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『また従妹に譲ってくれ』が四十八回目だったので、儀礼台帳を白紙に戻しました  作者: ヲワ・おわり


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23/70

第23話 馬車の中の距離

全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。

少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

 ロドリクの馬車は、予定よりも早く屋敷の前に来ていた。


 朝の光はまだ薄かった。空の端が白みはじめていたが、日は出ていなかった。空気が冷たかった。アシュリーは外套を羽織ったまま玄関先に立った。荷物はすでに先に積まれていた。シエルが手際よく馬丁と話をしていた。父と母は見送りに出ていた。父は短く「気をつけろ」と言った。母は何も言わなかった。ただ一度、手を握った。それだけだった。昨夜のことは言葉にされなかった。する必要もなかった。母が手を握った、それで十分だった。


 馬車の扉を開けたのはロドリクだった。


 外に立っていた。乗り込む前に軽く会釈をした。言葉はなかった。アシュリーも会釈を返した。先に乗り込んだ。


 馬車の中は広かった。北方からの馬車だからか、座席に厚みがあった。クッションが分厚かった。窓には薄い布がかかっていた。ロドリクが乗り込んできた。向かいの席に座った。


 扉が閉まった。


 馬車が動き出した。


 しばらく、何も言わなかった。


 車輪の音がした。石畳の上を進む音だった。馬の蹄の音がした。御者が何か短く声をかけた。それ以外は静かだった。車内に二人だけがいた。二人とも黙っていた。


 アシュリーは窓の布の端を少し持ち上げた。屋敷が遠ざかっていくのが見えた。母と父の姿が見えた。母が片手を上げた。父はそのまま立っていた。視線が合ったかどうかは分からなかった。馬車が角を曲がった。屋敷は見えなくなった。


 布を戻した。


 向かいのロドリクを見ると、書類を広げていた。手元に視線を落としていた。読んでいるのか確認しているのか、判断できなかった。ただ静かにそこにいた。会話を求めていなかった。アシュリーに何かをさせようとしていなかった。


 沈黙だった。


 しかしその沈黙が、重くなかった。


 アシュリーは少し驚いた。沈黙に慣れているつもりだった。しかしそれは、沈黙の中で何かを読み取ろうと努力しながら慣れていた、ということだった。婚約者の側では、沈黙は常に何かのサインだった。機嫌が悪いのか、退屈しているのか、何かを期待しているのか。読み解かなければならなかった。沈黙の中でも、アシュリーは働いていた。気を抜けなかった。何も起きていないように見えても、何かが起きているかもしれなかった。それが四年間の習慣だった。


 この馬車の中の沈黙は違った。


 読み解く必要がなかった。ロドリクはただ書類を見ていた。それだけだった。何かを伝えようとしていなかった。何かを要求していなかった。アシュリーが黙っていることに、不満を持っている様子もなかった。黙っていることが、そのままでよかった。


 アシュリーは外套をほどいた。座り直した。窓の方を向いた。膝の上に手を置いた。何かを持つ必要がなかった。書類もなかった。台帳もなかった。手が空いていた。その空いた手を、しばらくどうすればいいか分からなかった。やがて自然に、ただ膝の上に置いたまま、外を見ることにした。


 王都がゆっくりと遠ざかっていた。馬車は大通りを進んでいた。朝早い時刻だったが、人が出始めていた。荷車を引く者がいた。店の前を掃く者がいた。子供が犬を連れて歩いていた。どれも普段通りの朝の風景だった。


 アシュリーはそれを見ていた。


 何かを考えているわけではなかった。ただ見ていた。こうして窓の外を見るだけでいい時間が、いつから消えていたか、思い出せなかった。宮廷での四年間、移動中も頭は仕事のことを考えていた。台帳の次の項目、次の確認、次の返答。止まっていられなかった。止まることが怖かった、のかもしれなかった。考え続けることで、考えなくていいことを考えずに済んでいた。


 しかし今は何も考えなくてよかった。


 王都が遠ざかっていくのを、ただ見ていればよかった。馬車に揺られながら、外の景色が流れていくのを見ていればよかった。誰もそれを咎めなかった。


 ロドリクが書類をめくる音がした。


 静かな音だった。邪魔にならない音だった。


「何か不便なことがあれば言ってください」


 不意に声がした。


 アシュリーは窓から目を離した。ロドリクはまだ書類を見ていた。顔を上げていなかった。ただ言葉だけが届いた。


「ありがとうございます」


 アシュリーは答えた。


 またロドリクは黙った。アシュリーも黙った。馬車の音が続いた。


 ありがとうございます、と言った後で、何も続けなくてよかった。それが当然だった。しかしアシュリーは少し間を置いてから、それに気づいた。会話を続けなくてよかった。話題を探さなくてよかった。相手の気分を確認しなくてよかった。答えただけで十分だった。そういうやりとりが可能だと、久しく感じていなかった。短い言葉で十分で、それ以上を盛らなくていい会話というものを、忘れていたかもしれなかった。


 王都の家並みが続いていた。やがて建物の密度が薄くなっていった。空が広くなっていった。青くなっていった。日が出てきた。光が斜めに差し込んで、馬車の床に細い線を作った。


 ロドリクはその間もずっと書類を見ていた。時折、何かを短く書き込んでいた。どんな書類なのか聞かなかった。聞く必要もなかった。仕事の続きをしているのだろうと思った。北方の侯爵が、王都への用向きを終えて帰る道中だった。書類の一枚や二枚あって当然だった。


 アシュリーはそれを見ていた。


 昼を過ぎた頃、ロドリクが口を開いた。


「四年間、なぜ言わなかったかを、もう少し話してもいいですか」

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