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『また従妹に譲ってくれ』が四十八回目だったので、儀礼台帳を白紙に戻しました  作者: ヲワ・おわり


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20/70

第20話 北方に来てほしい

全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。

少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

 ロドリクは少し間を取ってから、静かに答えた。


「婚約者のいる女性に、声をかける立場ではないと思っていました」


 アシュリーは動かなかった。


「あなたには婚約者がいた。あなたの選択を、尊重しなければならないと思っていました。外側から踏み込む権利は、私にはなかった」


 声が低く、落ち着いていた。弁解ではなかった。ただ、当時の判断の根拠を、正直に並べているだけだった。


 アシュリーはそれを聞きながら、胸の中に何かがこみ上げるのを感じた。感情的なものではなかった。もっと静かな何かだった。四年間、見ていた人間が、声をかけなかった理由が「あなたの選択を尊重したかったから」だった。そのことの、重さのような、軽さのような、奇妙な感触だった。


 婚約者がいた。だから言わなかった。それだけのことだった。踏み込まないことが礼儀だと思っていた。そういう判断を、四年間続けた。単純な理由だった。しかしその単純さが、逆に何かを語っていた。複雑な計算ではなかった。ただ一本の筋が通っていた。


「しかし台帳が空白になった時、初めて動けると思いました」


 ロドリクが続けた。


「通知が届いた夜、すぐに来ることを決めました。遅れるべき理由がなくなったと感じました」


 三日間、という言葉が蘇った。通知が届いた日から、三日間待っていた。ヴェルヴェント家に訪問の申し入れをするための、礼儀的な猶予だったのかもしれなかった。急がなかった。ただ、来ることは決めていた。台帳が白紙になった、その瞬間に。


 窓の外で風が吹いた。木の葉が揺れた。室内は静かだった。シエルは部屋の端に控えていた。茶の準備を整えながら、しかし何も言わなかった。状況を見ていた。察していた。


 ロドリクが姿勢を少し変えた。それまでより真直ぐな構えになった。


「北方に来てほしいと思っています」


 アシュリーは顔を上げた。


「ノルディア領は遠い。王都とは離れています。冬は長く、社交の場はほとんどありません。王都の政治とは切り離された場所です」


 ロドリクは続けた。言葉が、迷わなかった。事前に整えてきた言葉だと分かった。それでも言葉に血が通っていた。原稿を読んでいる人間の声ではなかった。


「強要したいわけではありません。来てほしいとは言いましたが、それはあなたが決めることです。ただ、休める場所を用意できると思いました」


 休める場所。


 アシュリーはその言葉を、心の中で一度繰り返した。


「ノルディア領には、補佐を必要としている仕事があります。北方の儀礼慣行は王都と異なり、整理が追いついていない部分も多い。あなたの力が必要だと言えば嘘になります。ただ、あなたのような仕事のできる人間を必要としている場所はある」


 押しつけがましくなかった。ただ事実を並べていた。仕事の話をしているのか、休む場所の話をしているのか、境界が曖昧なようで、そのどちらも本気であることが伝わった。アシュリーを引き込もうとする言葉ではなかった。ただ、選択肢があると告げていた。


 アシュリーはしばらく黙っていた。


 北方。遠い場所だった。地図で見たことはあった。王都から馬車で何日もかかる距離だった。そこにノルディア領がある。長い冬のある場所。政治から切り離された場所。華やかな儀礼の場でも、権力の駆け引きの舞台でもない場所。


 仕事を使われてきた四年間を思った。道具として扱われることが当たり前になっていた時間を思った。その疲れが、今さらのように体の奥底に沈んでいた。婚約者は四十八回、別の女性を押し立ててきた。四十八回、アシュリーは譲った。その間も台帳は整え続けた。仕事には誇りがあった。しかしその誇りも、使われる誇りだった。


「……考えさせてください」


 アシュリーは言った。


 今まで誰かに「考えさせてほしい」と言ったことが、どれほどあっただろう。答えを急かされることが常だった。返事は早いほどよく、迷うことは弱さの証だと思ってきた。それなのに今、自然に言葉が出た。自分のペースで決めたい、という気持ちが、言葉になった。誰かに許可を求めることなく。誰かの期待に先回りすることなく。


 ロドリクの表情が、少し和らいだ気がした。批判の色はなかった。待てる人間の、ただ静かな顔だった。


「時間はあります」


 ロドリクが言った。あっさりとした言い方だった。


 ロドリクは立ち上がった。礼を述べた。短く、丁寧に。それからテーブルの上に名刺を置いた。王都での連絡先が書かれていた。


「用があれば、そこへ」


 それだけ言って、ロドリクは部屋を出た。


 扉が静かに閉まった。


 アシュリーは動かなかった。テーブルの上の名刺を見た。紙の質が良かった。字が整っていた。余分な飾りのない、しかし品のある文字だった。名前と、王都の宿の住所と、それだけが書かれていた。


 シエルが近づいてきた。アシュリーの隣に立って、名刺を覗き込んだ。少し間を置いてから言った。


「あの方、ちゃんとした人ですね」


 アシュリーは何も言わなかった。


 否定はしなかった。シエルの言葉に、反論する理由がなかった。ちゃんとした人だと思った。言葉が重かった。軽い嘘がなかった。言わなかった理由も、来た理由も、全て筋が通っていた。


 シエルが茶を片付け始めた。静かに動いた。何も聞かなかった。それがシエルのやり方だった。必要な時に、必要なことだけを言う。それ以外は黙っている。


 アシュリーは窓の外を見た。午後の光が傾いていた。庭の木が、風に少し揺れていた。


 北方。


 まだ答えは出ていなかった。しかし、考えることを恐れてはいなかった。それが、今日の自分と昨日の自分の、わずかな違いのような気がした。


 翌日、アシュリーは実家の庭に出た。春の朝だった。露がまだ草の上に残っていた。父が隣に来た。二人は並んで庭を見ていた。しばらく何も言わなかった。それから父が口を開いた。


「どうするつもりだ」

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