなく、感触として覚えていた。それが侍女の仕事だとシエルは思っていた。記録ではなく、感覚として傍にいる。それが自分にできることだった。
今日、お嬢様が自分から庭師に話しかけた。
シエルは窓越しに見ていた。お嬢様が庭の端の方にいた老庭師のそばに歩いていった。老人は気づいて帽子を取った。お嬢様は何か言った。老人が答えた。二言三言のやり取りで、それだけだった。短いものだった。しかし短かった、ということが重要だった。自分から行ったのだ。呼ばれたわけでも、必要に迫られたわけでもなかった。庭の端で何かを刈っている老人に、ただ声をかけた。気になることがあったのか、聞きたいことがあったのか、それとも単に挨拶したかったのか、シエルには分からなかった。分からなかったが、それでよかった。お嬢様が自分から誰かに近づいていったことが大事だった。
シエルは手を止めた。窓枠に手を置いたまま、その背中を見ていた。
昨日は夕食の後に声を出して笑った。
大きな笑い声ではなかった。ただ、吐息のように漏れた笑いだった。ロドリク様が何か言って、お嬢様の口元が動いた。それだけだった。ほとんどの人は見逃しただろう。シエルは見逃さなかった。四年間、お嬢様の傍にいた。笑わない時期が長かった。笑いの気配さえ消えていた時があった。あの頃に比べれば、昨日は確かに笑っていた。小さくとも、確かな笑いだった。シエルはそれを食卓の隅から見ていた。胸に何かが触れた感覚があった。
そして今日の朝。
打ち合わせの場でお嬢様がロドリク様に意見を言った。
それも、堂々と。
シエルはその場にいた。入口近くに立っていた。お嬢様が椅子から少し前に乗り出して、はっきりした声で言った。迷っている様子がなかった。言い訳するような前置きもなかった。「こうした方がいいと思います」と言った。それだけだった。ロドリク様は顔を上げてお嬢様を見た。そして「なるほど」と言った。あの短い「なるほど」がロドリク様の本当の反応だとシエルは分かっていた。軽く流している声ではなかった。実際に受け取った、という声だった。
シエルは口を噤んでいた。
胸の中に何かが詰まった。泣きそうではなかった。ただ、一杯になった感覚があった。
四年前を思った。
シエルがお嬢様の侍女になったのは四年前だった。その頃のお嬢様はまだ声が明るかった。笑い方もはっきりしていた。何か面白いと思ったことを、遠慮なく口にした。おかしいと思ったことを「おかしい」と言った。納得できないことに小さく首を振った。それが当たり前だった。シエルはその頃、そういうお嬢様を当たり前のこととして受け取っていた。
それがいつからか変わっていった。
最初は少しずつだった。笑い声が減った。意見が消えた。何かを言いかけて途中で止まることが増えた。聞かれてもすぐには答えなかった。考えてから答えるのではなく、答えていいかどうかを確認してから答えるようになった。誰かの顔色を読んでから、言葉を選ぶようになった。シエルには分かった。仕えているから分かった。長く傍にいるから分かった。少しずつ、お嬢様の中の何かが閉じていった。萎んでいくというよりは、削られていくようだった。元から細く削られて、残ったものだけで立っているように見えた。
それでも何も言えなかった。
言える立場ではなかった。侍女として傍にいるだけだった。見ているしかなかった。何も言えない、という無力さがずっとあった。
ノルディアに来て、三週間が経とうとしていた。
最初の一週間は静かだった。お嬢様はよく眠った。よく食べた。それだけで精一杯に見えた。疲れが抜けているのだと思った。二週間目から少しずつ外に出るようになった。図書室に通うようになった。朝の光の中に座るようになった。本を読んでいる時の表情が違った。宮廷にいた頃の読み方ではなかった。何かを調べるためではなく、読みたいから読んでいる顔だった。そして今週、言葉が増えた。足取りが変わった。地面を踏んでいる音が変わった。怯えながら歩く人間の足音ではなくなった。
やっと戻ってきた。
シエルはその言葉を声には出さなかった。ただ胸の中で繰り返した。四年前の、あのお嬢様が戻ってきた。全部が戻ったわけではないかもしれない。傷はまだ残っているだろう。消えないものもあるだろう。しかしその気配が戻ってきた。声が戻ってきた。それだけで十分だった。
夕方、部屋に戻ったお嬢様にシエルはお茶を出した。
お嬢様はカップを受け取りながら、窓の外を見た。丘の稜線が夕光に染まっていた。雲が低く横たわっていた。空の色が橙から群青に変わり始めていた。
「この景色、嫌いじゃないな」
ぽつりと言った。呟くような声だった。
シエルは「そうですね」と答えた。それだけだった。余分なことは言わなかった。ただその言葉を受け取った。
お嬢様はしばらく窓の外を見ていた。カップを両手で包むようにして持っていた。温かいものを確かめているようだった。シエルはその隣で立っていた。何も言わなかった。言う必要がなかった。ただそこにいるだけでよかった。
外では風が出始めていた。庭の木の葉が揺れた。夕暮れの光が石畳に伸びて、少しずつ薄くなっていった。
その頃、王都から手紙が届いた。




