第21話 父との庭で
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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父の問いは短かった。それがヴェルヴェント侯爵という人間のやり方だった。
父は娘に遠回しな言葉を使わなかった。飾らなかった。何かを察してほしいという態度も取らなかった。知りたいことがあれば直接聞いた。それが時に厳しく聞こえても、言葉に誠実さがあった。アシュリーはそれを、子供の頃から当たり前のこととして受け取ってきた。当たり前のことだと思っていた。しかし宮廷に出てから、それが当たり前ではないことを知った。世の中の多くの人間は、直接には言わなかった。遠回りに、あるいは沈黙で、何かを伝えようとした。そのたびにアシュリーは読み解くことを強いられた。
父が「どうするつもりだ」と聞いた。
「まだわかりません」
アシュリーは正直に答えた。
父は頷いた。答えを急かす様子はなかった。二人は並んで庭を見続けた。
春の庭だった。朝露が草を濡らしていた。遠くの木が、風に揺れていた。生垣が整えられていた。子供の頃から変わらない庭だった。何十年も、ここにある庭だった。自分が婚約中も、宮廷で仕事をしていた間も、この庭は変わらなかった。季節が来れば花が咲き、季節が去れば葉が落ちた。それだけのことを、当たり前に繰り返していた。
しばらくして、父が口を開いた。
「何が怖い」
アシュリーは、少し驚いた。
怖い、という言葉を使うとは思っていなかった。迷っているのか、悩んでいるのか、そういう問い方をするかと思っていた。しかし父は「怖い」と言った。
アシュリーは庭を見たまま、少し黙った。
怖いか。
怖いのか。
自分の中を確認するように、静かに問いを向けた。胸の奥を手で探るようなことをした。何があるか。何がそこに蓄積しているか。
「……また、使われるだけになるのではないかと」
言葉が出た。
出てから、少し驚いた。これほどはっきりした形で、それを言葉にしたことがなかった。思っていなかったわけではない。ずっとそこにあった。台帳を白紙に戻した夜から、ずっと底に沈んでいた感触だった。しかし言葉にしたことは、なかった。言葉にしてしまえば本当のことになる気がして、ずっと黙っていた。
今、言葉になった。それは父の問いのせいだった。「何が怖い」と真直ぐに聞かれたから、真直ぐに答えてしまった。
父が黙った。
庭の向こうで、鳥が鳴いた。遠い鳴き声だった。風が少し強くなって、草が一斉に揺れた。また静かになった。
父はしばらく何も言わなかった。アシュリーも言わなかった。並んで立ったまま、庭を見ていた。
使われるだけ。
仕事に誇りを持ってきた。台帳を整えることに意味を感じてきた。しかしその仕事が、常に誰かの都合のための仕事だった。利用されるために便利だと思われていた。その便利さが、唯一の価値として扱われていた。もっとできるはずだと言われた時も、それは評価ではなかった。もっと引き出したい、という意味だった。
ロドリクは違うかもしれない。そうも思った。四年間、見ていた。言葉が重かった。台帳の精度を言い当てた。使いたいから来たのとは違う気がした。しかしその「気がした」が、どこまで信じられるのか、まだ分からなかった。
信じることが、怖かった。
信じてまた裏切られることが。期待してまた摩耗することが。それを繰り返す体力が、今の自分にあるかどうか、確信が持てなかった。
しばらくして、父が言った。
「ロドリク殿は四年前から見ていた。使いたいから来たのではない、と父は思う」
断定ではなかった。「父は思う」と言った。自分の意見として述べた。押しつけではなかった。
アシュリーは何も言わなかった。
父の言葉の重さを、黙って受け取った。
反論もしなかった。否定もしなかった。ただ、それを置いておいた。胸の中に、そっと置いた。
また鳥が鳴いた。今度は近かった。庭の木の中にいる鳥だった。アシュリーはその方向を見た。木の葉の間に、小さな影が動いていた。
ではどこにいるのか。
という問いが、静かに浮かんだ。
ここにいる。実家の庭にいる。父と並んでいる。それは安全だった。しかしずっとここにいるのか。ここから出ないのか。実家の庭が世界の全てになるのか。
それは、違う気がした。
台帳を白紙にした夜から、何かが動き始めていた。自分でそれを決めた。四十八回目の「従妹に譲ってくれ」の後、ようやく自分の手で線を引いた。それは終わりではなかった、とアシュリーは思った。何かの始まりのような気がしていた。何の始まりかは分からなかった。しかし、止まる理由はなかった。動き始めたなら、止まらない方がいい気がした。どこへ行くかは分からなくても。
庭の遠くに、母の姿が見えた。花壇の前に屈んでいた。何かを植えているようだった。こちらには気づいていなかった。ただ静かに、自分の仕事をしていた。光の中に、春の色の花があった。
アシュリーはそれを見ていた。
どこかへ行く、ということが、今は怖くなかった。使われるかもしれないという恐れは残っていた。しかし同時に、自分の足で選ぶという感覚も、少しずつ戻ってきていた。台帳を白紙にした時と同じ感覚だった。何かを手放した後の、静かな空白の感触だった。
父は何も言わなかった。並んで立ったまま、娘が何かを考えている時間を、ただ待っていた。急かさなかった。答えを求めなかった。父も庭を見ていた。母の方向を、静かに見ていた。
風が草を揺らした。遠くの木が、ゆっくりと枝を動かした。
翌朝、アシュリーはロドリクへの手紙を書いた。




